爪のない人間の指が、降ってくる。ばらばらの五本の指。切断されているのに、断面は綺麗な桃色で、血に汚れてもいない。

 二分ほどは蠢いていたが、やがて五指とも動かなくなった。




「はっ。ここはどこ」

 エーリカは目をあけた。

「私、また発作が」

「完全に意識をなくしてはいなかったよ。じつに不思議な状態になるんだな。きみはうわごとしながら、エンゲルマン邸を立ち去る僕たちのあとをちゃんと自分の足で着いてきた。夢遊病患者ソムナンビュリストのように」

「ここはどこ。瞼をあけたのに何も見えない」

「きみは柔らかな寝椅子のうえにいる。寝そべっている。感覚できるかい。もういちど瞳をとじて、ひらいてごらん」

「あ……」

 彼の静かな命令が耳に沁みいったとたん、身体の感覚がもどってきた。

 ふかふかなクッションに頭をあずけて横たわり、赤い天井を見つめている〈私〉。

「深く息をして。……もう起きあがるの? もう少し訊きたいことがあったんだが」

 肘をついて起きてふりかえったところに、ひとりがけの椅子で優雅に足をくむオスカーがいた。

「オスカー。あなたまさか」

 新聞の風刺画でこんな構図をよくみるではないか。

 精神科医と患者に滑稽な会話をさせておもしろがるたぐいの下品な風刺漫画で。

「無意識の私に喋らせたの」

「少なからず心得があるのでね。自由連想法を試みさせてもらった。発作中のきみは催眠をかけるまでもなかったし」

 白と黒の市松模様の床にエーリカは両足をおろす。

「何を喋った、私」

 灯りを抑えた小空間の、正面には赤いカーテンが引かれている。

「爪のない五本のきれいな指が何もないところから落ちてきたそうだ。夢と経験が混じった話かな。心当たりがあるかい?」

「見たことない。そんな夢。指を怪我したこともないし」

 そのとき、わらわらと小さい人たちが出てきて、正面のカーテンを左右に引っぱった。

 エーリカはびっくりした。

「この人たちは何」

 低身長症ドワーフィスムの人たちがわらわらと立ち働いて灯りを増やしてまわり、かきわりをたてかけ、大道具小道具を抱えてくる。

「僕の劇団だ」

 劇団員から小ぶりな竪琴を受けとったオスカーが、こともなげに答えた。

 ひらかれたカーテンの向こうはオスカー・オルフォイス捜索社の居間だった。大理石の円卓の上であぐらをかいたタマは京劇役者の化粧をして、刀剣の手入れにいそしんでいる。


“ ベアトリーセ・フォン・クレーフェ嬢失踪事件。捜査状況を上演いたします。劇はオスカー・オルフォイス氏のメモに基づき、多少の脚色をくわえたものです。開幕 ”


 それは等身大の精緻な人形をもちいて演じられる人形劇だった。

 脚立にのぼった劇団員によって操られる人形たちが、昨日から今日にかけての出来事を語ってゆく。


“ 私は〈悪女〉じゃない。断じて私は姉から先生を略奪してない。私は好きじゃないのに先生がしつこくて、しつこくて…… ”


「しつこいのは〈幽霊卿〉の求婚。先生じゃなくて」

 エーリカは原作者に抗議をした。

「脚色だよ、たぶん」

 なぜかオスカーはそっぽを向いて抗議をあしらう。

 おしころした呻き声が彼の喉から聞こえたが、何をそんなに悲しくなったというのかわからない。やがて腕に抱く竪琴を見つめたオスカーの横顔は、エーリカまでがわけもわからず呻きたくなるほどに、思いつめたものだった。竪琴は古典絵画に出てくるようなアンティークのライアだ。流暢に弾きはじめるのかと思いきや、心許ない手つきで一弦二弦はじいただけでオスカーは竪琴をなげだした。

「まあね。きみは記憶に苦しめられているふしがあるから、さっき夢遊状態のきみに念の為、ある質問をしてみたが、ダヴィト・エンゲルマンはきみに無理やりなことはしなかったようだな」

「先生はそんなひとじゃない」

 エーリカは思わず声を荒げた。

「謝るよ。あらぬ疑いをかけたことをエンゲルマン氏にも謝らせてもらう。ただ、夢遊状態のきみはずっと何かに怯えていた。『忌まわしい、忌まわしい……』という譫言をくりかえしていた。必ずあたまに手をやるきみの発作も、記憶に関係して引き起こされているように見える」

