第29話

「夏の終わり」


翌日私はおとうさんから車を借りて子供達とドライブに出掛けた。

原生林の森の奥にある青い池や大きな滝を見た後、千畳敷の岩場で海を見ながら少し遅い昼食をとった。

お盆が過ぎた途端、空も海も過ぎ去った夏に吸い取られたように色を変え、風は太陽の熱を拒否して冬の気配を帯びながらそよいでいた。

陽太も南海江も私が作ったおにぎりを口いっぱいに頬張りジュースで流し込んだ後、早々に昼食を終わらせると岩の間を子犬のように飛び回った。

私はベンチに座りながらその光景を見ていた。

ここにあなたが居たらと思うけれど昨日の夜で涙を流し尽くしたからなのか、もう悲しみは湧いては来なかった。


陽が傾いて波間の光が鋭角に散りはじめたとき私達は今日の最終目的地に向かった。

あなたのノートから書き写した地図を頼りに海沿いの国道から脇道に逸れた。

あなたが汗をかきながら自転車で登った砂利道は姿を消していて道は奇麗に舗装されていた。

(目印の百万篇の石碑から熊笹の森を抜ければ大きな栗の木がある広場に抜ける。そこが僕の場所だ)

つい最近整備されたのか熊笹の森は無くなっていて、百万篇の石碑の脇には「展望台」という看板が立てられていた。

五台程止められる駐車スペースに車を置くと子供達は一目散に駆け出した。

丘は緩やかに傾斜してその向こうは崖になっていた。

太い木組みの垣根によじ登った陽太は感動の声を上げた。

「ママ!はやく!」

南海江に手招きされて私も垣根に両手を着いて海を見下ろす。

黄金に揺れる波。弧を描く水平線。

恐らくこの景色をキャンバスに描けばただ退屈な絵になるだけだろう。

たおやかな風と、草木と土の匂い、微かに聞こえる波の音と鴎の鳴く声。

それら全てが感じられるこの場所でなければ意味がない。

私はゆっくりと深呼吸をし、振り返って丘を見渡した。

その場を離れた私は栗の木まで歩き、その幹に手で触れた。

あなたは確かにここに居た。ここで泣いて、笑って、叫んで、そして誓った。

目を閉じて昨夜読んだノートの事を思い出していたとき、陽太と南海江が私を呼ぶ。

山の端から夜が忍び寄り、空には紫紺の帯が広がっていた。

もう一度垣根に手を掛けたとき私の身体は硬直したように動けなくなった。

波光は更に色濃くなり、全てが紅く染まっていた。

溶けてしまいそうな太陽は、そう、とても大きい。

何かの錯覚かも知れない。でもあなたの言った事は本当だった。

南海江が私の手を握って泣きそうな声をだした。

「パパ・・・」

私は陽太と南海江の肩を抱きながらいつまでも夕陽を見ていた。

(君の選ぶものに間違いはない。君の選ぶ道に間違いはない。)

あなた。今夜、全てを話します。


蛙も虫も鳴かない静かな夜。

陽太は茶碗を持ちながらドライブで行った先々の事をつぶさに報告した。

おとうさんとおかあさんは目を細めながら相槌を打つ。

「お兄ちゃん、喋るか食べるかどっちかにしなさい」

南海江がおしゃまな口調でそう言うと陽太は悔しさ紛れに舌を出した。

「ナミさ、今日岩場にいたフナムシが怖くて泣いたんだよ」

「泣いてないもん」

「嘘言うなよな。ベソかいてママの所に走って行ったじゃん」

「泣いてないもん!」

おかあさんが二人の会話に割って入った。

「ヨウ君はフナムシ、平気なの」

「平気さ。全然怖くないよ」

「おばあちゃんは気持ち悪くて大嫌い」

他愛も無い会話が部屋を包み込む。優しい時間が流れて行く。

私が毎年繰り広げられる暖かな光景に身を浸しているとき網戸から震わせるほどの冷たい風が忍び込んで来きた。まるで未練を断ち切れというみたいに。

子供達はここに来る度雨を待ち侘びた竹のように成長してゆくのが分かる。

でも私はあの時のまま。何時までも過去にしがみ付いて一歩も前に進んでいない。

この五年間、私は一体何をして来たのだろう。子供達のために一生懸命働いてきて私自身の事など置き去りにして良い母親を演じてきただけなのだろうか。

それがあなたに対する愛情の証だと思い込み、私の本当の気持ちを隠して生きてきた。

それは罪であり、裏切りだと思って目の前の大切な人を真剣に見ようとはしなかった。

あなたの恩に報いたい、あなたから託された二人の子供を立派に育てたい。

いいえ、そんなの奇麗事、一途な女である事を世間に見せ付けているだけに過ぎない。

多分私はあなたの事は心の中で既に整理はついていて、私が私の望む物を手に入れた時、唯一やすらげるこの場所を失う事が怖かったのだ。

あなたに会いたくても会うことはできない。でも、私の孤独や、疲れを癒してくれるおとうさんやおかあさん、心を許せる古川家の人たちにはいつでも会える。

あなたの事を理由にして、まるで湯治に行くような気持ちで心優しい人達を利用していただけなのだ。

あなたは恐らくずっと、こんな私に怒っていたでしょ?

