三  白妙のバラのかたちに


「そなたは清浄な身で 別にさまたげもないのに、

 下界にとどまっているとしたら

 そなたにとってもおかしなことでしょう、

 それは天から降った炎が、地上でめらめら燃えながら

 ひっそりしているのと同じことですから」

                ――ダンテ『神曲』天国篇






 滔々とながれるドナウの水のおもてに、ゆりかもめの群れが遊んでいる。

「メルクまで行くの?」

 さっき発券所でタマが言っていた地名を思いだし、エーリカは船べりからふりかえった。

「いや、そのまえにデュルンシュタインで降りる」

 黒いローデンコートの襟ぐりを立てて首をちぢめながらオスカーが答えた。

 ボルサリーノのフェルト帽の下で、死神のうつくしい貌がいまにも氷結地獄へと持っていかれそうに蒼ざめている。

 河のおもてをふきすさぶ風がその金髪を容赦なくなぶった。

「母方の縁所なんだ。子供時代を過ごした家がある。……さ、ささ寒いな、ここは。船室に入ろう」

 エーリカたちは、深夜のグラーベン大通りを走りぬけ、政治結社〈幸運な七月〉の包囲から脱出することに成功した。追っ手はしんがりのタマが踊りながら斬り捨てていった。三人はそのあと王宮方面には向かわず、正反対のドナウを目指した。オスカーの指示は賊の男にわざと聞かせた偽情報だ。汽船駅の施設に潜んで朝を待ち、始発の遡上船に乗りこんだ。

「ねえ。いったいシャシュ・タマーシュは何者?」

 あの踊り、あの剣さばき、そして無双の強さ。敵を屠りさるときのタマは完全に瞳孔がひらいていた。

 きっと血をみるのは初めてではない。

「僕もよく知らないが」

「知らないの?」

「小さいころに売りとばされてロシアの永久凍土だかインドシナだかで苦労したらしいが、このへんの話は訊くたびに言うことが違う。逃亡から逃亡、生き抜くわざを磨きながら旅をして夢にまでみた故国に辿りつくなり最初に会ったのが僕、というのは本当らしい」

 それであの刀……。

「助けてあげたの?」

「どうかなあ。僕はずいぶん助けられているが」

 階段を降りて船室に入ると、端正な顔つきの黒髪黒瞳の青年が熱心に古い新聞のパズル欄を解いていた。

 武旦の化粧と衣装では目立ちすぎるので、紳士の格好に着替えずみだ。夜明けまえに起こされた下町の仕立て屋はタマの知りあいだそうだ。顔の広さも生き抜くわざのひとつだろう。

「どうして人間は旅行に出るとパズルがしたくなるんでしょうねえ」

「したくなったことないけど」

「ないな」

 むしろ現在は、エーリカ自身が難解なパズルの渦中に放りこまれている気分だ。

「頭を使わないと今の状況を打開できないのは確か」

 呟いて、エーリカはオスカーを見返った。

「何故こんなことに?」

「うーん」

 生返事をしてオスカーは向きあいのタマが掲げる新聞の折りたたまれた裏側をぼんやり見つめている。何年も前の日付の『ラ・フランス』紙は、誰かが置いていったまま隙間にでも落ちていたものだろう。

「ああ」

 ふと、目のまえに大蜘蛛でも降りてきたように瞠目し、オスカーはコートから【Julius Felix】の浮かんだメモを引っぱりだした。

「……ユリウス・フェリックス! 死んだ皇太子だ!!」

 エーリカは少し離れた隣で首をかしげる。

「どこの?」

 当地の皇太子の名はフランツ・フェルディナント。そのまえに愛人マリー・フォン・ヴェッツェラと情死した皇太子の名はルドルフだ。

「我が帝国のだよ。ルドルフ皇太子が政治批判記事を寄稿するときの筆名がユリウス・フェリックスだった」

「ルドルフ皇太子?」

 物心もつかないころに亡くなった皇太子はエーリカにとってすでに歴史上の人物である。

 その父であるフランツ・ヨーゼフがいまだ帝国の至高の座にとどまり、国民の敬愛のなかで古き佳き絶対君主像を体現しつづけているとしても。

「だったらオスカー、さっきの人たちは、ルドルフ皇太子の筆名をもじって結社名にしたことになる。〈幸運な七月Glücklich Juli〉と名乗ってた。フェリックスはラテン語で幸運。ユリウス・カエサルの誕生月からきている七月」

 そこまで言ってエーリカは、まるで散歩中に生垣のそばで蜂の大群に遭遇したような顔になった。「だから……だからつまり、さっきの人たちって、ものすごく面倒そうな人たち?」

 ルドルフ皇太子は、偽名をもちいて過激な政治主張をくりかえしたくらい、帝国の現状に不満や嘆きを抱いていた人物だ。ルドルフ皇太子の政治思想は実の父であるフランツ・ヨーゼフのそれとまったく相容れることがなかった。

