これだけは知っていてほしい。僕は、困っているきみのことを助けたかった。僕にできることがあるならきみの役に立ちたかった。それだけなんだ。僕はきみが拾ってくれるようにわざと〈オスカー・オルフォイス捜索社〉のビラをまいた。でも、偽名できみに近づいて好意を持ってもらおうとしたわけでは絶対にない――。

「きみがベアトリーセを探しつづける姿を見ていた。僕なら力になれることがある。人に視えないものが視える僕なら、ほかにはない方法できみに協力できる。ただそれだけが、茶番の動機だった。今だからきみに言えることが一つある。ベアトリーセは生きている。亡くなってはいない。きみの周りにベアトリーセの魂はいない」

 抱える膝のうえでエーリカは激しくかぶりをふった。

「そんなことわかってる。ベアトリーセが……自ら死んだり、事件に遭って殺されたかもなんてこと、考えたこともない」

 ほんとうは考えたこともある。けれども、考えるそばから信じられないという想いが蓋をとじる。ベアトリーセはそんなに弱いひとではない。ベアトリーセまでがエーリカから永遠に去るなんてありえない。だから探す。だからエーリカは探している。ベアトリーセが戻ってくる日を信じるために。

「あなたは私を騙した。それが事実」

「だと思う。そのことで僕はきみに許されると思っていない」

 マッチを擦る音がする。

 深まる夕暮れを背に、彼の掌中でみじかく発火して炎は消えた。足元に転がっていたカンテラに、もう一本使って火をいれる。

 曇りきった硝子のなか、火は不安そうに揺れた。

 あの火は私。エーリカは思った。もっと堂々と燃えていたいと思うのに、いつも余計な風が邪魔をして私を叫ばせる。酸素の足りない感覚に私は身をよじらせる。そしていつのまにか誰かとの抜き差しならない関係のなかに閉じこめられているのである。

 膝を抱えたまま城壁にあたまをもたせてエーリカは彼を仰いだ。

「いくつか質問をするから正直に答えて」

「うん」

「どうして私に求婚した?」

 会ったこともない女に〈幽霊卿〉は一方的に結婚を申しいれてきた。クレーフェ伯爵家の長女としてのベアトリーセならまだわかるが――姉はとてもとても美人だし――次女のエーリカをなぜわざわざ指名してきた?

「きみしか見えなかったからだよ」

 彼は階段のなかばに腰を落ちつけて答えた。

「僕の視界において、生者と死者は区別がつかない。それはすべてが生きているように視えるということであり、あるいはすべてが死んでいるように視えるということだ。眼前の人を生きていると僕は思って話していても、周りからみれば何もない空間と会話している。そんな僕はごく普通の人々からすれば狂人だろう。多少の知恵がつくまでは本当に大変だった。使用人は次々と辞めていく。学友は気味悪がるか、からかいの的にする。それよりこたえたのは、たいてい自分が死んでいることに気づいていない死者が、僕との交わりのなかで現実を受けいれるその瞬間を視ていなければならないことだった。寄宿学校に入る前にはすでに、僕は間違うことが怖くて誰にも話しかけられない人間になっていた」

 エーリカはしらずしらず眉間にしわをためこんでいた。人見知りになる理由にもいろいろあるのだ、という感想が通りすぎてゆく。

「だが、きみは――。きみを、初めて見たとき、きみは間違いようもなくはっきりと、生きていたんだ。僕はそのとき初めて、生まれて初めて、生きている人間に出会ったと思った。知恵を働かせて観察する必要もなく、万が一間違えた場合の言い訳を考える必要もなく、きみの心臓に生きた血がめぐっているのを感じた」

「私をどこで……」

「二年前、芸術産業博物館で。きみは日本の染色型紙に見入ってた。……たぶんそのとき声をかければよかったんだ。でも話しかけ方が……わからなくて……」

 そこにも赤いカーテンがあればよかったのかも――くだらない感想ばかりがエーリカを通りすぎてゆく。

「ほどなくしてきみは巷で話題のひとになっていったけど、僕はまったく不思議には思わなかった。だってきみは他の誰とも違う。根底から存在が違うんだから、この世界では聖アグネスかバートリ・エルジェーベトの扱いを受けるさだめだ」