あなたが母のところに一緒に行こうと手を差し伸べたときに私が子供みたいに駄々をこねたあの時と変わらない私を。

あなたの思いに答えるために、陽太と南海江が誇れる母親になるために、私はこの暖かな場所を失っても、今、前に進みます。


夕食の片付けを終えたときおかあさんはお茶を入れてくれた。

「はい、お父さん」

畳に新聞を広げていたおとうさんは「うん」と軽く礼を言ってお茶を啜った。

「これね、ヨウ君とナミちゃんには内緒よ」

おかあさんは二階に居る子供達に気兼ねしながら水羊羹を載せた小皿を私にくれた。

「お父さんも食べる?」

「いらん」

スプーンを持つおかあさんの手。老眼鏡をかけながらも虫眼鏡で新聞を見ているおとうさん。二人とも心なしか小さくなり、白髪も増えていた。

その時、私の知らないうちに老いていた母の死顔が脳裏に浮かんだ。

「どうしたの。食べないの?なんか具合悪そうね・・・」

テレビも扇風機も電源が切られて部屋の中には柱時計の音しかない。

初めてここに来た時はこの不自然過ぎる程の静寂が怖かったけれど今では心がストンと落ち込むような心地よさを感じる。

私は意を決し、膝を整えておかあさんの正面に座り直した。

「おかあさん、おとうさん・・・。お話があります」

「あら、あらたまっちゃって、なに?」

私はおとうさんの視線を感じながら言葉を切った。

「私、好きな人ができました。その人は、ずっと私を支えてきてくれた人です。その人と結婚するかどうかはまだ分かりません・・・、でも、もし彼がそれを望むのなら、私、その申し出をお受けするつもりです。だから、もう、この家には・・・」

この家には来る事ができません、そう言いかけたときおかあさんは私ににじり寄ってきて、私の両手を額に擦り付けるようにしっかりと握り締めた。

「ああ、よかった。本当に、よかった・・・」

そう言ったおかあさんの目尻には涙が浮かんでいた。

「私も、お父さんも、遙ちゃんの事だけが心配でしょうがなかったのよ。健一郎のせいで辛い思いばかりさせちゃって・・・」

「いいえ、私は」

おかあさんは私の言葉を遮って頭を振った。

「その人、きっと良い人よね。だって遙ちゃんが好きになった人だもの、ねぇお父さん」

お義父さんは眼鏡を外すと目を瞬いて大きく咳払いをした。

「おめぇ、二つ森の吉田さん知ってるだろう」

「ええ、知ってるけど」

「その吉田さんがよ、この間、昼間っから酒のんでクダ巻いてたんでどうしたんだって聞いたらよ、なぁに、二十歳になった娘が孕じまって、嫁に出さなきゃなんねぇって喚きやがって」

私とおかあさんは突然の話しにきょとんとしながら続きを聞いた。

「俺、言ってやったんだよ。目出度い話じゃないかって。そしたらあいつなんて言ったと思う。娘のいないお前にはオレの気持ちが分かるめぇ、だとさ。何言いやがる、ちきしょうめ!」

そう言うとおとうさんは乱暴に新聞を折りたたみ、ぴしゃりと戸を閉めて出て行った。

「まったく、しょうがないわねぇ。ごめんね遙ちゃん」

私は胸が熱くなって言葉も出ず、俯く事しかできなった。

「そう、渡したいものがあるの」

おかあさんは私の手を離して隣の部屋に行くと直ぐに黒い小さな箱を持って戻って来てた。

「これ、あなたに持ってて欲しくて・・・。大事にしてちょうだい」

蓋を開けると中には翡翠を金で縁取ったブローチが入っていた。

そんなに高価なものではない。しかし私みたいな人間がが触ってはいけないものだと感じた。

「これはね、私のお母さんから私に、お母さんはそのお母さんから。私で三代目。だから遙ちゃんで四代目ね」

代々受け継がれてきたそのブローチは例え戸籍が変って遠くに行っても母と娘であると言う証。幸せでありますようにと願いが込められたお守り。

「でも、私は・・・、私には貰う資格は、ありません」

所詮私は血の繋がりのない形だけの親子なのだから。

「私達には娘がいないから健一郎のお嫁さんにって思っていたんだけど、東京からお嫁さん貰うって聞いたときには正直どうしたものだろうって・・・。でも遙ちゃんに初めて会ったときから心に決めていたのよ。ほんとうに、あなたにだったらって・・・」

