通過儀礼

「黄昏の味もよく染みた。さあ」


僕の背後に立つ男のくぐもった声が、夕暮れ差す室内に響いた。

足元の赤黒く汚れたタイル床から視線を移し、目の前に吊るされた大きな肉塊を見据える。

黄昏の光を受けて薄暗い室内に浮かび上がるソレは、ギラギラと赤くその存在を主張していた。

天井と繋がっているフックを外すと、肉塊はドサリと重みのある音を立てて真下の解体台へと落ちた。

右手に解体ナイフを持ち、ソレに近付く。

良く研がれた刃に夕日が反射し、僕の顔を照らす……。

ふとナイフを見やり、そこに映り込んだ自分と目があったとき、途端に我に返った。



僕は一体、何をしているんだ……?



この部屋も、いま自分がどの様な状況にあるのかも、いや、どういうことか自分が何者かさえ、何一つ記憶に無い。

ただ僕は間違いなく、つい数秒前まで、確かな意志を以ってこの気味の悪い肉塊を捌こうとしていた。


何故……?


冷たい金属の解体台の上では、生々しく柔らかい肉の塊が、落ちた時の衝撃そのままに平べったく横たわっている。

モノ言わぬソレは、今にも鼓動を打ち、何かを訴え始めそうな程に艶めいていた。


振り向くと、先ほどの声の主が窓に背を持たれて立っている。

逆光のせいで顔を窺うことはできず、赤黄色の光の中に漆黒の輪郭を浮かび上がらせていた。

腕を組み、何も言わずこちらを見続けている影の男……。

正体はわからないが、僕はこんな不気味な人間と知り合いだというのか?


何か一つでも思い出そうと慌ただしく目線を彷徨かせる僕と、ピクリとも動かず、口を開くこともない男。


やがて彼との間に張られた沈黙の弦の緊張感に耐え切れなくなり、問い掛けた。


「あの……。あなたは、誰ですか」


「……」


男は何も話さない。


「ここは、何処ですか」


「……」


「答えて下さい。僕は何者で、何故ここにいるんですか」


やり場のない困惑をぶつけるような僕の言葉に、ようやく男が返答をする。


「お前は、そのまま腐らせるつもりか」


「……は?」


意味が分からず、頓狂な反応をしてしまう。

男は構わず続けた。


「もうすぐ日が落ちる。それまでに決めなくてはならない」


「何の話ですか!僕はあなたのことも、ここが何処なのかも……自分のことだって、何も分かってないんです。どうか教えて下さい」


「……。それは『お前』の肉だ。好きにするといい。だが、太陽は待ってくれないぞ」


……返答になっていない上、何を言いたいのかサッパリ分からない。

だが、どうやらこの男は、あの肉を僕に捌かせたいようだった。

影に塗り隠された男の目が僕ごしに解体台を見つめ、それを促そうとしている。


男はふたたび黙り込み始めた。

訳がわからないが、有無を言わせない物腰のこの男が相手では、きっとこのままでは何も進展しないだろう。


振り向き、解体台の上の肉塊と向き合う。


……しかしこれは一体、何の肉なんだ。

大きさはおよそ人間一人サイズ程で、よく冷凍室に吊るされている牛肉などはあちこちに固そうな骨を浮き彫りにさせているが、目の前のコレには骨らしきものが見当たらず、まるで柔らかい肉が芯までギッシリと詰まっている様な……そんな奇妙な密度感があった。


