四  マーレボルジェと呼ばれるところで

 第二の圏谷に巣くうている者は、偽善者、おべっか使い、魔術師、 

まじない師、うそつき、大泥棒、聖物売り、女をとりもつ者、瀆職者

                ――ダンテ『神曲』地獄篇






 製図台の隣、陽のあたる机に向かう背中にエーリカは声をかけた。

『先生、何を描いているんですか』

 現行案件の設計作業は午前中で一段落ついたところだ。

 片肘で用紙をおさえ、手のひらで頭の片側を支えながら、先生は絵の中の子猫でもじゃらすようにさらさらと鉛筆を走らせている。

『ベアトリーセの誕生日祝い。時計を発注しようと思って』

『先生がデザインを? 見せて、見せてください』

 飲んでいたお茶を作業台におき、エーリカは駆けよって覗きこんだ。

 蓋つきだが中央が透けてみえるナポレオンタイプの懐中時計。

 外蓋の枠はシンプルなローマ数字。中の文字盤には飾り文字で、“Eternity is in love with the productions of time.(永遠は時が生んだものを愛する)”――イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの一節だ。

『こういう装飾はベアトリーセが専門家だからな』

 気にいってもらえるかどうかは望み薄、と言いながら竜頭に陰影をつけてゆく。

『批評はするかもしれないけど、きっとすごく喜びますよ。うちは両親が誕生日に何かしてくれたこともないので』

『大人になってからは賛美者や友人に放っておかれる君たちじゃなかっただろう?』

『ベアトリーセの綺麗さだけしかみてない求愛者は論外として、愉快な友人たちと真剣な恋人せんせいではまた意味が違いますよ。でもどうして時計にしたんですか』

『君の姉さんは時計を投げて壊したんだよ。私と喧嘩中に』

 気性の激しい姉にはよくあることなのだった。

『このまえは椅子でしたよね。そのまえはピアノ』

『新居は壊れにくい家というのを念頭において造ろうと思うよ』

 思わずエーリカは笑いだした。

 おそらく半分くらいは冗談じゃなく本気だろうとわかるので、よけい可笑しくなったのだ。

『それってどんなふうですか。【三匹のこぶた】の煉瓦の家みたいな?』

 先生は机から剥がれて椅子にもたれ、傍らのエーリカをわずかに咎める眼でみあげた。

 シャツの袖のまくられた両腕を組んで言った。

『強度の意味での壊れにくさは建築物としてあたりまえ。付加価値としての壊れにくい家というのは、修繕がたやすい家のことだ』

 どこまでも正論だ。しかしエーリカはくすくす笑いを仕舞いそこねた。

『先生らしいです。住まう人のことをいちばんに考えるんですね』

『外には嵐やおおかみを、内にはベアトリーセを。これで千年たえうる家を構想するべきだな』

『ベアトリーセは先生が気をつければ何とかできるんですから、怒らせるまえに対処したほうが効率的です』

 じゃないとそれだって壊されちゃいますよ。とエーリカはまだ存在もしていない懐中時計をゆびさした。

『出来てもしないよ、私は』

『え?』

『ものは壊れる。壊れたら修理すればいい。また新しく作り直せばいい。何度でもやりなおせばいい。人の歴史も街もそうしてつづいてきたし、人と人の関係もそうだ』

 先生は立ちあがって、やかんの掛かるコンロのほうへ行った。

 エーリカは先生の後頭部を見つめながら机の端に後ろ手をつく。銀髪が柔らかく波打つ後頭部と、広い背中。エーリカは先生の後ろ姿を見つめるとき、いつも無意識に唇を噛んだ。

『うつくしいものは、おそろしいのだよエーリカ。それが自然の摂理だ』

 それが、先生にとってのベアトリーセ。先生はベアトリーセを、そんなふうに愛している。華やかで軽快なベアトリーセも、嵐のように激昂するベアトリーセも、等しく先生の瞳のなかで愛しまれ、その心を捧げられているのだ。