 冷静な氷青のまなざしにとらえられ、エーリカはひととき沈黙した。

 そして。

「何か思いだせないことがある気はする」

「深層心理がきみのその記憶に覆いをかけているんだ。覆いが少しでも捲れようとするとき、本能からの警告が頭痛というかたちで襲うのではないか」

 まるで頭の中に火薬庫を抱えているような気がしてきて、エーリカは震えた。

「僕の誘導では覆いの下に迫りきれなかった。男女関係のトラウマに見当を絞ってしまったので」

 エーリカはふたたび剣呑に目をほそめる。

「オスカー。下世話」

 彼は極上の賛美を与えられたように微笑んだ。

「なんとでも。もう謝罪ずみだ」

 オスカーはつづけて何かを言おうとして、しかし躊躇うように口をとじた。

 だが結局、我慢はできなかったように視線をもたげた。

「きみが誰とも結婚するつもりがないのは、男性に生理的嫌悪や恐怖心があるからじゃないね」

 エーリカは床の市松模様を靴のつまさきでなぞる。

 チェス盤のような白と黒。

 永遠に対立しつづける二極の陣営。

「それは、そう」

 じっと考え抜かれたすえに。一歩、言葉が前に進む。

「誰のせいでもない。……私のせいでもないけど」

 オスカーはじっとエーリカを見つめていた。

「きみのせいじゃないよ」

「でも新聞は私のせいにした。それが現実。私が女だから。女性が男性と二人きりの職場で働くべきではないと。間違いが起こるのは当然だと。それが男女の現実。現実に抗おうとしたのは私」

「きみのせいじゃない」

 あの日々。未知の世界で。

 正々堂々の勝負がしたかった。夢を追って前に前に進んでいるつもりだった。なのにエーリカはいつのまにか、複雑でむずかしい局面に追いこまれていた。思いもしなかった泥沼の隘路に。

「現実にはけっきょく勝てなかった。勝てなかったけど、負けたくもない。だから――」

 オスカーが激しくかぶりをふっている。

「弱かったのはエンゲルマンで、きみじゃない。きみはそんなことで心を縛られるべきじゃない」

 しかしエーリカにとって、選んだ答えはすでに揺るぎがない。

「だから、私はぜったい男性を好きにはならない。相手にもあらかじめそれをわかってもらう」

 オスカーはずっと首をふりつづけている。何かまだ言いたい警句ことがあるみたいだったが、これ以上ふみこまれれば、エーリカもここを出ていく。

 父でも兄でもないのに、自分の無責任な一言二言が若い娘に影響を及ぼせると思わないでほしい。

 オスカーは抑制してみせた。

 かたく目をとじて、うなだれる。


“ それではきみというものがなくなってしまうよ ”


 エーリカは舞台上をふりかえった。……いまの声は?

 奇妙な舞台劇はあいかわらず淡々とすすんでいて、いま人形たちはエンゲルマン邸を探索していた。かきわりには夕焼けを背景にした私邸の尖塔がそびえたつ。

 人形は精巧だ。等身大であるだけ、角度によっては生き写しの錯覚を起こさせて不気味なくらいに。

 舞台の端には、登場人物の誰でもない観客役の人形が数体、椅子にならんで捜査推移をみまもっている。

「この劇が、捜索の役にたつの」

 エーリカは率直に訊いた。

「僕に視えている世界を確認するためには」

 答えの意味をいまいち察せられず、エーリカは首をかしげた。

「無意識の考えを可視化しているということ?」

「……そうとも言えるかも」

 オスカーはエーリカの解釈が気に入ったようだった。

「催眠にかけなくてもオスカーのこと分析できる、私」

「そう?」

「あなたはアドルフ・ロースと、ドクトル・ジークムント・フロイトの信奉者」

 耳ざとくタマが笑い声をたてた。けらけらと。

「この出不精が珍しく薫陶を受けに出向いたのがその二人です!」

 アドルフ・ロースは名声ある建築家だが、一方でウィーンの流行モードを牽引する文化人エッセイストでもある。

「ええとね、待って、ええと……『文化的に洗練された人々にとって、装飾が生きる喜びを高めることなどない。胡椒入りケーキを食べるときでも、私は飾りのないシンプルなものを選ぶ』だった? この一節が可笑しくて吹き出したから憶えてる」