思わず緊張してしまい、右手に握ったままの解体ナイフの持ち手が汗ばむ。


顔だけ男の方に向けると、腕を組み直し、まるで事件場の野次馬の様に、少し乗り出した姿勢でこちらを伺っている。


……いいだろう。何もわからないうちは、取り敢えずアイツの望むようにやってやる。


左手で肉塊に少し触れて見る。


ブニ……とした、湿った表面は、まるで生きているかの様に生暖かい。

ごくりと唾を飲み、思わず薄目になる。


意を決して両手で握りしめたナイフの切っ先を突き立てた。

プツプツと筋を切る不快な感触と共に、ずぶりと肉塊がナイフを飲み込む。


そのままの深さで横に滑らすと、まるで事前に切り込みでも入れてあったかの様に、いとも簡単に肉を裂くことができた。


素手で行うには辛いものがあるが——……。

一文字の裂け目に手を突っ込み、一気にその口を広げる。


そこで目にした、裂け目の中にあったモノ。


それは僕の想像を超えていた。


僕の声無き悲鳴を、手から滑り落ちたナイフが甲高い音で響かせる……。


「こ、これは……どういう……この、この肉は……!」


動揺した僕に、男が答える。


「そう、それは『お前』。お前自身だ」


「そんな、なんて悪趣味な……僕の……『自分の死体の作り物』を捌かせようなんて」


「イイヤ、作り物じゃない。紛れもなく『お前自身』だ」


「あ、アレが僕なら、じゃあいま此処にいる僕は一体……!」


「……さあ、急がねば。もうすぐ日が落ちる、日が落ちるぞ。……日が落ちて腐るぞ……」


そのとき、唐突にぼやぼやと男の言葉が右から左へ反響する様な眩暈が広がり、世界が反転する。


そのうち男の呟く声もおぼろげになり、膜を隔てた向こう側で響いているようになった。


ワケの分からないまま眩む意識に流され、霞む視界の霧に包まれるとき、肉塊と化したソレ——「僕」と目が合った……。



—————————



それからしばらく経ったのか、僕は薄暗い小部屋で目を覚ました。

コンクリートがむき出しになった無機質な壁と床を、真上の裸電球がぎこちなく照らしている。


外に通じるドアや窓は無く、部屋にあるのは一対の鉄製の机と粗末なスツールだけ。


そこに腰掛けていた僕は、目の前の机に何か小皿が置かれているのに気が付いた。

その小皿に盛られていたモノ……。

ソレは色素に乏しい部屋で唯一、目の覚める様な赤色を放っている。


肉、だ。


——何の肉か、などと考えたりはしなかった。

肉体というものは、こんな無残な姿になってもなお、精神と惹き合うものらしい。

ハッキリと分かる。

コレはさっきの……。


それにしても、僕はまだこの異常な世界にいるのか。

自らの素性すらハッキリしないまま、知らぬ男に肉を捌けと唆され、気がつけばこの気味の悪い肉のカタマリと、これまた記憶に無い部屋に閉じ込められている。


次はこれを食べろとでも言うのだろうか……自分の、肉を?


四角に切り出しただけの生肉が小綺麗な皿に乗っかり、左右にはナイフとフォークがきちんと並べられている。

なんという悪趣味さ……。


僕の身体が切り刻まれてこの肉になったのなら、いまここにいる僕のからだは、きっと魂だけで成り立っているのだ。

——帰るべき肉体を失った精神は、果たして何処へ向かえばいいのか?