 嵐の過ぎたあとに先生とベアトリーセは何をするんだろう。何を話して、どんなふうに手をとりあうんだろう、そして……。エーリカはときどき想像する。

『宿題はおわった?』

 飲みものをつくって先生は作業台をふりかえった。

『まだです』

 エーリカが書きちらした試行錯誤を先生は一枚一枚とりあげて眺めた。

 美しさをかたちにする、というデザインの課題だ。

 ただ単に美しいものを模写するのは駄目だ、とあらかじめ言われている。

 芸術家は個性と独創で勝負するものだが、建築家は万人に同じ感覚を抱かせるものをつくらなければいけない。建物のなかで人を迷わせないために、構造はみずから機能を主張するべきである。動線の誘導には、人間が共通にもっている感覚が利用されているのだ。

 人を動かす美しさとは何か――。

『うつくしいものは、おそろしい。それが自然の摂理だ。われらの深層に刻まれた真理の警告を、君ならどのように象る?』

 なかなか答えの出ない課題をまえに、エーリカはたよりなく首をふった。

 まだまだ時間がかかりそうだった。

『この課題は、難しいです先生』

 ダンテの【神曲】もウィリアム・ブレイクの詩画集も、先生の本棚をうめる本はぜんぶ読んできたけれど、まだエーリカは先生の考えることに追いつけない。

『エーリカ、先生はもうやめないか。ダヴィトでいい』

 先生がエーリカの出来損ないのデザイン案を見くらべながら、何度めか知れない注意をする。

 初めからこう呼ぶことに拘っているのはエーリカだった。

『いいえ、先生は、先生です』

 エーリカは淡く微笑んで言った。






 ――馬車のなかでエーリカは目覚めた。

 いつのまにか、うとうとしてしまったらしい。

「ホテル・インペリアルに着いた?」

 正面のオスカーに視線をもたげてエーリカは訊いた。

 ひとのうたた寝顔をがんがん見つめていたらしきオスカーは、ばつの悪さも浮かべずに答える。

「エーリカ、行き先を変えることにした」

 三日をデュルンシュタインで過ごし、エーリカたちは汽車でウィーンに戻ってきた。電報を受け西駅ヴェストバーンホフに待機していた黒馬車に乗りこみ、安全とはいえないグラーベンの〈オスカー・オルフォイス捜索社〉をさけて仮の宿に向かっているところだった。

「どこへ」

「奴らのアジトが見つかったのさ」

 す、と腕をまっすぐ伸ばしてオスカーがエーリカを指ししめす。

 いや違う。

 奇妙な違和感にエーリカはさっと左を向いた。

 後部座席には三人。右端のエーリカと、左端のタマ。

 そしてまんなかには――人形が座っていた。

「駅の近くに潜んでいたのを回収したんだ。彼の名前はドミニク。好奇心の強い元煙突掃除屋で、盗み聴きの趣味がこうじて諜報機関シュピオナージェに勧誘され、ヘマをやって処刑された幽霊だ」

 小柄な人形に煙突掃除夫の服が着せられている。両腕にブラシを抱え、すすの汚れもばっちりだ。

 くいくいくい、と首が動いて人形はエーリカと見つめあった。

「!」

「稀にいるんだ、物質の体にこだわる幽霊が。特に騎士とか、踊り子とか、あとは肉体労働者に多いんだが。勝手に舞台の人形にとりついて動きまわろうとする。ドミニクは人生の閉じられ方が処刑だったことに愕然として、やっと盗み聴きが悪いことなのだとわかったそうなんだが、然るべき地獄に堕ちるまえに、何か確実な善いことにその技能を役立ててから赴きたい、というんだ」

 エーリカは異様な存在感のある人形から目をそらし、オスカーに向かって首をかしげた。

「煙突掃除の技能を?」

「いや、盗み聴きのほうだ」

 悔悛の方向性がまちがっているのでは?

