白いウサギ

天野秀作

白いうさぎ

  いつも、眠る前に友里とお話しをする


これと言って特別な話題があるわけではない


その日あった出来事や趣味の話など


取り留めもないことを心のままに語る


でも、友里にとって一日のうちで一番幸せな時間




――いっしょに寝てほしいな


友里は口癖のように言う


僕がまだ机に向って仕事をしていても、


友里が眠くなって横になる時は、


すべての作業はストップ


そしてお布団を敷いて、友里の横に添い寝をする


僕も疲れている時は、友里といっしょに眠ってしまう


そうでない時や、し残したことがある時は、


友里が寝静まったのを見計らって再び机に向う




  それが僕の日課だった


  もう十年以上もこの習慣を続けている



  ――わたしより先に眠らないで……



  これも友里の口癖

  

  

僕が先に眠ると友里は淋しくて死んでしまうらしい

 

まるでうさぎだ

 

色白な肌をしている。だから友里は白うさぎだ

 

ホントか嘘か、うさぎは淋しいと死ぬらしい

 

だから友里は人の格好はしているが


きっとうさぎに違いない

 

僕はいつも友里が寝息を立てるまで


眠らずに見守っている

 

恐ろしいことが何も起こらないように……






裏のアルミサッシを開ければ


都市型マンションによくある猫の額ほどの小さなテラス

 

僕の部屋は一階だったので、その向うはすぐに道路だ


テラスと道路の間には


冬でも蔦の生い茂るフェンスで仕切られていて


道路側からは部屋は見えない

  

逆に二人の寝ている所からも道路は見えない

 

狭いワンルームマンションだ


まるでうさぎ小屋みたいだ





――それは夕べの出来事だった


友里の 「先に眠らないで」 の約束も虚しく


僕は強い睡魔に襲われてしまい


会話が途切れた僅かな隙を衝いて、僕は不覚にも


深いまどろみの淵へと落ちてしまった

 

この暗い部屋にたった一人彼女を残して……






それが夢なのか現実なのか


もしかしたら幻なのかもしれない

 

ふと窓の外を見ると


テラスの向こうに小さな公園が見えた

 

そこにあるはずの蔦の生い茂るフェンスはなかった

 

暗い部屋の中とは対照的に


そこは明るい日の光が燦々と溢れていて


とても清澄な感じがした 


たぶんそれはきっと、僕の遠い記憶の中の景色だ


その小さな公園には


ブランコと小さな滑り台

 

それと中央が少し小高くなっていて


そこだけが鮮やかな緑の芝生に覆われている

 

その真ん中にベンチが置かれていた


明らかに異国の人だとわかる奇妙な男が二人


こちらに向かって腰掛けていた

 

よく見ると、その二人の男はさっきからこっちを指差して


何か大声で叫んでいる

 

もちろん僕はその男たちを知らない

 

彼らは何者で、いったい何を叫んでいるのだろう


  ――何を怒鳴っているの?


僕は一生懸命に聞き取ろうとした

 

それは日本語ではない、英語でもない


聞いたこともない異国の言葉だ

 

あまりに大声で叫び続けていたので


僕はその男たちが怖くなった


僕は、その男たちを気にしていない振りをしながら

  

アルミサッシをゆっくりと閉めた




――部屋に静寂が戻った


ふと気がつくと……


隣で寝ていたはずの友里がいない!


耳を澄ませばキッチンの方から何やら物音が聞こえる


 

ジャーッ ジャーッ……

 

水の音だ 


咽が渇いたので水でも飲んでいるのだろうか? 

 

でも僕は再び睡魔に襲われてしまった

 

ダメだ。眠ったらダメだ 


うとうとしながら友里を待った

 

でも友里はなかなか戻って来ない


どうしたのかな? 大丈夫かな?  


様子を見に行こうとした時、ドアが開いて友里が戻って来た



――どうしたの?


  

――秘密…… 


友里はいたずらな笑顔を浮かべて答えた

 

僕はそれ以上何も聞かない

 

そしてまたお布団に横になって二人とも暫くだまっていた

 

  

その時、暗闇の中に彼女の震える声が


小さく小さく響いた





 ――手、切ってた……




僕はハッとしてアルミサッシを開ける


そこはいつもの猫の額のようなテラス


その向こうには蔦が生い茂り、その外は見えなかった

 

もちろん公園もベンチも例の怪しげな二人の男もいない

  

ただ黒い静寂だけがあった

 

僕は再びアルミサッシを閉め、友里の方を見た

 

友里は(急にどうしたの?) とでも言いたげに


不思議そうに僕の所作を見ている



  ――手、大丈夫か? 痛くないか?


 

  ――うん、大丈夫、ほとんど切れてないから……




いつものように

 

いつもみたいに

 

友里は、別に死にたいわけではない

 

流れる赤い血潮を見ることで


自分はここで生きている 


ただそれだけを確認したかっただけだろう


 

いつものように


 

いつもみたいに 


友里にとって、手を切ることは生きていること

 

心の傷はどんなに深くても見ることはできない

 

でも体に付いた傷はわかりやすい

 

そこに友里が求めるものがある



 ――それは安心感

  

あのベンチに居た男たち


きっと僕に友里のことを警告してくれたのだろう

 

僕は心の中であの二人にお礼を言って


そして、友里の頭をやさしく撫でてやった



 ――もう、大丈夫だよ、友里



それから友里の傷ついた手首にそっとキスをした



 ――わたしね……


 ――やっぱりあなたじゃなかったらダメみたい


そう言って友里女は肩を震わせて静かに泣いた



――どこにも行かないで……


  

これもいつもの口癖だ


そう言うと友里は、僕の手を強く握り


僕の肩に額を埋めた 


友里の額の温もりといっしょにその不安も


墨を溶いたようにゆっくりと僕の中に広がる



――大丈夫、大丈夫……ずっとここにいるよ



僕は彼女の背中を撫で続けると……

 

やがて小さく寝息を立て始めた 


次に目覚めるまでの少しの間だけ


白いうさぎは、その苦悩から解放される



 ――おやすみ、友里……


               




     白いうさぎ    完  


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白いウサギ 天野秀作 @amachan1101

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