 話題のひとというか、〈悪女〉――。

〈悪女〉はまだいいけど、エリーザベト・バートリはあんまりだ。

 だけど、エーリカは少しだけ、奇妙な爽快さをあじわってもいた。暗い灰色の思い出のなかで真っ黒に塗りつぶされた自分が、彼の言葉のなかではぜんぜん別の色を塗られて登場する。その〈私〉は次元をまたいで堂々と世界を渡り歩いているように思えた。

「きみだけを見ていればいいと思った。きみさえ見ていれば大丈夫だ。生者か死者かわからないものが右を左を通りすぎていっても、きみが目の前にいれば僕は自分が生きていることを信じられる」

 あの氷青が、エーリカにがんがんつきささる氷青のまなざしが、意味も強さも変えずにいまもエーリカを見ていた。

「でもこれは僕の事情でしかない。それもわかっている。バーベンベルク公爵としての僕はおそらく、きみに何の利益ももたらさない。だから僕はオスカー・オルフォイスとしてきみに関わった」

 エーリカは瞼をとじた。意味と強さを知ったいま、そのまなざしの氷青いろにとても耐えられない気がしていた。

 うつくしいものは、おそろしい……それが自然の摂理。魅入られたらおわりだ。

「オスカー・オルフォイスは誰なの」

「オスカー、という名前はアドルフ・ロースを訪ねたときに居合わせて懇意になったオスカー・ココシュカという芸術家から借りた、というか名付けてもらった。彼とは同い年で、変人扱いされて生きてきた共通項があって、いつのまにか意気投合していたんだ。この件が解決したら顛末を戯曲化してくれるらしいよ。失恋劇が決定しているけれど」

 市松模様の床の舞台を脳裏にうかべる。

 精緻な人形たちがくりひろげる、〈幻視するグラフォマニアのための演劇〉。

 生者と死者の群れがこわくて外に出られない、人見知りで繊細な彼のための城のなかで――。

 正式なバーベンベルク公爵邸での彼は、〈幽霊卿〉をおそれる使用人たちの奇異の目に晒されているのだろう。エーリカはそこまで想像ができた。

「フロイト先生には、最初は患者としてかかった。もしかしたら……もしかしたら僕に視えて聴こえているものは、ぜんぶ僕の妄想なのかもしれない。エサウを天におくったあと、そんな考えが僕にとりついたんだ。それはそれであたらしい妄想のように、とりつかれた。むしろ僕はその考えにすがったのだと思う。僕の【階段】は、エサウの存在を地上から消してしまった。そういう意味では、僕はエサウを殺したことになる。ぜんぶ妄想だったらいいと、思ったんだ、でも……」

 フロイト先生は患者を診て、こう言った。

“君はみずからを特異で特別なものと思っているかもしれないが、無意識に支配されない人間などいないのであってね。精神分析は異端審問ではない。〈魔女〉を定義するように〈狂気〉を定義する者は、〈理性〉なるものの狂信者でしかないんだよ”――。

「現実であれ幻であれ、罪を犯すのは自分自身なんだ。希んだのは自分自身。それは罪にかぎらない……愛することも」

 エーリカは居心地悪くみじろぎする。

 かすかに呟かれた最後の言葉は、舞台上できこえた人形の独白に似ていた。

 彼に似た声で一度だけ喋った人形の、ぽつんとした台詞の響きがよみがえる。『それではきみというものがなくなってしまうよ』

 わずかの沈黙のあいだに、遺跡をすりぬける風の音は、夜の湿り気をおびた。

「幽霊を見分ける方法って、わかるかい」

 エーリカは瞼をとじたまま少し考えてみたが、首をふった。

「多少の知恵をしぼって僕があみだした判別法は、流行モードだった。服装を観察するんだ」

 ああなるほど、とエーリカは頷く。

「わかりやすく時代の古い幽霊って、そんなにいないんだ。想いをとどめていられる時間は無限ではないらしくて。だから本当によくよく観察しないとわからない場合も多い。ウィーンで流行モードの専門家といえばアドルフ・ロースをおいて他にはない」