「まあ、そもそも地獄とか天界とか、実際どういうものだか、あるのかないのかすらわかりはしないので、好きなようにやって納得して消えてゆくのが死者にとっていちばんいいと僕は思う」

 ……あんなにも祈りにみちた【階段】をつくったひとが、無神論者であるはずはないのに。

「あの夜から〈幸運な七月〉の構成員の跡をつけてもらっていた。根城にしている邸宅をつきとめてくれたよ」

 カタカタと揺れ動くドミニクのほうに、オスカーは耳を傾けた。

「それは残念だね」

 と頷いて、エーリカにまなざしを戻す。

「入れる煙突はなかったそうだ。昼間は人の出入りが途絶えるそうなので、陽の高いうちに正面突破といこうじゃないか」

「これから?!」

「そう。夜に動いて昼間おとなしいのはおそらく、それなりに社会的地位のある者たちで構成されている結社だからかな。軍人とか、役人、政治家とかね。昼間は真面目にお仕事中なんだよ」

「そのてん、どっかのひきこもりのタイクンは、一日じゅう自由がききますからねえ」

「僕だってどうしても出なきゃいけない公務にはちゃんと出てるぞ。いちばん遅く行っていちばん早く帰ってくるだけで……」

 言い訳がましいどこかの公爵は無視してタマが作戦説明をひきとった。

「われわれがウィーンから逃げたと思われている今のうちが勝負です。人手の薄い相手の懐に潜入し、彼らがわれわれを狙う理由を調べあげ、弱みを握って帰るまでが本日分のオスカーのです」

 馬車は、郊外の邸宅地ヒーツィングへ向かっていた。

「〈すべてをやりなおすための城の最後の鍵〉とやらを僕が所持しているはずだ、と彼らは考えている。問題は、いったいそれがどんな城か。彼らはその城で何をするつもりなのか。エンゲルマンとどのような関係があったのか、だ」

 エーリカはオスカーの氷青から視線をずらして外した。

「ものは壊れる。壊れたら修理すればいい。また新しく作り直せばいい。何度でもやりなおせばいい……」

「エーリカ?」

 エーリカは首をふった。頭の奥がぼんやりしてくる。頭痛になるかならないかの、小さな亀裂。不快な軋み。エーリカは頭をふった。

「ヒーツィングには一時期よく通った。邸宅の注文で……」

「ヴァトマン通り29だ」

 エーリカは固まった。

「ヴァトマン通り……29番地。そこも先生が受注していた……」

「そうなのか?」

「でも……29番地の施主のマイアー氏は、着工するまでに事業が傾きはじめていて、けっきょく工事は中断していたはず。設計に注文の多い人で、着工するまでにもかなり時間がかかったんだけど」

「特殊な注文を?」

「それは言えない。建物の内部は施主の私的な領域だから、部外者に洩らすのは厳禁」

「エーリカ、きみの職業意識はわかるけど、僕たちはこれから敵の陣地に躍りこもうとしているんだよ」

「……。……M氏は極度の不眠症インソムニアに悩まされていて、とにかく眠くなる家がほしいって。すとんと寝入って朝まで起きない寝室のある家」

「建築家を魔法使いだとでも思っているのか。とはいえエンゲルマンも喜々として依頼を受けたんだろうな。設計した個人住宅の施主の満足度がいちように高いことで注目されはじめたのが彼の飛躍のきっかけだったのだし」

「それが先生の建築。人を幸せにする建物が。先生は犯罪結社のための建物なんて造ってはいない」

「きみに捨てられる前まではそうだったのだろう」

「オスカー」

 ほとんど叫ぶようにしてエーリカはオスカーをだまらせた。

 勝手な脚色をするのはやめてほしい。

「すまない。個人的な感情が、つい」

 それきりオスカーは口をとじて馬車に揺られた。

 飽きもせず氷青のまなざしをエーリカに突き刺しながら。






 ヴァトマン通り29番地には、ダヴィト・エンゲルマンの設計した〈不眠症患者のための邸宅〉が建っていた。

 いつ工事が再開され、完成していたのか、エーリカは知らない。

 釈然としないエーリカのとなりでオスカーが路上から全体をみあげた。

「外観は郷愁的なほどに変哲のないファッハヴェルクハウス様式、フランス語でいうコロンバージュ、英語ならティンバーフレーミング」

 漆喰塗りの外壁に柱や梁がむきだした木骨組みファッハヴェルクハウスは、ドイツの伝統的建築といえる。「なるほど、何の刺激もない田舎町の我が家に帰ってきたようで眠くなるな」

