第28話

「丘 夏の終わり」


「始めに。 僕が絵を描いていたり、歌を歌っていたり、小説や詩を書いていたなら、

僕が死んだ後も作品はこの世に残り、いつか、誰かが評価してくれて僕と言う存在が明らかになるだろう。もしかしたら伝説として語り継がれるかもしれない。

しかし、たかがサラリーマン風情が早死にしたところで歴史に名を残す事などありはしない。だけども、僕は確実にこの世に存在していた。誰かと関わって生きてきた。

感謝したい人が沢山いる。謝りたい人が沢山いる。

僕はそれを自ら確認し、その証をここに残したい」


特徴のあるあなたの文字でそう書き始められたノートの一冊目には一番古い記憶から書かれていた。

保育園に通うことになったあなたはその最初の日に家が恋しくて脱走した。

「おかあちゃん、おかあちゃん」

と泣きながら歩いているときに保母さんに保護されてその日は家に帰ったけれど、次の日も、その次の日も脱走して、業を煮やしたおかあさんは保母さんが止めるのを無視して保育園の柱に縛り付けてしまったそうだ。

私は子供の頃のあなたを想像しながら込み上げてくる笑いを必死で噛み殺した。

小学校に入り、遠足で池に落ちた事や、運動会の徒競走で一位になってご両親に褒められた事、友達と初めて喧嘩した事等が書き綴られ、そして中学校の思い出に移った。

初恋で知った異性への煮えたぎる思いと失恋で知った挫折とご両親の本当の愛情。

嬉しいときも悲しいときもあなたは一人丘に登って海を見下ろしていた。


「そこから見る景色が最高だ。その丘は俺だけの秘密の場所だった。」


何時か一緒に行こうと約束していたのにここに帰って来ても時間が無くて結局行かず仕舞。


高校に入ったあなたは中学の時とは打って変わって勉強の虫になった。

それなりに恋をして付き合っていた人はいたみたいだけど所謂恋に恋している状態で、

「初恋のあの子に抱いた震え上がるような熱い気持ちにはなれず、ただ馴れ合いで付き合っていただけで、今では当時の彼女の顔さえ思い出せない。つまり、本当に好きではなかったのだ。それより俺にとっては恋より将来の進路の方が重要だった。家を継ぐか、就職するか、進学するか、そのいずれかで悩んでいたとき親父の


家を継ぐのも就職するのも何時だってできるだろ。今しかできない事をやれ


と言う一言で覚悟を決めた」


W大に受かった事はこの町で少しばかり話題になったらしく、町の広報誌の切れ端がノートに貼り付けてあった。


(古川健一郎君、W大学に見事合格!)


学生服のあなたはとても眠そうに町長と握手していた。


一冊目のノートはそこで終わり、二冊目、三冊目は東京での暮らしを、その殆どが私との思い出で埋められていた。

私は読み進めて行くうちに涙が止め処なく流れてきて、あなたの文字を追って行くことがとても苦しくなった。


「最後に。


僕の命はあと半年だったはずがそれより二ヶ月も多く生きている事が出来た。

この手記を認めているうちに生きていたいと思う理由が僕の中からこぼれでて、神様が情けをかけたのだろう。

だったら、ずっと書き続けようかとも考えたが、いい加減、書くことも無くなったし、心の整理もついたし、もう、いいかなと・・・


しかし、僕の人生の全てがたったノート三冊に収まるとは、正直、自分自身、笑ってしまう。二十八年の人生。こんなもんだろう。

だけど、古川健一郎という人間がどれだけ他人に助けられ、生かされてきたのか今更思い知り、ただ、ただ、「感謝」という気持ちでいっぱいだ。

こんなバカでどうしようもない人間を支えてくれた人達には、今はもう言葉でしかお返しできないことが悔しくてしようがない。


ありがとう。ほんとうに、ありがとう


親父、お袋・・・いや、父ちゃん、母ちゃん、ありがとう

古川一族のみんな、ありがとう

近江屋の父と母。ありがとう

僕の悪友達。ありがとう

会社の仲間達。ありがとう

僕に触れた全ての人達。

ありがとう。



遙へ


君が仕事を辞めて僕の傍に居たいと言ってくれたとき、僕は涙が出るほど嬉しかった。

ほんとうに嬉しかった。

生まれた僕を最初に抱いた人がお袋だったように、

死んで行く僕を最後に抱いてくれる人が君だったらこれほど嬉しい事がないと思っていたんだ。

恐らくそれが僕の最後の願いだったかもしれない。

君と僕だけだったなら君の思いを僕は素直に受け止めていただろう。

だけど、君はもう、一人で生きて行くことはできない。

陽太と南海江と共に生きて行かなければならないんだ。


親父とお袋のことだから君がこの家に居たいと言えば無条件で涙を流しながらその申し出を受け入れるだろう。

だけど、君の経験が活かされる仕事、ましてや現在の仕事と同じくらいの待遇で迎えてくれる会社などこの町にはありはしない。

あるとすれば僅かな時給でそれも君の能力など必要としない仕事しかない。

恐らく君はそんな暮らしに耐え切れないと思う。

それは仕事に対する事ではなくて、親父やお袋に対して申し訳ないと思う君自信の気持ちに対して。

僕も君がこんな片田舎で僕や親父とお袋に気を使いながら老いて行く姿を想像したくはないんだ。


僕は君に内緒で君の母親、望さんと何度か会っていた。

僕は望さんと病院で最初に会った時からとても好きになった。

君と同じ匂いがした。

やはり君の母親だと思った。

君はずっと望さんの事を否定して忘れようとしていたけれど、もう、そのことは充分分かっていると思う。

君の中には望さんから受け継がれた物と君が創りあげた新たな物が棲んでいる。

それはとても強くて正しくて、優しいものだ。

だから僕は君の申し出を断った。

そうする事が正しいと思った。陽太と南海江の将来に対しても。


僕は陽太と南海江を君に託す。

だけどね、気に病む必要はないよ。

君の選ぶものに間違いはない。

君の選ぶ道に間違いはない。


君は君の幸せのために生きたならば、陽太も南海江もきっと幸せになれる。

君は僕と出会って僕が死んだ時間よりずっと長い人生を歩まなければならないのだから、僕の事など思い出の一つとして心の隅にでも置いくれ。


遙、ありがとう。

君に会えて僕は生きがいの意味を知りました。

君に逢えて僕は、幸せでした。

ほんとうに、幸せでした。


それから。

あの丘へ行く地図を描いて置くよ。

結局君とは行けなかったからね。

ここに来てから僕も行こうと思ったけれど、我侭も言えないし。

僕の頭の中ではあの丘から見る夕陽が世界で一番きれいで大きくて赤い。

僕がプロポーズした時に君は疑っていたけれど、それは、ほんとうさ。

嘘だと思ったら陽太と南海江を連れて行ってみてくれ。



みんな!さらば!


○○年○月○日 

古川健一郎


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