私は躊躇して手の中の箱を見詰めた。

「それにこれ、あげるんじゃないのよ。預かってもらうだけ」

「預かる?」

「そう。ナミちゃんがお嫁に行くまでね」

「お、お母さん・・・」

私の中の湖はその時青空を映し、もやもやしたものが全て消え去ったた。

「はい、大切にお預かりします」

お母さんは満面の笑みで大きく頷いた。

「いつでも帰ってきていいのよ。だってあなたは私達の娘なんだから」

私はお母さんの膝の上で泣いた。

それまで流した涙は冷たくて苦しい涙だったけれど、今流している涙はとても暖かくて希望に満ちた涙。そして思った。このブローチを南海江に授けるとき私は胸を張って彼女に言いたい。私を含めた五人もの思い、それ以上の愛情を子に注ぎなさいと。



故郷で過ごす最後の日。

私達は早めに夕食をとってお寺に向かった。

境内には既に大勢の人達で賑わっていて、私達もその間を縫って本殿に入った。

手続きを済まして燈篭を受け取る。

お父さんとお母さんはご両親の。

私はあなたの燈篭を。

外に出ると陽太と南海江は興味深そうにそれを眺めて「早く、早く」と急かす。

私はお父さんからライターを借りて灯篭の中の蝋燭に火を点けると、夕闇の中で蓮の花と御釈迦様の絵柄が浮かび上がった。

暫くして私達は紫色の袈裟を掛けた住職の先導で境内を出て港へと歩いた。

その先々で他のお寺から同じく燈篭を抱えた人たちと合流し、国道沿いの歩道は蝋燭の灯りが揺らめく幻想的な列をなした。

燈篭流しの会場に着いた時にはもうすっかり陽は落ちていて海面には港の灯りと燈篭の火が揺れていた。

「じゃぁ、気をつけて。海に落ちないようにね」

私はお母さんから祖母の燈篭を受け取った。

「いいんですか?本当に」

舟に乗っている叔父さんが私達を手招きして早く舟に乗り込むよう催促する。

「別に決まった係りがいる訳じゃなし、いいんだよ」

「すみません、お父さん」

陽太と南海江は大喜びで舟に飛び乗り、私も後に続いた。

私達はひとつひとつ慎重に渡された燈篭を受け取り舟底に置いた。

三十個ほど積み終えたとき五人のお坊さんが岸壁に整列した。

淀みない透き通った鐘の音がスピーカーから流れるとそれを合図に七隻の舟が一斉に動き出した。

黒い海面の上をゆっくりと滑り、防波堤を背に舟は一列に並んだ。

私と子供達は港の方を見ている。舟の縁で海水の撫でる音がし、風は潮の香りを漂わせながら流れて行った。

お坊さん達が深々と頭を下げた後、鐘を鳴らしてお経を唱え始めた。

周りにいる人達も私達の方に向かって胸元で手を合わせ祈っていた。

「さぁ、始めようか」

叔父さんの号令で燈篭を海面にゆっくりと置いて行く。

この燈篭にはそれぞれ大切な人達の魂が乗せられているのだと思うと疎かには出来ない。

陽太も南海江もそれを理解しているのだろう。真剣な顔つきで転ばさないようにひとつひとつ慎重に取り扱っていた。

他の舟からも流れ出した燈篭は不思議な事に一列になって外海へ向かって進んで行った。

やがて最後の一つを私と陽太と南海江の三人で海面に置いた。

「パパ、またね」

南海江がそう言って送り出すと燈篭は名残り惜しそうにその場に留まった。

「あれ、パパどうしたのかな。帰りたくないのかなぁ」

私は南海江の頭を優しく撫ぜたあと手を合わせ、心の中で偽りのない今の気持ちをあなたに伝えるとあなたの燈篭は安心したかのようにまた流れ出して列の最後尾に付いた。

燈篭の列は防波堤の間を抜け外海へ流れる。その向こうには残照が薄っすらと水平線を照らしていた。

陽太が私をちらりと見てはにかみながら、それでもはっきりとした口調で言った。

「お母さん。あのおじさんの事なんだけど・・・こんどちゃんと紹介してよ。おじさんんかわいそうだよ」

私の事をお母さんと呼んだ事よりも彼の事を口にした陽太に私は驚いた。

何度か三人で食事をした事があったけど二人には私の会社の人としか言っていなかった。

「僕まだ子供だから、お母さんやナミのこと、ちゃんと守れないと思うんだ・・・。でも、あのおじさんとなら・・・僕、仲良くなれると思う」

陽太はまた私の顔を見てにこりと笑った。

「ナミもおじさんのこと好きだろ?」

「うん。ナミも好き。だってお菓子たくさんくれるもの」

「なんだよ。お菓子くれたらだれでもいいのかよ」

「ちがうもん!」

私は二人を後ろから抱きしめて背中に顔を埋めた。

「ありがとう。陽太、南海江」

一滴涙を流し、私は顔を上げて立ち上がった。

大きく息を吸う。

そうすると透明で清々しい風が私の中を通り過ぎた。


あなた・・・。私はもう迷いません。私の居るべき場所で私は生きて行きます。

でもね、あなた。

私は必ずここに戻って来ます。

だってこの町は私の大切なお父さんとお母さんがいるたったひとつの故郷なんですから。

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夏の終わり 道人 @mitihito

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