 それが、わざわざ薫陶を受けに出向いた理由だったとは――。

「これで全部かな」

 彼が階段をおりてくる。アム・シュタインホーフ教会のときとは位置が逆だ。あのときエーリカは正しい判断をした。

 そのまなざしから一目散に逃げることは、正しい選択だった。

 今だって、それは変わらない。

「ひとつだけ、あなたに謝る」

 エーリカはそう言って、瞼をひらいた。

 目のまえに立ちすくむ黒衣の青年と、一度だけ無防備に視線をからめる。

「あなたは〈死神〉じゃない。お兄さんを殺したなんて言わないで」

 ふたりきりで育ったきょうだいを、どんなに〈私〉が愛しているか。

 彼の視ている世界も、経験も、エーリカのものではない。だが、これだけはわかる。〈私〉がどんなにそれを、失いたくなかったか。

「……ありがとう。もう二度と言わないよ」

 眩しそうに、そして不安げに彼はエーリカを見つめる。視線をほどいて、エーリカは立った。

「あなたの秘密を話してくれてありがとう、バーベンベルク公爵。でも、私の心は変わらない」

「……では」

「これでおしまいにしてください。何度申しこみいただいても、私は誰とも結婚するつもりはありませんので。それを直接お伝えできて、かえってよかったです」

 闇夜の下でも彼が蒼白になるのがわかった。

「待ってくれ、でも、このまますぐウィーンに戻っても、まだ謎も危険も除かれてはいない――」

 じろり、とエーリカは視線を戻した。

「いいえ。捜索は最後までやりとげてもらいます、オスカー・オルフォイス。ベアトリーセが見つかるまで、あなたを利用させてもらう。私は悪女だから」

「ああびっくりした。びっくりした。そういうことか、よかった。ああ……」

 額をおさえてオスカーがふらついている。

「でも〈幽霊卿〉からは逃げきってみせるから」

 だいたい、さっきの聖女の例えがいけない。

 教会の七聖女の一人である聖アグネスは、権力者の求婚を撥ねつけつづけて殉教した女性だろうに。

 ……いや、わざとだろうか?

「まあ、いいさ。考えてみれば結婚だけがきみを見ていられる方法じゃないし」

 あっさりと独り言を呟いてオスカーは先に階段をくだりはじめた。

「どういうこと」

 聞き捨てならずにエーリカは後を追いかけた。

「きみが望んでいるのは男女のあいだに仕事関係や友情関係がぶれることなく成立することだ。けっして色恋沙汰に流れることのない関係の成立。そうだろ? だったらその線で行けばいいだけのことさ。永遠の友情を築けばいい」

「可能だと思う?」

「逆説的に可能だよ。きみのそばにいることは、僕にとって切実な希望であり欲求なので」

 すぐそばにいたいから、それ以上はけっして近づかない。

 欲望が切実であるからこそ、誓いは強固である、と。

 とうてい無理なことを計画している自覚が、はたしてオスカーにはあるだろうか?

 それともエーリカは煙にまかれているのだろうか?

 またもや騙されようとしているのか?

「とうてい無理なことを、ときみは思っているのだろうけれど、これが無理ならきみの『ぜったい男性を好きにはならない』作戦だって無理だからな。まさか、女性は感情の抑制が可能で、男性には不可能だなんて言わないよね。ちなみにヴァイニンガーはこの反対のことを書いている。女性は非道徳的で、理性を持つのは男性だけだ、ってね」