 エーリカをふりかえって、オスカーは眉根をよせた。

「きみは馬車で待っていたほうがいい」

「いいえ。待ってはいられない」

「そう言うだろうね」

 仕方がない、というように歩きだす。

 エーリカとタマを従えるかたちで、オスカーは玄関までの階段をのぼった。歩道から架橋した階段の下は、掘りさげられた隙間から地下部分が見えている。

 表札には、マイアーではなく、ライヒナームという姓の人名が彫られていた。

「所有者が変わっているみたい」

 オスカーがノッカーを三度、叩いた。

 ややあって、扉をあけたのは燕尾服を着た年配の男だった。

 なぜか昼間から燕尾服など着ていること以外は、どこにでもいる上級使用人という風情の男だ。オスカーの風体をすばやく一瞥すると、燕尾服の老人は丁寧に扉をおさえ、無言のまま玄関ホールへと三人を招じいれた。

 氏名も訪問の用も訊かない。

 扉が閉まると同時に、慇懃な態度で口をひらく。

「御資格の証明を賜わります」

 採光の少ない薄暗いホールには、蝋燭のともしびが無数に揺れている。いささか華美にはしったゴシック家具がごてごてとひしめき、壁はラファエル前派の描いた女たちの絵で埋めつくされていた。

 警戒を肌の下に隠し、オスカーが優雅に首をかしげた。

「何だって」

「紹介者からの御託おことづけがおありと存じます」

 とりつくしまのない声音でかさねて言う老人を、オスカーはじっと見据える。

「ことづけ? ……ああ、あれか」

 内心はどうか知らないが、オスカーは平然と応じてみせた。

「――【女は存在しない】」

「賜わりました」

 老人はあっさりと一礼した。まったくの当てずっぽうだったのに。

 【女は存在しない】というメモの言葉。それは合言葉だったのだ。

 しかし、いったい何の?

 ここはどのような趣旨の秘密クラブなのだろうか? フェミニスムのサロンでだけはなさそうだが。

「御従者は同行なさいますか。控え室も用意してございます」

「同行で」

 老人は慇懃に頷く。タマの外套からのぞく刀の鞘をちらりと見たが、何も言わなかった。

 別の年少の燕尾服が、銀盆を掲げ、寄ってくる。盆のうえには数字の記された羊皮紙が載っている。顔色も変えずにオスカーは、下級兵士の年収が飛ぶ金額の支払いをタマに命じた。帝都最高級のホテル・インペリアルに偽名で連泊する予定でいたため、現金をもっていた。

「ではこちらへ」

 燕尾服の老人――支配人が案内に立つ。

 エーリカという婦人の存在は問題にされなかった。まるでそこに女は存在していないかのように。

 建物の二階にあがり、回廊状の長い廊下を歩かされる。

 建物の中心に向かって渦をまく細い廊下。窓を少なくした建物のなかに、さらなる壁の層をつくり、防音効果を高めている。不眠症なマイアー氏のための、ダヴィト・エンゲルマンの設計図どおりだ。