 昨年に発表されて話題になったエッセイの一節をそらんじ、エーリカはおもわず口元をゆるめた。

 オスカーの装いにはロースの美学の影響がある。ドイツ人は〈美しく〉装おうとしてしまう。イギリス人やアメリカ人のように〈上手に〉装ってこそ現代的モダンであり、〈上手に〉装うとはつまり機能に忠実に〈正しく〉装うことなのだ――。

「死神の服装にも先生がいたのね」

「死神?」

「ごめんなさい。なんでもない」

「死神はないだろ」

「〈幽霊卿〉と勘違いされるのと、どっちがいい?」

 オスカーは傾いた頭のこめかみを支えて深く盛大な溜息をついた。

「オスカーを雇えば私を捕まえられたかもしれないのにね、〈幽霊卿〉も」

「そうだね」

「だって幽霊よりも確実に私はウィーンに存在しているのだし」


“ 女は存在しない ”


 二人は同時にぎょっとして舞台をふりかえった。

「……そんなメモがあったか? ミヒャエル君、今の台詞は君の即興か?」

 首を伸ばして劇団員に問う。

 いえいえ、メモのとおりです――。

「どんな?」

 オスカーは立っていって劇団員から台本もどきであるメモの束を受けとった。

「『女は存在しない』。僕の字じゃないな」

 抜きとったその一枚は、ほかのメモとは紙質も大きさもちがう。

「あっ、俺がまちがって一緒に拾ったかもしんない。たぶんエンゲルマン邸の居間だ。おまえがあんなとっちらかったところにメモばらまくからだって」

 ひとまわり大きめの紙のまんなかに、

「『女は存在しない』……」

 乱暴に走り書きされている。

 それを覗きこんでエーリカは眉をよせた。

「先生の字ではないと思う」

 荒らされた家の中で見つかったメモは、不吉すぎる。何故ならエーリカたちがエンゲルマン邸に入ったのは一人の女性を捜し当てるためだ。その言葉はまるで伝言のように響く。

「『女は存在しない』『女は存在しない』『女は存在しない』……ヴァイニンガーか?」

 顔をしかめて皮肉げにオスカーが言う。異物をのみこんだように。

「誰?」

「六年くらいまえに熱狂的人気を博した珍書の作者だよ。オットー・ヴァイニンガー著『性と性格』。……〈女性は存在しない。女性は無である〉よっぽど女性関係で失敗をかさねて屈折したやつが書いたとしか思えない、女性への怨念まみれの馬鹿げた論文だが――きみが読んだら笑いがとまらなくなって大変かも」

「よくあるような、あれ?」

 とエーリカが訊くと、オスカーは意を得たように肩をすくめた。

 その手の性差論は、世間にも学術界にも珍しくない。女性の社会進出がふえる過程で、過剰な免疫反応が起こっているのだ。

「きみをいじめた新聞・雑誌・世間の男が好んで読んでいるたぐいのものの一つだね。当時にしても大して目新しい論点を持つものではなかったんだが、刊行後すぐヴァイニンガーは二十三歳で拳銃自殺したので、むしろそんな背景から火がつき狂信的な信者を生んだ。ヴァイニンガーはユダヤ人だったが、著作には反ユダヤ的論考も含まれていた」

 灯りにかざしてオスカーはメモをためつすがめつする。

「でも、ただの連想だよ。……上から何か書いた跡があるな」

 劇団員から鉛筆をかりてオスカーはかきわりのほうに歩いた。貼りつけたメモを斜線で塗りつぶしてゆく。

 筆圧の跡が鮮明に浮かびあがる。


 Julius Felix


「オスカー。誰か来る」

 鋭く抑えた声で、タマが警告した。

 音もなく床におりたち、凛々しくも可憐な武旦ウーダンのしぐさで柳葉刀をたずさえ扉に向かう。

 だが外には何の気配も感じられない。――すくなくともエーリカとオスカーには。

「夜中の二時だぞ。いったい誰が……」

 この建物は、オスカー・オルフォイスがほとんどを占有している。夜中によっぱらった隣人がどたどた帰ってくるということはありえない。周辺は商業地区だが、さすがにこの時間は車の往来もまばらである。

