ラジヲの音

秋口峻砂

ラジヲの音

 眼に入る全てが紅黒く煤けていた。いや、そうではない、そうではないのだ。とても人とは思えぬ紅い何かが呻き喚き恐れ慄きながら、ふらふらもぞもぞと蠢いていた。

 それが自分と同じ人間だと知りながらも、男には認めることができずにいた。だが間違いなく、それは人間だった。

 黒く煤け崩れ去った街中を、男は何かを求めるように彷徨っていた。強烈な光と無慈悲な業火を撒き散らし、この長崎の街を吹き飛ばしたそれは、どうやら新型爆弾らしいと人々は噂している。男は運良くこの街を離れていた為に助かった。だが妻と子が、市街の自宅で男の帰りを待っている筈なのだ。

 その希望の全てを、次々と眼に入る絶望的な風景が木っ端微塵に打ち砕いていく。

 勝手知る庭であるはずの街並は何も残っていない。ただ長崎は坂の街である為、山々の位置と筋のように残る道筋が、男を自宅へと導いていた。

 のそのそと歩き回る者、もぞもぞと這いずり回る者、道端に転がりもう動かぬ者、それらに肌色はなきに等しい。黒く煤けているか紅く腫れ爛れ血に塗れているか、それらがそれを人間とは思わせなかった。いや、少なくとも男は、そう思いたくなかった。

「ああぁぁあぁぁあぁっぁぁああぁあああぁっぁああぁっあぁっああぁああぁぁっ」

 突然喚き散らしながら、男にその紅い何かが縋りついた。それは眼らしきものをかっと見開き、腕に抱いた小さな何かを必死になって押し付けた。その姿は悲壮感以上に恐怖心を煽る。意味も分からず、男は思わず眼を背けながらその紅い何かを突き飛ばしてしまった。

 その瞬間、紅い何かは腕の中から小さなそれが零れ落ち地面に転がった。紅い何かは背中から倒れ込み、その瞬間、煤けた部分が裂け地面に幾つもの鮮血が撒き散らされた。だが紅い何かは己の身体になんぞ構っていなかった。転がった小さな何かのところまで必死に這い、震えながらそれを抱き締めた。

 男はその光景から目を背けると、その場から逃げるように走り去った。




 どれだけ走ったのかは分からない。見知った風景を見つけようと周囲を見渡す。ふと、ここが浦上川の近くだと気付く。

 喉が焼けるように乾く。井戸が無事であるはずもなく、その上に真夏なのだから仕方がないのかも知れない。

 水を求めるようにふらりふらりと浦上川の畔に辿り着き、男は言葉を失った。

 どす黒く濁った水面を埋めるように、幾つもの黒い何かが浮かんでいる。その水を甘そうに啜る何かで川辺は溢れ返っていた。水面に浮かぶそれが人の死体だと気付き、男は思わずその場に胃液を吐いてしまった。

 異様としか表現しようのない風景だった。あれは、あの黒く濁ったあれは毒水に違いない。いやきっとあれを啜る何かもそれを分かっている筈だ。それでも、啜らずにはおられぬほど身体が芯から焼け、水に乾き飢えているのだ。

「ぐぅっ、うぅえぇっぇええぇっぇぇっ」

 毒水を甘そうに啜った何かが、堪らずそれを吐き出した。だがそれでも、またその毒水を啜る。見開かれたその眼からは涙が溢れていた。

 ここが本当に自分が生きてきたあの長崎の街なのか、実は自分はもう死んでいてここは地獄なのではないのか、そう疑いたくなるような光景だった。

「あっ、ああっ、み、みじゅうぅぅぅ」

 その時、ちょうど男の胸元くらいの背丈しかない紅い何かが、その毒水を求めて覚束ない足取りで川辺に下りていこうとした。

 思わず男はその腕を掴む。あれは毒水だ。飲んで無事でいられる筈がないのだから。

 その瞬間、向けられた強烈な光の宿る眼は男は心を射抜き、その背に冷たい何かが走り、戦慄と恐怖に芯から震えた。その眼に宿るそれは、間違いなく狂気と憎悪だった。あの毒水を飲むことを邪魔しようとしている男を殺そうとしている、そんな眼をしていた。

 身体の芯が凍えていくのが分かった。思わず手を離してしまう。するとそれはゆっくりと川辺に下りていく。だが毒水に群がる、身体の大きい無数のそれに弾かれ、土手に転がるとそのまま動かなくなってしまった。