 つまりこの廊下の行きつく先は寝室である。

 支配人は主寝室として造られたはずの部屋の扉をあけた。

 その部屋に入るなりオスカーは何かから顔をそむけた。

「どうかなさいましたか」

「なんでもない」

 助けを求めるような表情でエーリカを見つめながらオスカーは言った。

はございますか」

「ない」

 蒼白な貌でオスカーは早口に答える。

「〈シャムハト〉の効力は十二時間ございますが、たとえ目覚めずとも初めから女は存在しません。それでは、しばらくお待ちくださいませ」

 なぞなぞのような台詞を残して支配人は出ていった。

 途端にかふかふかふかふと咳きこみはじめたオスカーに、思わずエーリカは手をのばしそうになる。

「大丈夫?」

 手が届くまえにオスカーはその場でしゃがみこんだ。

「ぜんぜん大丈夫じゃない。帰りたい。酷いものしか視えない……」

 胸が悪くなってきた、と口元をおさえる。

「何がそんなに――」

 ほかに人のいない部屋をタマが縦横無尽に調べてまわっていた。

「壁と天井はまっしろの天鵞絨張りで、床はまっしろのタイル。まっしろすぎて寝れないでしょ。これじゃマイアーさん住めませんよ」

 家具はたったひとつだ。

「まっしろすぎて真っ黒でーすねー」

 片側からその大きな寝台を凶暴に蹴りあげてひっくりかえした。

「阿片の残香がしみついてまするーるーるー」

 扉があいた。タマが刀の柄に手をやる。

 立っているのは女性だ。

 白くて薄い衣をまとった若い女性である。

 そちらも見られずに蹲っているオスカーにそっと近づいて、女性は言った。

「なにも心配することはありませんから」

 肩に手をおかれてオスカーは貌をあげた。

 その腕をとり、女性はオスカーを立ちあがらせた。

 女神が英雄にちからを与えるように。

 ごくあたりまえに距離をつめ、彼の蒼ざめた頬に指先をはわせる。

 腕にからめられた手をふりはらわずにオスカーは無言でなすがままになっている。体に触れられているのに、彼は抗議もしない。

「あなたはわたしをつうじてかみさまとお話しになることができます」

 厳かに女性が伝えた――。

「わたしをかみさまに捧げて希みをかなえることもできます」

「〈シャムハト〉とは何のことだ?」

「わたしが〈シャムハト〉です」

 それからしばらく二人はまるで神話の恋人同士のように見つめあった。

 やがて、頬にある手を恭しく握りかえして、オスカーは彼女を寝台へ連れていった。

 どうしてかエーリカはつながれた手と手ばかりを目で追い、不審をつのらせる。ごく普通に彼は、人の体に触れているではないか。

 どうでもいいことなのに、そればかり気になる。

 タマのあつめたクッションにオスカーは彼女を座らせた。

「眼球の動きに強力な催眠状態の徴候がある」

 女性のまえに跪き、揃えて立てた二本の指をいろいろな角度から眼前にかざして近づける。「おそらく薬物の作用だが、よくあるものとは違うな……」

 手のひらで彼女の両の瞼をそっと閉ざした。

 女性は目を閉じたまま、平坦に同じ言葉をくりかえした。

「あなたはわたしをつうじてかみさまとお話しになることができます」

「神に言いたいことなら昔ある人に預けたから、僕はもういいよ。すぐに外から助けを呼ぶ。それまでここにいてくれ」

 オスカーは頭を落として深くうなだれた。

「タマ」

「上階にある気配は俺たちとさっきの使用人だけ。昼間だからだろね。問題は地下だ。うわものと地下室とでまるっと雰囲気が違う」

「制圧できるか」

「今日はちょっと衣装が地味だが」

 肩をすくめてみせたタマに否やはない。むしろ喜々としている。「ワルモノを懲らしめるのは三度の着替えより好きですよ」

 そしてオスカーは意を決したように、誰もいない部屋のすみを向く。

「あなたはもう血を流さなくていいんだ。ずっと最期の姿のままでいることはない。……女性たちに警告したかったんだね」

 『わたしをかみさまに捧げて希みを』

 『たとえ目覚めずとも女は』

 『わたしをつうじてかみさまと』……

 ここが娼館の一種で――しかもただの高級娼館ではないことは、エーリカですら、もうわかった。

 行なわれているのは女性の体をつかった何らかの秘教めいた儀式であり、儀式の究極においては殺戮すらも容認されている。

 だがもちろん――もちろん、たとえ何がどのように信仰されていたとしても、1909年という現代にわざとらしく奇怪なかたちで甦らされた儀式など、良心と社会を欺くためのおぞましい方便にすぎない。

