第4話 世迷言の匣
僕は屏風にもう一度目を戻す。どうしてもその奥にある襖が気になって気になって仕方が無いのだ。襖の奥は、なにやら騒がしい。微かに聞こえる女の嗤い声、そして水音も欲を唆った。一枚の襖を隔てた世界は僕の思った通りの欲にまみれた想像の空間なのか? 未確認の心は否応にも踊り高鳴った。
だが、こんな時に限って子供の頃に両親や祖父が口うるさく、
「此処は開けちゃならないよ? いいね? 決して勝手に覗いちゃいけないんだよ? きっと良くない物が見えてしまうからね……」
と、言われた事を思い出す。子供心を擽り、禁断の匣を開けてしまいそうになる魅惑の言葉。
今の大人の僕なら、気味の悪い言い回しだと感じただろう。
固く閉ざされた長く暗い廊下の突き当たりの部屋。漆黒の重厚な扉。引手は、てらてらと妖しく光り、引手の金具が銅の匂いを鼻の奥に残す。微かに聞こえる嗤い声と、ごとごとと揺れる薄い窓ガラス。廊下が遠く細長く、不安と期待に眩暈がした。
あの時の『開けてはいけない』の言葉。
葛藤の末、あの頃の僕は興味心は恐怖に負けてしまい開けて見ることが出来なかった。
あの奥には一体何があったのだろうか? だけど臆病だったあの頃とは今の僕は違う。
そして此処は、あの家とは違うのだ。そうこう考えている間にも時間だけは無駄に過ぎていく。
ガタガタガタン!
突然の大きな音に僕は身体を震わせる。襖の奥で何かが倒れたのだろうか? はたまた落ちたのか? とにかく先程までの騒がしく楽しげな音とは違う大きな物音が鳴った。
足が竦む。此処からは先に行っちゃならない先に進むな。と、己の何かが躊躇させる。この先にある期待は恐怖にすり変わる。
暫く考えた末、やはり僕には荷が重いと感じ、来た道を戻るという選択に陥る。冷静を取り戻す為に大きく深呼吸をする、そうして背後を振り返る。
僕はここで大きな間違えに、ひとつ気が付くのだ。出口など此処には無いということに。入ってきた筈の扉は跡形なく消えていたのである。
いや、待て。最初から扉なんてモノは合ったのだろうか? 存在を否定する言葉が頭の隅に集まる。何が起こった? 何処からここまで来た? 何の為に此処に来た? いくら考えてもこの状況に頭は全く着いていかない。
音もなく、風が吹くこともない閉鎖された空間。生暖かい水の臭い、それに、ねっとりと纏わりつく湿気に気が遠くなった。左耳に重い耳鳴りがし喉奥に苦味を感じ、猛烈な吐き気が僕を襲う。僕は全てから遮断されたようにその場に膝から崩れ落ちる。今にも吸い込まれそうな黒光りする板場の床で蹲り大声を上げた。
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