そんなことをぼんやり考えながら、ナイフで肉を突く。


その拍子、ソレは筋に沿ってボロッと崩れた。

よく煮込んだ肉の様な、グズグズとした柔らかさ。


……ヒトの、肉——……。


一体、どんな味がするというのか。

おぞましい食人鬼でもなければ、一生味わうことはないだろう。

まして、自らの肉など。


ナイフを取り、肉の一片を刺して鼻先に持って行ってみる。

特に匂いがするわけではない。

眼前いっぱいに広がるぬるぬると濡れたような赤は、なぜだか縁日のりんご飴を彷彿とさせた……。


ワケの分からないまま捌かれ、皿に盛られた哀れな僕の身体、僕の肉。


きっと食べる以外に供養する他あるまい。

なかばヤケになった僕は、そのままソレを口に運ぶ。


……僕が想像していた様なグロテスクで、血生臭い味はしなかった。

むしろ無味無臭の何の面白みも無い後味に、どう感想をつけたものか必死に考えなければならなかったほどだ。

これはこれでつまらない——とナイフを皿に置こうとした、そのとき。


記憶の波が僕の脳内に押し寄せてきた。


僕の名前、年齢、住んでいる場所、家族の顔……。


正体不明の僕の正体、その詳細が、生まれた頃から成長して現在に至るまで走馬灯の様に、一気に流れ込む。


大量の情報に少しクラリとしながらも、自然と手は次の一切れを口に運ぶ。

食べるたびに次々と蘇る記憶。

そうだ、僕は都内の高校に通う学生だ……今は進路に迷い、行き詰まっている。


身体とそれに付随する記憶を取り戻す、魂としての僕。

全て食べ終えると同時に、机に沈み込む様に突っ伏して意識を失った。



—————————



飛び起きた僕を、朝の光が出迎える。


「夢……?」


それにしてはあまりにも現実的な感覚だった。

思わず口の周りを拭ったが、生肉の血の跡が手につくことはない。


あまり食欲の湧かないまま朝食を摂り、学校へと向かった……。



—————————



それから、僕は驚く程自分のことを理解できるようになった。

将来への方向性を見つけたとでも言うべきか。


別に、何でもこなせるようになったという訳ではない。

ただ鮮明に自分の成すべきことを理解し、手に取って形に触れることができるようになったというだけだ。

しかしそれは、進路に迷い、何をすればいいか分からず闇雲にもがいていた時に比べれば、まるで自分が別人に変わったかの様に思えた。



ある帰り道、駅のそばで手相占いの女が座っていた。

それだけなら特に関心無く通り過ぎるが、机の貼り紙に興味を惹かれる言葉が書いてある。

そこには「夢判断も致します」とあった。

僕はあまりこういう類のものは信じないが、どうにもあの夢のことだけはずっと気にかかっている。

時間もあるので、少しだけ立ち寄ってみることにした。



「——自分の身体を捌いて食べる夢、と仰いましたか」


「はい。あの夢……そう、どうにもあれから色々なことが変わった様に思えて。おかしな話ですけどね」


「……いいえ。実は、『自らを食べる夢』というのは、皆が等しく見るものなのです」


「えっ、そうなんですか?」


「いつ見るか、それは人によってまちまちなのですが、大体あなたくらいの、多感な学生の頃に見ると言われておりますが」


「でも、僕、友達に話したら笑われたんですよ」


「それは恐らく、まだその夢を見ていないか……あるいは、記憶していないからでしょう。あの夢を記憶に留めておけるのは極めて稀なことですので」


「はあ。なるほど……」


「それに、皆が皆、あなたの様になるわけではありません。そもそも目の前の肉を捌くのすら拒む人が多数でしょう。気味の悪い肉塊を捌いて、且つそれを食べられる人はそうそういません」


僕は褒められてるのか貶されてるのか、よく分からない気持ちになり俯いた。


占い師は続ける。


「『食べる』という対象への最大の理解、最大の愛情……。自らを食べ終えた人間は、自分のことを誰よりも理解できる様になるのです」


「随分詳しいんですね。もしかしてあなたもその、夢を記憶しているという一人ですか?」


「……そうですね。ただ、私はあなたの様には何も出来なくて、ただ立ち尽くしていただけで、腐らせてしまったのですが……」


占い師は、机に広げた何かしらの紙束を両手でまとめながら、淡々と話す。

そろそろ店を畳むのだろうか。


「どうぞ、あまり後味の良い夢ではなかったでしょうが、大切になさって下さい。自らを良く理解出来る人間は、とても強いのですから」



—————————



帰りの電車の中で、先程の占い師の言葉を何度か思い返していた。

ふと明日までの課題を思い出した僕は、奇妙な夢を脳の奥底にしまい、ノートと鉛筆を取り出す。


今日の電車の揺れは、不思議といつもより気にならなかった。

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