月の中の影街
月に住む影人の少女イアは、この日を心待ちにしていた。
影のように暗く透き通った体の彼女は、月面のデコボコ道を滑る様に走り抜ける。
街の中はいつもよりせわしなく、イアはますます期待を膨らませた。
「お父さん、お父さん。太陽が欠けてきたよ」
家の扉を元気よく開け、飛び込んだ勢いそのままに彼女の父親——ガレの膝に飛び乗る。
レゴリス石の鑑定をしていたガレは手を止め、はしゃぐ娘のおぼろげな頭を撫でた。
「そうか、そうしたらもうそろそろだな」
「今度はどうかなあ。前はあの子が来てくれなくてつまんなかったから」
娘が見つめる窓の向こうでは、まばゆく発光する太陽の円が、地球の影に食われていくところだった。
地球における月食の日、月では反対に「日食」が起こる。
地球が太陽を隠すのだ。
月面を地球の影が覆うとき、地球人——正確には地球人の影が、この月面世界にやってくる。
地球と月を一直線に結ぶ、影のトンネルを通って。
「あの地球人の子……サヨコという名前だったな。あの子がまたうまくここへ来てくれるといいが」
「大丈夫、約束してくれたもん。きっとまたここに帰ってくるって」
イアは父親の膝から飛び降り、砂遊びのスコップを棚から取り出した。
前々回の「日食」のとき、イアとサヨコが一緒に作った砂の山は、まだ家の前に残ったままだ。
何度も崩れかけたが、そのたびにイアが元に戻していたのを、ガレはよく知っている。
いよいよイアたちの街にも巨大な影が落ち始め、街の人々のざわめきは一層大きくなった。
ゆっくりと街に覆いかぶさった影は、あたりを完全に包み込み、宇宙に浮かぶ輪っか状になった太陽の「フチ」と星々が、月面世界を鈍く照らす。
そのとき、玄関で様子を眺めていた人々の足元で、わずかに砂が舞い上がった。
辺りより一層濃い影が、何かを形作りながら地面から生えてくる。
まるで植物の早回しの成長を撮影した映像のようで、それは街のあちこちで発生し、ようやくハッキリとした形に収まると動きを止めた。
ソレは四角柱の建物のような形をしている。
四角柱の側面に備え付けられたドアが開くと、中からゾロゾロと人型の影が出ててきた。
彼らこそが、影の地球人だった。
月の影人たちはめいめいにエメラルド色のランプを持って、彼らの元へ駆けつけて行く。
さわさわと囁きあう地球人の集団の中に潜り、イアはサヨコの姿を探した。
背の低いイアはすっかり周りに埋もれ、もどかしそうに跳ねてみたが、それでもまだまだ高さが足りない。
そのとき、何かに引っかかったのか、思い切り転んでしまった。
実体があやふやな影人も、体を擦り剥けば痛みを覚える。
足の傷口からジワジワと黒い霧が漏れ出し、イアはうずくまった。
痛がるイアの目の前に、小さな手のひらが差し出される。
「イア、ひさしぶり」
「サヨコ!……来てたんだね!」
その手を取って、跳ねるように立ち上がると、その体を抱きしめた。
「よかった。前、来てくれなかったから寂しかったんだ」
「ごめんね。前は上手くここにこれなかったの。それより、早く遊ぼう。ここには、ちょっとしか居れないから……」
「うん」
——————————————
ガレが玄関を開けると、外でひとしきりはしゃいできた2人が雪崩れ込んできた。
「ただいま、お父さん!見てみて、今度はサヨコ、来てくれたんだよ!」
元気のありあまった2人に押されつつも、ガレは2人を温かく迎え入れた。
「おお、久しぶりだなあ。少し、成長したんじゃないか。君も『君の本体』も、元気に背を伸ばしている証拠だろう」
サヨコは少し照れ臭そうに笑い、
「ありがとう、イアより大きくなったんだよ」
それから、少しだけモジモジと、ガレにお願いをした。
「……ねえ、今度もレゴリス石、持って帰っていい……?」
「もちろん、構わないよ。その為に、とびきり良いやつを選んでおいたからね」
ガレが取り出したレゴリス石は、天井に備えられたエメラルドのランプを反射して、不思議な色を纏っていた。
見る角度によって様々な色に変化するのだ。
ランプに石をかざして遊んでいたサヨコは、しばらくすると別の光が石を照らし始めたのに気付いた。
別れを告げる光だ。
地球の影が月から離れ始め、太陽が光を増しているのだ。
影の地球人が、地球へ帰る時間。
少しも遊び足りないイアは、つまらなそうに膨れる。
「あーあ、本当にあっという間だなあ。もっといっぱい時間があればいいのに」
「ごめんね、イア。次もちゃんとここに来れるようにがんばるから。……また、砂のお山といっしょに待っててくれる?」
毎日せっせと砂の山を維持していたことが見抜かれて、なんだか恥ずかしくなったイアは、サヨコをぎゅうと抱きしめてごまかした。
——————————————
地球人たちは、ふたたび四角柱の建物に入って行く。
イアとガレの親子に見送られ、サヨコもその列に加わった。
手には、先ほど貰ったレゴリス石が太陽の色に輝いている。
地球人たちがそれぞれの建物に入り終えると、いよいよ太陽の光は強くなった。
そうして地球の影が月からすっかり離れた頃には、四角柱の建物も、地球人も、すべて帰り去っていた。
———月面の影街の人々だけを残して。
こうして、あっという間の月面小旅行は、「本体」の知り得ない、影たちだけの密かな楽しみとされているのだった……。
——————————————
朝。
登校するサヨコが玄関で靴を履いているとき、突然、足元に石ころが転がった。
何の変哲もない石ころだ。
靴の中にでも入っていたのだろうか?
「行ってきます」
サヨコはそれを拾い上げると、庭に放った。
黄昏見本市 バチへび @bachiheavy
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