 エーリカはぐっと喉をつまらせた。

「依頼の解決後にあなたの友人になれるとは一言も言ってない。騙されたことを許せるかどうかも、まだわからない。……とにかく、今はベアトリーセのことしか」

「それには同意する」

 真面目にオスカーは頷いた。

「解決しなければ何もはじまらない。何もはじめられないんだ」

 眼下には、デュルンシュタインの村の灯りのもとに滔々と流れるドナウ河が、蛇行しながら宵闇の霧に溶けてゆく。

 城壁に遮られるまえにエーリカはもういちど天に至る階段をふりあおいだ。

 すでに輪郭こそ闇に沈んでいたが、カルサイト純度の高い石材からぼんやりと発する白い輝きが、一筆刷いたように天へとのびてゆく。

「いずれこの階段は壊すつもりだよ。遺跡は遺跡にかえさないと……」

 懐かしい痛みと親しさに向きあう表情で、オスカーが同じようにふりかえっていた。

 いつでもこの道をふりかえるたびに、情景はあざやかによみがえって、彼をその半身との別れのときにつれもどす。

 その一段一段にゆくてを導かれ、エサウは昇っていったのだろう。

 純白の薔薇のかたちをした至高天へと――。








「お話ちゃんとつきましたのん?」

 ホイリゲの庭で解禁されたばかりの新酒を大盤振舞いしていたタマが、蔦の這う鉄柵ごしに首をのぞかせる。

「なんだったら従者として自己紹介をやりなおさんと……あっニセ社員のままでよさそうね」

 察した表情で残念賞の乾杯をかかげた。

「しょげるなよオスカー。おまえにしては世紀の偉業をやりとげた感あるぜ」

 期待値の低さにエーリカまで悲しくなってきた。

「タマも視えるひとなの」

 〈幽霊卿〉の従者ならば同じ能力をみこまれて雇われたのだとしてもおかしくないと思ったが、

「いや、俺は視えませんよ」

 ホイリゲの客たちの酔っぱらった歌と歓声に手を挙げながらタマはそう言った。

「だけど、タマは驚異的に勘がいいんだよ」

 そうだ。たしかに昨夜、〈幸運な七月〉の襲撃者に囲まれたとき、常人には聞こえない音や気配をタマは察知して動いていた。

 タマの勘は、研ぎすまされた鋼の武人としての能力だ。

「見えない聞こえない人間が、目の前にあるものと何のやりとりもできないなんてことはありませんからね」

 どこか意味深に笑って、タマは二人の後につく。

 道の向こうにはすでに、使いばしりの連絡をうけて用意を整えた城館の者が迎えにきていた。

「あらためて訊きたいのだが、エンゲルマンは視える人間だったんだろうか」

 エーリカも考えていたことだ。だが、遺跡でエーリカはあえてそのことを口にしなかった。できなかった。何故なら、ケーリンガー城址につくられた【階段】とエンゲルマン邸の【階段】とは、あまりにも設計思想が違う。

「……確かなことはわからない。誰にも知られないように隠していたのだとしたら、先生は本当にうまく隠しきっていた、と思う。でも何となく、そういうことじゃない、という気がする」

「そういうことじゃない、とは?」

「あのとき私が説明したように……先生の【選別の階段】は建築家の作品。あくまでも、先生の思想をかたちにした芸術」

 エーリカは、ゆっくりと慎重に考えながら喋った。

「あなたの【階段】のような、誰かのためにつくったものではない」

 地上という踊り場でさまよう霊魂を、天界あるいは地獄に送りだすための【選別の階段】。

 そこには、祈りがない。

 代わりにあるのは、〈地獄行き〉という可能性だ。

「死者の魂のための機能であると同時に、それは生者の内省をうながすための装置。聖職者の言葉がそうであるように」

 ふたつの【階段】の設計思想はまったく違う。

 目的も、それを造りあげた人間のみている世界も。

「だから先生が視える人だったとしても、それは先生にとって小さなことだったはず。先生は間違えずに生者の世界を見ていた。建築家の視線でウィーンの街を、建物を見て、そこに生きる人々を観察していた」

 あなたとは違う。

「だとしたら、あなたは残念に思う?」

 オスカーは、先生に親しみを抱きかけたのだろうか? エーリカの考えが外れているほうが、〈幽霊卿〉の孤独は和らぐのではないだろうか。もしも本当に、同じ感覚をもつ人間がいたのだったら。

「いや……」

 オスカーは氷青の双眸を難しげにほそめた。

「ただ思ったんだ。エンゲルマンも、僕と同じ理由できみを」

「それは絶対にない」

 遮るようにエーリカは言った

 即答に驚いてオスカーが瞠目した。

「どうして」

 重ねてエーリカはかぶりをふる。

「それは、ない」

「エーリカ……?」

「ない」

 ないのだ。

 エーリカは狭い道のまんなかで歩みを早めた。

「エーリカ」

「……」

 うつむいて追い抜くとき、肩のぶつかる寸前でオスカーが身をかわした。

 『僕の体には触るな』という約束があった。そのとき、遺跡での質問の数は充分でなかったと気づく。

 触れてはいけない理由を聞いていなかった。

 もちろん、彼のすべてを知る必要などない。

 〈私〉の過去のすべてを教える必要があるとも思わない。

 エーリカは古跡のふもとに抱かれた小さな美しい村の夜道で、霧のなかに逃げこむように歩いていった。

 けっして誰にも見られたくない表情を、夜の闇に隠して。






 いえ、あれは事実ではありません。

 断じて私は姉から先生を略奪してなどいない。

 私は先生の気持ちを受けいれませんでした。

 私は先生をではなくて、先生の建築を愛していたから。

 でも姉は……姉はどう思っていたのかわかりません。


 ベアトリーセが先生と私の関係をどんなふうにみていたのかは、わからないのです――。





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