マツモト先生とあたし

 朝、六時半。校庭でラジオ体操がある。子どもたちとお年寄りが集まって、元気よく体操してるらしい。


 あたしは、校庭から徒歩三十秒の教員住宅に住んでるから、やっぱり起きちゃうんだよね。声と音のせいだけじゃなくて、「ひょっとして子どもたちが押しかけてくるんじゃないか」って危機感で。


 で、その危機感が的中した。ビビーッと鳴る玄関ブザー。と同時に、子どもたちの声。


「タカハシ先生ー!」


 女の子三人だな、今の声。


「はーい?」


 Tシャツとショーパンにノーメイクだけど、顔は洗ったし、寝ぐせはついてない。あたしは玄関に出た。


 案の定、うちのクラスの女の子三人。リホちゃんとサリナちゃんとルミちゃん。代表して、リホちゃんが口を開いた。


「タカハシ先生、いつマツモト先生と結婚すると?」

「はぁっ!?」


 何よそれ? 今までで最強に話が飛躍してるんですけど?


「昨日、おみやげ持ってマツモト先生の家に行ったとやろ?」

「……そ、そうだけど」


 変な訊き方しないでよ。おみやげ持ってったのは、ごはんのお礼だよ?


「昼間は、一緒にテニスしてデートしたとやろ?」

「デートじゃないよ、違うからそれ!」

「夜、二人で星ば見ながら歩いとったって?」

「それも違う、二人じゃなかったんだってば!」


 女の子たち、にまにまして、顔を見合わせてる。


 昨日のことは、誰かが目撃してたんだとしても、不自然じゃない。むしろ、見られてて当然。だけど、常にメーちゃんが一緒にいた。デートなんかじゃなかったのに。噂って、余計な尾ひれはつくくせに、大事な情報は抜け落ちるもんなの?


「あのねぇ、三人とも、変なこと言ってないで……」


 あたしの話は途中だった。でも、声が止まる。


「ちょっ……おい、おまえら、何ば考えとっとや?」


 ダイキくんとショウマくんに引っ張られて、マツモト先生が現れた。


 って、ちょっと待って! あたし、思いっきり部屋着なんですけど!


 リホちゃんとショウマくんが、マツモト先生を玄関の内側に押し込んだ。マセガキどもの、楽しそうな笑顔。


「じゃ、ごゆっくりぃ」


 ガラガラぴしゃん、と引き戸が閉まる。きゃーっと声をあげて、子どもたちが走っていく。


 えっと……。


 上がりかまちの下で、マツモト先生が頭を掻いた。苦々しい顔をして、そっぽを向いている。


「今朝、ラジオ体操に出てみたら、これですよ。わけわからん噂が広まっとって、収集つかんとです」

「そ、そうですか……」

「不注意なことばしてしまって、すんません。迷惑でしょう? これ以上、誤解されんごと、もうお誘いしませんけん」


 マツモト先生の切れ長な目は、どこか低い場所をにらんでるみたいで、あたしのほうを見てはくれない。整ってるせいでますます無愛想に見える顔は、何を思ってるのか、わからない。


 セミが鳴いてる。早朝だけど、そろそろ暑い。マツモト先生の額から、汗のしずくが流れた。キラッと流れた。


「……やだ」


 気付いたら、あたしは、泣きそうになっていた。


 昨日、楽しかった。マツモト先生と一緒にいて、テニスして、いっぱい笑って、おいしいごはんと甘いもの食べた。それが心から楽しかった。


 迷惑なんかじゃない。噂にはびっくりした。でも、もう誘ってもらえないなんて、やだ。


 マツモト先生が、ふてくされた口調で言った。


「じゃあ、付き合いますか?」


 カチンと来た。何、その仕方なそうな言い方? あたし、今、本気の本心で「やだ」って言ったのに。


「じゃあ、って何ですか!?」


 マツモト先生が、肩で深呼吸した。背筋を伸ばして、顔を上げた。くっきりとした眉、男性的な鼻筋。薄い唇は、生クリームをつけてたときと違って、きりりと引き結ばれている。


 その唇がキッパリと開かれて、張りのある声が、告げた。


「おれと付き合ってください。お願いします」


 マツモト先生の鍛えられた全身が、ピシリと礼をした。根っから体育会系なんだな、この人。まっすぐで、不器用なくらいで、誰よりも強くて凛々しい。


 守られるばっかりで情けないあたしだけど、せめて、今この声だけは震えないでほしい。


「はい。よろしくお願いします」


 マツモト先生が、バッと体を起こした。切れ長の目が見開かれていた。目は、キラキラしていた。驚きみたいな、喜びみたいな、キラキラだった。

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