第5話 隙間の瞳
叫び声は天井にぶつかり、その声は壁に吸い込まれて消えていく。床は僕の身体を徐々に冷やしていく。その冷えた身体を手繰り寄せるように自ら強く抱き締めた。
逃げることも進むこともままならず床に伝わる心臓の音が頸動脈を震わせ耳の奥に響く。皮膚の下、内側をどくどくと勢いづき流れゆく血液。そこだけにじんわりと温かさを感じる。生きているという証の音。暫くその自分のなかで奏でる音に呆けていた。
此処に来て何時間経ったのか、何日経ったのだろうか。絶望よりも金の心配をする自分に少しだけ安堵の溜息を漏らす。体勢を元に戻し、意を決して階段を見上げる。あの悪趣味な屏風の奥の水音と、女たちの嗤う声に心は揺れ、後ろ髪を何度も何度も引かれたが、騒めく音に恐怖を一度感じれば選択は簡単だろう。僕は上を見上げ螺旋状の階段に足を踏み入れる。
一歩踏み、又、一歩踏み、乾いた木の擦れ合わさる音に背筋が痺れる。軽く踏み入れる度にその乾いた音は首筋から後頭部をぞわぞわとさせた。
『おんや? にいさんはこちらを選んだという事は儂の腹のなかへ収めてもええっちゅう事やねえ?』
その声は高音なのにも関わらず腹の底に低く響かせた。その声のヌシを背後に感じ、ゆっくりと振り返り見上げた瞬間に僕は腰を抜かしかけた。
「ああああ……」
声にならない僕のその声は、そいつを生臭い吐息を漏らせ笑わせる。僕の眼はヌシをはっきり写したのだ。
新緑の深い碧は次第に黄色に色を変え、中心にある黒い点がゆっくりと大きく、男の拳ほどになった。ぐるりと廻る球体は粘膜に包まれた目玉だと僕は気付く。
黄金に輝く長い睫毛が何度も瞬きを繰り返し動作を大袈裟に魅せる。白く立派な髭。桃色の鼻先。口角の上がった肉の詰まった膨よかな口元。その上、黄金色の毛皮からは嫌に芳ばしい香りが僕の鼻腔を擽った。
『兄さんの耳はどんな音をどう聴きよるんか? 兄さんの口は味をどう感じる? 兄さんのその眼は儂をどう見よる? 兄さんの恐怖の旋律の音色は空気を伝わって儂の喉は痒うてしゃあないわ……兄さん責任とって見てはくれんかのう?』
その声のヌシが大きな猫だと気がつくのにそう時間はかからなかった。
「それは……」
『なんや? あかんのか?』
上手く喋る事が出来ない。もごもごと何かが喉につまり息が上手く出来ずに僕は手を焦って大振りに動かした。
……きっと、こいつの口の中を覗いたら終わりだと僕は思った。
『にいさんは、ええ匂いがするねえ。きっと噛み砕いたら、ええ音が後頭部まで響くんやろうねえ。兄さんの肉の味も口から滴る血の匂いも考えただけで堪らんわ! 早う、こっちを覗きにおいで!』
眼を何度も細めては、卑劣な声を漏らし粘りのある口を開け嗤う。
「このままでは美味しくないでしょ? ほら、下ごしらえをした方が……」
苦し紛れに言葉を発する。ヌシはニヤリと眼を細めて、
『どうするんか教えてみ? 塩か? 胡椒か? 油で浸すんもええな。ああ、腹が鳴るわ……どうすればええんや?』
「まずは冷えた身体を風呂で清めて柔らかくすればいい!」
『……ほお』
「次に香草と塩で味を馴染ませて酢と油で、ひと晩浸すと美味しく仕上がると思いますよ」
『ひと晩やて? アカンな、そんなに待たれへんなあ!』
「きっと頬が落ちるほどの美味い味になるって保証します!」
なんてやり取りをやっているのだろうか? 我ながら情けないと思いつつも逃れる事を考えていた。ヌシは少し考えて黙ったまま僕の眼を睨みつけた。
『ふうん……まあええわ! そしたら兄さんが湯浴みしてきたら塩と胡椒の窯へ漬けて油と酢へ浸すんやな? 嘘ついてへんやろな?』
「そんな滅相もない!」
『やっぱり儂は生で喰いたい! ごたごたぬかさんと口に早うお入り!』
作戦は作戦で終わりか! もう観念しなくちゃ駄目かと僕は項垂れてしまった。
『もう! ええ加減にしよし! その客はアンタの客やないで? 遠慮いう言葉を知らんとは云わせませんよ!』
階段の上段から女の声が聞こえてきた。
『なんや! コイツはあんさんのお客かいな? はよう言わんから……悪いことしたねえ、兄さん……』
そう云うと大きな眼は闇に吸い込まれ音も無く、その場から最初から何も無かったようにヌシは居なくなってしまった。
ただ、芳ばしい香りがまだ僕に纏わり離さずにまるでお供するようなかたちとなった。
階段の上から聞こえる美しくも強く荒々しい声。
『兄さん……そんな所で立ち止まっていないでこっちへ上がってらっしゃいな?』
女性であること以外の情報はなく、螺旋状の白い階段は何処までも続く錯覚を僕の眼に映した。
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