 暗号のようなかたちでその名を冠した政治結社が、穏当なものであるはずがない。

「しかし何故、いまさら二十年も昔にみっともない死に方をした皇太子なんか……?」

 辛辣にオスカーが眉をもちあげる。

 1889年、ルドルフ皇太子は父親との不和と政治的不遇のうちに、マイヤーリングの狩猟館で愛人とともに遺書をのこしてピストル自殺をした。

 世にいう『マイヤーリング事件』である。

「暗殺だったっていう説もある」

「僕はその説はとらない。残された原稿や逸話の類いから分析するに、ルドルフ皇太子は人間的な人物だったと思う。人間的な悲劇に至ることにまったく違和感がない」

 表情の辛辣さとはうらはら、ほどにはルドルフ皇太子のことは嫌いじゃないようだった。

「私たち、監視されていたのかも」

 エーリカは短い髪先を目線につまみあげながら呟く。

 ずっとエーリカのまわりには、不穏な結社の目がうろついていたのかも知れない。

「オスカーが私と一緒に先生の家で何かを知ったと、そう彼らは思っていたみたい」

 エンゲルマン邸をオスカーと訪れたその夜に襲撃されたのは、そういうことだろう。

「あの家で得られた手がかりは、エンゲルマンと〈幸運な七月〉に何らかの関係がありそうだということだけだ」

 【Julius Felix】そして【女は存在しない】――二つの言葉を伝える一枚の紙を見つめ、

「七月以外は不運でいてくれるといい。必ずアジトを見つけてやる」

 と、オスカーは言った。






 薄暮のころに三人はデュルンシュタインの船着場に降りたった。

 オーストリア北部ヴァッハウ渓谷の一隅にあるデュルンシュタインは、山城の砦に見おろされた小さな村だ。

 船着場から城壁の下のトンネルをくぐって村の大通りを過ぎ、葡萄畑をとおりぬけつつ斜面をのぼると、村を象徴するケーリンガー城址までは十五分もかからずに辿りついてしまう。朽ちた十二世紀の城はドナウをわたる船からも、緑の山に埋もれかけた遺跡のすがたを仰がせていた。砦の機能を併せもつ石積みの城は、三十年戦争の時代に廃墟となった。

 かつてこの城には、かのリチャード獅子心王が軟禁されていたこともあるという。

「尤も、身代金が届けられるまでリチャード王は優雅にのんびりワインを飲んで暮らしていたのだそうだが」

 ケーリンガー城をしようと言いだしたのはオスカーである。

 村には彼がそこで育った縁者の城館があるが、身を落ち着けるまえにきみに見せたいものがある、と。

「おまえもワインくらい調達してからくるもんだろ。こういう日には余裕をみせろよ、もっとこう――」

「僕が下戸なの知っているだろ」

「あー俺どっか居酒屋ホイリゲで待っているので。何かあったら叫べ。狭い村だ、どこにいても聴こえる」

 石のかけらのゴロゴロする坂道でエーリカは、さっさと踵を返して下っていくタマをふりかえった。彼がオスカーと交わした意味ありげな視線をエーリカは見逃していなかった。

「おい、タマ!」

「頑張れオスカー♪ 勝つんだオスカー♪ 彼女はきっとわかってくれるさー♪」

 適当な節まわしの歌を口ずさみながらその背中はくれなずむ丘道の曲がりかどに消えた。

 見返ると、オスカーが途方にくれた表情で立ちつくしていた。

「どうかしたの」

 訝しんで問うたエーリカに、真顔になって首をふる。

 いまにも崩れそうな城門をくぐった。

 廃墟の城はとっくに人を捕らえる機能をなくし、いびつな石のオブジェと化している。屹立した城壁。歴史を慰めるように石に這う緑。

 城壁をめぐるなだらかな階段を踏みしめながら、オスカーが静かに口をひらいた。

「僕には双子の兄がいたんだ」

 意外に思ってエーリカは足元から顔をあげた。兄弟どころかごくごく普通の友人を持っているようにさえ思わせないところがオスカー・オルフォイスにはある。

 エーリカが何か言うまえに、オスカーは首をふった。

「いや、兄は生まれるときに母と一緒に死んでしまったんだ。母はもともと丈夫なほうじゃなかったからか、かなり大変なお産だった。双子だったし」

 こういうときは何ていう言葉をかけるのだったか、とっさに出てこなかった。エーリカは人見知りでもないし、両親の監督の目がないから社会にもはやばやと出ていって常に華やかな文化人の輪のなかにいた。とつぜんの蹉跌によって弾きだされるまでは。

 姉のベアトリーセに比べれば人を楽しがらせる能力に欠けたが、会話に困ったという記憶もない。……なのに、いま彼の言葉に何を返すべきなのか、わからない。

「でも僕は、兄とともに育った。僕と兄は死んだ母に育てられたんだよ」

 エーリカは足をとめた。

 このひとは何を言っているのだろうか。

「僕の体質はもともと母が持っていたもので、おそらく母から僕に受け継がれたのだろう。もしかすると幼少時代の死んだ母による過干渉が感度の強化につながったのかもしれないが、このあたりは研究のしようがない。ほかに例がなさすぎるから」

 このひとは何の話をしているのだろうか?