 エーリカは耳をすませた。捉えられるのは夜の静けさだ。

「銅鑼を鳴らせ」

 と、タマが言った。

 それが今宵、二度目の幕開きだった。

 賊にやぶられた扉へ向かってタマが跳躍する。身軽にのりあがった扉の上から先頭者の後頭部を蹴りとばし、そのまま回転をつけて着地しながら二人目を斬りつけ、三人目を突いて廊下に圧しだしてゆく。

 空いた片手が背中からゆっくりと日本刀を抜いた。

 ――扉が閉まった。

 妖艶な紅の笑みの余韻とともに残されたのは、昏倒した賊ひとり。

「今までこの家にきた客をぜんぶ合わせたよりも沢山のお客がきてるみたいだ」

 倒れ伏した賊の巨体は、わらわらとたかった劇団員によって大道具の扱いでぐるぐる巻きにロープを巻かれた。

「自分で招待する勇気のない人見知りとしては、嬉しい悲鳴かな」





「我々は政治結社……〈幸運な七月〉だ……。俺を捕らえたところで無意味だぞ……同志は五百を越えるからな!」

 小道具の斧を喉元にあてられた男が、ぎらつく眼でオスカーをにらみあげた。

 斧の上には劇団員ミヒャエルの片方の靴底がおかれているが、刃は模造品だ。

「最後の鍵をよこせ……オスカー・オルフォイス。おまえが持っていると聞いている」

 オスカーは男の頭上に腕を組んで立っている。冷たく青いまなざしが哀れな賊を蔑むように貫く。

 窮屈なロープのなかで男は一瞬、ぶるりと震えた。

「最後の鍵? 何の鍵だ」

 男が顔を赤く怒張させた。

「城の鍵だ。とぼけるな」

「どこの城だ」

「すべてをやりなおすための城だ。知っているはずだぞ!」

「いや、僕は知らないな……」

 いてもたってもいられずエーリカは赤い幕の陰から出ていった。

「ベアトリーセを連れ去ったの?」

 男は黙ってオスカーを睨みつづける。

「ベアトリーセを連れ去ったの?! 答えて」

 たまらず声をはりあげたが、男は何も答えない。

 エーリカは息をつまらせた。答えないのは肯定のしるしではないのか。

「誰か女性を拉致したか」

 最悪の予想にとらわれるエーリカをみかねてオスカーが問いをひきとった。

「女? 知らんな」

「ダヴィト・エンゲルマンの私邸を荒らしたのは?」

 男は首をふった。

「私の髪を切ったのは……」

「君たち〈幸運な七月〉は赤毛の女性の髪を切って脅したのか?」

 男は頑なに黙って首をふった。

 そのとき扉が勢いよくあいた。

 返り血にまみれた武旦が飛びこんでくる。

「侵入しやがったぶんは片付けたぞい。だが、おそらく二陣三陣が待機してる。外にがやがやと気配がうるさいったらねーのですよ」

「僕らは身に覚えのない鍵のありかとやらを吐くまで五百人ちかい闇の結社員に拷問される予定だそうだ。いったん退くしかないな」

 退くって、どこに。

「屋根裏から屋根づたいに逃げますかいな」

「いや、玄関から出る。気配がうすいのは?」

「大通りがいちばんうすい。目立ちたくないらしくてガラガラだ」

「では一目散に大通りを抜けよう。馬車は使わず、王宮方面に向かう。この人たちは、心理的に王宮には近づけまいから」

 すばやく下される決断と指示にエーリカはまばたいた。

 これまで一緒にいたオスカーとのごくわずかな印象の違いがエーリカを戸惑わせていた。一枚の硝子のレンズをへだてて彼を見ているような錯覚がある……。

「ミヒャエル君たちは念のため朝まで楽屋に隠れていてくれ」

 はい。でもまあ、いざってときは騎士や兵隊の人形たちが助けてくれますよ――。

「そうだな。こういうときには、彼らの昔気質が心強いね」

 それから舞台上の誰もいない虚空に向かってオスカーは言った。

「よろしく頼むよ、だがくれぐれも無茶はしないでくれるように」

 灯りの落とされた舞台の袖で、観客役の人形たちが泣きながら手をふっているように見えたが、おそらく闇に慣れない目の錯覚だっただろう……。





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