 ここはただの、おぞましい犯罪の巣だ。

「……わかった。必ずみんなを解放するよ、大丈夫」

 深く頷いてオスカーは立った。

「ゆけ、タマ。僕はエーリカを落ち着かせてから追いつく」

了解ヤヴォール

 それを聞いてはじめて、エーリカは自分の状態を認識した。

 立ちつくすエーリカの後ろで扉が閉まる。

 その瞬間に涙があふれてきて、視界がままならなくなった。

 体はさっきからずっと震えていた。部屋に入ったときからだ。ただ、頭の内側で現実を理解する部分がうまく働かなくなっていたのだ。

 どうでもいいことに気をとられるふりで、ほかの感情を押しやっていた。

 時間差をかけて浸透した恐怖と怒りと哀しみが、今になってエーリカを支配しようとしていた。

「私は平気」

 掌底で片目をぬぐい、エーリカはかぶりをふった。

 感情が時間差でやってきたなら、先をゆく精神はすでに落ち着いているはずだ。

 それに。

 かつてエーリカがスキャンダルの渦中で世間から徹底的に貶められていたとき、エーリカにとっていちばん不愉快だったもの、それは、うわっつらの同情だ。エーリカの前で〈可哀想に〉と泣いてくれるひとが皆無だったわけではないが、だからって誰もゴシップの発行元に抗議してくれるわけじゃなかった。

 そういうものにはなりたくない。

「平気だから」

 オスカーはすぐそばの正面からエーリカを見守っていた。

 最もつらいものを視たのは彼だろう。

 よけいな言葉を発さず、黙ってオスカーは頷いた。

「では」

 純白の寝室をあとにする。

 扉を閉じるとき、オスカーがうつむいて呟いた。

「Chorus angelorum te suscipiat,....」

 フォーレがレクイエムのおわりに選んだ典礼詩だった。


 歌いめぐる天使たちがあなたを迎えますように。







「オスカーは、〈家〉が持ちうるいちばん幸せな機能って何だと思う?」

 不眠症患者のための回廊を急いで歩みながら、エーリカは言った。

「人に会わずにすむこと、かな」

 この場所で、この状況で、訊くエーリカもエーリカだが、ごくごく真剣に考えて答えたオスカーもオスカーであった。

「私は団欒だと思う。私は団欒を知らないけれど。私は私が知らない〈家族の団欒〉に憧れていて、家を通してそういう幸せを理解したいと思った。自分のじゃなくても、どこかの家族のために幸せな家をつくってみたいと思った」

 ダヴィト・エンゲルマンの建築に惹かれたのは、彼の建物が、住まうひとの幸福を最大限に実現するためのものだったからだ。

 ダヴィト・エンゲルマンの建てた家に住まう人々をみて、エーリカは建築家になりたいと思った。

「逆に、いちばん恐ろしい機能は何?」

「用もないのに客が訪ねてくることかな。うっかりしていると逃げ場がない」

「友達だった子爵令嬢が言っていたことがある。私たち貴族の娘は、檻から檻へ移ってゆくだけなんだと。親の監督のもとから、夫の監督のもとへ」

 自由なクレーフェ家の姉妹は羨ましいと、言われた。

「……檻?」

 団欒と檻。

「〈家〉は団欒するところにも、檻にもなる。そのふたつは、両立することさえある。〈家〉って、とても恐ろしいものなのかもしれない。――でも、それでも私は」

 憧れたのだ。

 建築の力のもつ恐ろしさを誰より自覚しながら、なお建築の力が示しうる理想を追求したダヴィト・エンゲルマンの仕事に。

 いつかは自分も、〈私〉の理想を打ち建てたいと、思ったのだ。

「エンゲルマンは、ここを娼館にした連中とは無関係だったと思うよ。連中は建築の中断していた物件を、マイアー氏の金欠につけこみ、買い叩いて利用した、というところだろう」