 さっぱりわからない。それとも〈私〉の理解力がいちじるしく低下しているのか?

「オスカー、待って」

 オスカーは廃墟を迷いなくすすんでゆく。

 彼の背中と話のゆくすえを見失いたくない。エーリカはせめて足だけでも前にうごかした。

「母は僕を抱きしめることはできなかったが、ずっとそばで僕たちを見守ってくれていた。兄のエサウも僕も悪戯ざかりの時分は母によく怒られたし、よく聖書を読み聞かせてもらった」

 歴史の影にかくれた物語を掬いあげるように、声はしずかにやさしく響いた。

「妻と長男をいちどに亡くした父は悲嘆にくれるうち性格が変わってしまい無感情で無口な人間になった。けれど父は着道楽だった妻のために彼女の衣装箪笥をいつも新しい服で一杯にしつづけた。母は死んでからも毎日、服を着替えて美しく着飾っていた。でも父はその姿をみることがなかった。父の目は死者のすがたを捉えられない。当たり前だが」

 ――死者のすがたを。

 このひとは、死んだひとの話をしているのか?

「母におもざしの似た僕の存在は父の精神状態をかえって不安定にしたので、僕は母方の縁者の城館にずっと預けられていた。だからこのデュルンシュタインがエサウと僕の遊ぶ庭だった。母が死後もこの世に留まっていたのは、父から責任放棄された僕の成長を案じたのが最大の理由だろうと思う。でも母はまた、いずれ死をうけいれてこの世界を去らなければならないと知っていた。エサウのためにも」

 地上における罪を犯さず死んだ魂は、天上の遥か高いところに召される資格があるのだから。

「僕らが七歳のとき、エサウを連れていくために母は消えた。――だけどエサウは残ってしまった」

 ゆるやかな曲がりかどを折れると、石段のつくりがわずかに変化した。

 近代技術による補修が入っているように、しっかりした土台の上に、滑らかで欠けのない石煉瓦の段が組まれている。

「彼は消えかたがわからなかったんだ。彼には死ぬということがわからなかった。生きるということもわからなかった。彼はずっとどちらでもない存在としてこの世界で魂を成長させていたから」

 幻のはしゃぎ声がきこえる。

 朽ちた古城を駆けまわる双子の少年たちの声がする――。

「僕は寄宿学校に入らなければいけない年齢になった。エサウをデュルンシュタインに残していかなければならなかった」

 そうしてまた、次の曲がりかどがある。

「休暇でデュルンシュタインに戻ってくるたびに、兄は寂しそうにしていたよ。彼のすがたを見ること、彼の声を聞くことができるのは、この世界で僕だけだった」

 エーリカはそれを見あげた。

 いちばんまともに残った城壁にそって、まっすぐ天に向かってのびてゆく石積みの白い階段を。



  ――すると、彼は夢を見た。

    先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、

    しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。

    見よ、主が傍らに立って言われた……



 いつかエーリカの机のとなりで、製図用の鉛筆を削りながら『創世記』の一節を謳っていた誰か。

「エーリカ・フォン・クレーフェ」

 数段先でかふかふと咳にむせんで廃墟に反響させていたオスカーが、ふりかえって呼びかけた。

 これから口にすることが最も言いにくいことだと、緊張したその貌が、語っていた。

「僕の本名は、ヤーコプというんだ」

 Jacob.

 天へとつづく〈ヤコブの階段〉を、エーリカはもういちど見あげた。

「綺麗……」

 洩れた言葉は、ひとつだけ。

 機能的なものは、美しい。たったひとつの機能、たったひとつの希いをこめてつくられた階段は、かけがえなく美しい。

 名残りの光が射すところに、ポルトランド・セメントの土台に支えられて、純白な毛なみの猫の手のように、最上段が宙を掻く。

 遥かな階段の頂上で、扉はひらかれている。

「あなたはお兄さんのために【階段】をつくったの、ヤーコプ・ヴィルヘルム」

 じっと注がれているまなざしに対峙してエーリカは言った。

 彼の氷青の感情まなざしがかすかにふるえた。

「ヤーコプ・ヴィルヘルム・オットー・フォン・バーベンベルク公爵――あなたは、〈幽霊卿〉だったのね」





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