アレグロ
南枯添一
第1話
カウンターに突っ伏していた男が何かを言った。「…いるか?」とでも言ったようだった。俺は気にしないで、自分のグラスを取り上げた。ウォッカは氷点下まで冷やすのが本式だが、残念なことに冷えてさえいなかった。空になったグラスを戻すと、カウンターの中でグラスを磨いていた、太った男が顔を上げた。彼は汚れたエプロンで両手を拭うと、何も聞かずに次の一杯を注いだ。
「…は燃えているか?」
隣の男がまた言った。俺はグラスの中の生ぬるいウォッカを見ていた。
不意に隣で男が身じろぎをした。無精髭で覆われた顔を上げると、胡乱な目付きで左右に見回し、最後に俺を睨めつけるようにした。
「パリは燃えているか?」
無視すればよかった。この手の連中に関わっていいことなんかない。けれど、
「燃えてなんかないよ」俺は答えた。それから、つい突っ込みを入れた。「おまえはヒトラーか」
髭の男は唇を歪めて笑い、油の浮いた顔を大きな手で拭うようにした。
「ヒトラーの台詞なんだってな」男はクツクツと笑い、
「連合軍によるパリの奪還が時間の問題になって、ヒトラーは焦土作戦を指示した。パリ市内の至る所に爆発物が仕掛けられて、爆破を待つばかりだった。けれど。けれど、パリは救われた……」
「ラピエール&コリンズだな」俺は言った。「戦争ノンフィクションの古典だ」
男は聞いていないようだった。しばらくして、
「でも、本当に……本当にはパリは燃えていないのか?」
「ああ」
「本当に」
「パリは燃えていない」と俺。「パリは燃えてないし、ロンドンも燃えていない。ベルリンもモスクワも燃えていない。それからニューヨークとロサンジェルス、ワシントンも燃えていない。東京と北京、ソウルもだ。ニューデリー、イスタンブール、ヨハネスブルグ、ストックホルム。それから、アルジェ、メルボルン。みんな燃えていない」
「……」
「逆にブエノスアイレスは燃えてるかも知れない。それから、モンテビデオにバルパライソ。サンクトペテルブルグも燃えてるかもな」
言い終えて、俺はグラスを取り上げて、中身を干した。太った男を目顔で制して、俺は止まり木を滑り降りた。これ以上酔うとマズイ。挨拶代わりに片手を、太った男に挙げてみせてから、俺は出口に向かった。
「でも、パリは本当に……」
追ってくるように髭の男がまた言ったが、俺は無視した。
「聞いてなかったのか」答えたのは太った男だった。
「パリもロンドンもモスクワも、それから北米は全部、燃えてなんかいねえよ」
彼はそこで一声、吠えるように笑ってから付け加えた。
「すっかり燃えちまって、何も残ってねぇからな」
男の答えは聞きそびれた。ゴーグルとマスクをはめ、フードを引き下ろすのに忙しかったからだ。それから、全身の体重を掛けて、分厚い金属の扉を押し開ける。塹壕に削り取られた、割れ目のような空から、灰色の雪が落ちてくるのが見えた。そして、手首に巻き付けた放射線カウンターが
アレグロ 南枯添一 @Minagare_Zoichi4749
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