 一階に降りると、燕尾服の二人が意識を失い倒れていた。

「もしもエンゲルマンが関わっていたなら、小手先で内装を変えるだけなどということはなく、儀式にふさわしい神殿に建てかえてみせる。そうだろう?」

 エーリカは記憶にある設計図をたどり、地下室への扉に向かった。

「神聖娼婦」

 開け放たれた入口から地下階段をみおろし、エーリカは呟く。

「え?」

「〈シャムハト〉は、神聖娼婦。『ギルガメシュ叙事詩』に出てくる名前。読んだことない?」

 先に降りていきながら、オスカーが首をかしげる。

「バビロニアの神話集なら持っているが……ちゃんと覚えているのは【イシュタルの冥界下り】くらいだな」

「ベアトリーセが〈シャムハト〉の仮装をしたの。五年くらいまえに謝肉祭ファッシングで」

 古代メソポタミアでは寄進とひきかえに巫女が神の力を授ける習慣があった。神殿売春する巫女は女神の代理人だ。

 ベアトリーセの装飾デザインはドイツ圏版アール・ヌーヴォーたるユーゲント・シュティールの流れにあり、自然や女性にそなわる曲線美を基本とする。あのときベアトリーセはふだん描いている女神モチーフの源泉にみずから仮装したのだ。

 そしてもちろんベアトリーセの扮する〈シャムハト〉は美しかった。聖娼シャムハトでなく女神イシュタルといわれても異論はないくらいに、とても美しかった。

「ベアトリーセは死んでない。ベアトリーセは生きてる。だけどもし……」

 美しいものには、人を動かす力がある。うつくしいものはおそろしい。

 うつくしいものは、人を狂わせるのだ。

「もしどこかで酷い目にあっていたら……」

 そしてそれが、ここだったら。

 地下室の廊下に降りたったとき、たてつづけの銃声が響いた。エーリカは身をこわばらせる。

 しかしオスカーは端然と廊下を進んだ。

 食料貯蔵庫として設計されたはずの地下は、大きく改造されていた。両側にならぶ個室の扉は十室。

 廊下のまんなかに、鍵束が落ちていた。

「タマが投げてくれたの?」

「らしいね」

 廊下の奥から男の絶叫がきこえた。……タマの声ではない。

「終わったみたいだね」

 拾った鍵でオスカーは端から扉をあけていった。

 眠っている女性がほとんどだったが、ぼんやり座っている女性もいた。

 ドイツ系、スラブ系、マジャール人、アジア人もいた。

 ベアトリーセはいなかった。

 断続的に男の悲鳴が響いている。

「いったい何をすれば大の男にそんな声を出させられるんだ、タマ」

 辿りついた奥の部屋で、オスカーが非難するように言った。

「いや勝手に怖がってくれてるだけなんですけども。怖がられすぎてこっちが怖いわ」

 奥の大部屋には十一人の男が転がっていた。うち四人は下男らしき者たちで、二人が勤め人ふうの者。戦闘力のありそうだった者は五人ほどだ。〈幸運な七月〉の襲撃者たちと同じ制服を着た男たち。この五人にかぎって、膝から下があらぬ方向に折られている。