 ここは地獄に違いない、男はそう思った。そしてその瞬間、妻と幼い我が子の姿が脳裏を過ぎった。そう、この地獄の何処かにふたりはいる。二人を連れてこの地獄から逃げ出すのだ。

 地獄の川に背を向け、男は自宅へと急いだ。




 自宅は瓦礫と化していた。泣き喚きながらそれらを除けようとするものの、それは一向に進まなかった。

 丸一日掛けてひとりで動かせる瓦礫は除けた。だがふたりの姿は見つからなかった。

 陽が堕ちようとしている。逢魔が刻には魔が現われると云う。だが、ここには魔ではなく地獄そのものが姿を現していた。

「あ、あんた、無事だったのかい」

 唐突に耳に届いた声は皺枯れていて、視線に飛び込んできたその姿は魑魅魍魎悪鬼餓鬼にすら見えた。ふと、それが隣に住む老婆だと気付く。視線を向けると、黒く煤けてはいたがまだ人と分かる老婆が、瓦礫から拾ったのであろう細い木を杖の代わりにして立っていた。

「よかったよ、無事で」

 老婆はその場に座り込むと、安堵したかのように大きく息を吐いた。男は視線を下げると、絶望したかのように膝を付き首を横に振った。

「奥さんと子供は見つからなかったのかい」

 老婆の言葉に、男は一度自宅の瓦礫に視線を向け、小さく頷いた。それを見た老婆は慌てた様子で男にこう告げた。

「家にはいなかった筈だよ。爆弾が落ちる少し前、買い物に出掛けるのを見たから」

 その言葉は男に微かな希望を与えた。男は老婆に頭を下げると、市場へと急いだ。




 市場への道すがら、転がる黒く煤け紅く爛れたそれらのひとつずつにすら、妻と我が子の姿を探す。

 信じている信じていないという言葉には最早、何の意味も残っていなかった。生きている筈だ、生きている筈もない、と自問自答を繰り返しながら、ひとつひとつのそれを確認した。

 激痛に身体を丸め固まったそれがいた。その側で座り込み俯き動かなくなったそれもいた。頭が吹き込んだそれ、下半身がないそれ、互いを庇い合うように抱き合う小さなそれら、ひとつひとつが男から希望を奪っていった。

 この地獄はどうしてこの街に姿を現したのだろうか。この街に住む人々はそこまでの業を背負っていたのだろうか。

 確かにこの国は戦争を起こし、この街にも大きな造船所があり何隻もの軍艦が造られていた。だからこの町の人々は地獄に堕ちねばならなかったとでもいうのだろうか。

 陽が堕ち陽が昇り、また陽が堕ち陽が昇る。男は一刻も休まずに妻と子を探した。いつしか転がる何かには蝿が集り蛆が涌き、もう異臭にすら慣れ感じなくなった。

 喉が焼けるようだ。だがこの街のどこかに妻と子がいる。そう思うと居ても立ってもいられなかった。

 何日が過ぎたのか、それは分からない。市場から程近い道端に、小さな赤子を大切に抱き締めながら転がるそれを見つけた。その焦げ縮れた髪には、見覚えのある簪が差してあった。面影など何も残されていない。それでも、それは間違いなく、探し求めた妻と子だった。

 男は泣き喚きながら、集る蝿と蠢く蛆を手で払う。払っても払ってそれは集り蠢く。まるで男の絶望を喰らい悦ぶかのように。

『堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ――』

 不意に耳に届いたラジヲの音が意味するものは終焉ではなく――




 小さな墓の前に老人は座り、目を閉じ手を合わせ、ただ只管に祈っていた。墓前に供えられているのは、二本のミネラルウォーターと菊の花。

 罪があるとするならば、罰が下されても仕方があるまい。だが未だ老人には、愛した妻と子が犯した業が見えない、分からない。

「戦争を終わらす為にあれが必要だった」と、あの正義を掲げる国の人間は口々に云う。だが本当にそうだったのだろうかという疑問はどうしても消せない。

 老人の耳には、未だにあのラジヲの音が残っていた。愛する妻と子を殺されても尚、耐え忍び生きよと云うのか。

 そして誰を憎めばいいのだろうか。

 八月九日十一時二分、今年はもまた黙祷を促すサイレンが長崎の街に轟く。じっと目を瞑り祈る老人の頬には涙が伝っていた。

 真夏の強い日差しの中、供えられた菊の花が風に揺れていた。

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