「支配することに慣れきってしまうと、立場の逆転に免疫がなくなるんだろうね」

 五人のうちの一人――羽交いじめにされ日本刀で髭を剃られるたび金切り声をあげている男の正面に立って、オスカーはその襟首をつかんだ。

「〈ギルガメシュ〉はどこにいる。答えろ」

 男はヒステリー寸前のこどものように息を荒げるばかりだ。

「黒幕はどこだと訊いている」

 もがいて暴れようとした男はタマのわずかな動きで右肩を脱臼させられ、また絶叫した。

「オスカー、〈シャムハト〉はやっぱ薬だ。あっちにご立派な精製室がある。んであの二人が薬の研究担当っぽい」

 報告しながらタマが肩を入れなおしてやると、男はくったりと大人しくなった。

「僕の名前は知っているな」

「お、オスカー……オルフォイス……」

「ほかの名前は?」

 男は必死に首をふった。知らない、ほかには知らないと。

「私人襲撃の荒事に駆りだされたり、この娼館の警備と金の運搬を任されたり、その程度が身分のようだな。軍にいたのか?」

 落ちていたパラベラム拳銃ピストーレをオスカーは拾いあげた。「それとも食いつめた下級貴族?」

「馘になった。両方……」

 名ばかりの貧乏貴族が軍に勤めたが問題をおこして除籍された、という来歴を男の顔が語った。

「〈幸運な七月〉は何を目的に動いている」

 やや落ちつきを取りもどしはじめた男の額に、オスカーはくろがねの銃口をつきつけた。

 タマがおいおいおい、という顔をみせる。

「神聖娼婦クラブを資金源にして、何をはじめるつもりだ」

 いまや痛みではなく、オスカー・オルフォイスの美貌と冷たいまなざしが男に恐怖を根づかせているのがわかる。だがエーリカは、その役柄が彼に似合うものではないと知っているから思わず目をそらす。

「言え」

 たとえ一人目が口を割らなくても、次に移ればいいだけだ。

 相手は観念して答えを吐きだした。

「ユリウス・フェリックスを、取り戻す……」

 〈ユリウス・フェリックス〉。その暗号は解読ずみだった。

「ルドルフ皇太子?」

 ルドルフ皇太子を取り戻す、とは――。

 エーリカは目をそらした先に、見覚えのある材質のものを見いだして、歩みよった。

「復活してもらう。生き返っていただくのだ。死者を生者に、生と死を反転させて、ルドルフ皇太子を甦らせる……!」

 唖然としてオスカーが言う。

「馬鹿なことを」

 やけっぱちの挑発なのか、男は眼をぎらつかせながら顎をしゃくった。大部屋の奥のテーブルをしめす。

 たったいまエーリカが辿りついたその場所を。

「できるのさ……可能なんだよ……あの〈城〉さえ完成すればな!」

 そこには模型があった。

 〈城〉の模型があった。否、城の内部の一部の模型だ。何故それが内部の一部とわかるかといえば、エーリカはその模型を……知っているからだ。

「知って……いる……? いいえ、知らない……」

 オスカーがふりむいた。

「知らない。私は。知らない……」

 エーリカは短い髪をつかんで、頭をかかえた。否定しなければならない。この頭痛ごと、消してしまわなければ。

 たったいま脳裏に浮かんだ映像を、ただの夢、ただの妄想だと笑ってしまわないと。

 

 それはだめだ。

 それだけは、いやだ。

「いやだ……!」




 先生は模型の中心をさして言った。『ここが煉獄だ』

 機構の歯車が回り、贄を求めた。死体置場の死体から切り落とされてきた青黒い手首が装置の中心に置かれると、幾重もの半球形の壁が地下からせりあがり、回転して死の匂いを覆いかくす。球面に彫られてあるのは古代エジプト学者K.R.レプシウスの訳した【死者の書】からの〈日のもとに出現するための呪文〉の数々だ。。その祈りは果たして、信じられていたことであるのか。現実に起こっていたことであるのか。願われていたことなのか。試行錯誤の実験であったのか。。いったい、かの壮大なるピラミッドは…………………………………………………………。

 球が割れたとき、贄の手首は“闇色の秘密”に喰われて消失していた。

 そして爪のない人間の指が、降ってくる。

 ばらばらの五本の指。

 指のつけ根の断面は綺麗な桃色で、血に汚れてもいない。

 奇跡、などという言葉はふさわしくない。悪夢ほどの焦燥もない。梯子をのぼっていけばいつかどこかの上方へはたどりつく。途中で折れてしまうなら落下するしかない。たったそれだけの現実だった。彼の築いた理論こそはエーリカの世界のすべて。

 復活した五本の指は、二分ほどは蠢いていたが、やがてびくとも動かなくなった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る