臨死
7:00
数軒先から発せられる叫び声。
夢の中にいるときから響いていたその声は、目を覚ましても未だ途切れることなく続いている。
寝ぼけた私の頭でも、その異様さはよく感じられた。
歳は4〜5歳といったところだろうか。
小さな男の子が、繰り返し繰り返し泣き叫んでいる。
「まだ死にたくない。まだ死にたくない」
まるで死に際の者が懇願するような、悲痛な声だ。
……はたして、言葉もまだまだ未発達な年齢の幼子が「まだ死にたくない」などと言うものだろうか?
親にきつく叱られでもしたのか、もしくは何らかの虐待を受けているのだろうか。
続くようなら、相談所へ通報なりした方がいいだろう……。
決して良くない目覚めではあったが、本日も仕事へ行かなくてはならない。
未だ続く男児の叫びを背に、私はシャワーを浴びに浴室へ向かった。
8:00
スーツに着替えを済ませ、家を出た。
雲ひとつない空虚な青空が、天を一色に染めている。
今朝はどうも、何かがおかしい……。
普段は通勤の車が行き交う道路は、ただの一台も車が通らず、通行人すらも見かけない。
息を止めた様に静まり切った街は、私の心臓の音を辺りに響かせた。
駅に着くと、ようやく人の姿をいくつか拝むことが出来た。
ぼんやりとホームに突っ立った彼らは、一様に口をモゴつかせている。
……何か独り言を言っているのだろうか?
そのうちの一人の、中年男の隣に立った私の耳に、その感情のない言葉が入ってきた。
「まだ死にたくない。まだ死にたくない。まだ死にたくない……」
ボソリ、ボソリと念仏の様に吐き出しつつ、虚空を見つめふらふらとしている。
「まだ死にたくない」……。
今日はやけにこの言葉に縁があるようだが、1日にそう何度も聞く様な台詞じゃないはずだ。
一体、何だというのだろう……。
いつもなら通勤ラッシュですし詰めの電車も、ガラガラの状態で到着した。
電車を降り、会社までの道を歩く間も、ほとんど人とすれ違わなかった。
新宿の真ん中で、ここまで人気が少ないのはあり得ない。
うんざりするほどの人混みも、いざ無くなれば堪らない不安を覚える。
9:00
会社に着いたが、まだ誰も出社していないようだ。
始業時間になっても来ないので、てっきり祝日かと勘違いしそうになるが、そうではない。
とりあえず、今は仕事をしておこう……。
早く、誰でもいいから、同僚とこのおかしな状況について話し合いたいものだ。
パソコンの電源を入れたところ、モニターが青一色で表示され、何も動作が出来ない。
故障してしまったか?
対処法を検索しようとスマートフォンを取り出した私は、何となしにSNSを覗いた。
もしかしたら、今朝の異常さを体験している人が他にもいるかもしれない。
タイムラインを見た私は、思わず息を飲んだ。
顔面中の筋肉が引きつったように、異様なほどの笑顔をたたえた私の顔、のアイコンのユーザーが、全く同じ投稿を何度も何度も、繰り返している……。
「まだ死にたくない。まだ死にたくない。まだ死にたくない。まだ死にたくない」……。
それが画面いっぱいにズラリと並ぶ様はあまりに気味が悪く、私は端末を机に放り投げた。
12:00
とっくに始業時間も過ぎたというのに、一向に誰も来る気配がない。
少し気分も悪くなってきたし、何れにせよパソコンが動かないのでは仕事もできない。
本日は早退する旨を上司の机の上に書置きし、会社を出た。
13:00
帰りの電車は一人も乗客がいなかった。
午後に差し掛かった太陽の光を受け、私の影だけが、がらんどうの車内に落ちている。
何駅か目で、一人の中年の女性が乗車してきた。
その女性は、7人掛けのシートの真ん中に座っている私の右隣に腰掛けた。
そこらじゅう席は空いているのに、なぜわざわざ隣に……?
薄気味悪いが、取り敢えず我慢しよう。
しばらく電車に揺られていたとき、ふと、隣に違和感を感じる。
この女性の顔、もしかして笑ってないか……?
それも、微笑むとかその程度のものではない。
顔中あらんかぎりの筋肉を引っ張り上げ、目を吊り上げ口も拳が入るほど大きく開けている、異常な笑い方だ。
さすがに怖いので直接顔を向けて見たわけではないが、視界の端にぼんやりととらえた雰囲気から十分に伝わってくる。
その女性は、笑い声を出すわけでもなく、ただその表情だけを顔に貼り付け、まっすぐ目の前を見据えている。
……こんなにもおかしなことが続く1日があっていいはずがない。
もう、いい加減にしてくれ……。
恐怖で固まっていたところに、新たな乗客がやってきた。
老夫婦と小さな男の子だ。
老夫婦はあろうことか私の目の前のつり革に立ち、男の子は私の左隣に座った。
今度は確かに、しっかりとそれを視界に捉えることが出来た。
笑顔、笑顔、笑顔。
隣の女性と同じ、常軌を逸した表情……。
狂った笑顔たちに取り囲まれた私は、半ば発狂したように彼らを押しのけ、隣の車両へと駆け抜けた。
13:30
次に停車した駅で下りた私は、住宅街を走っている。
家の最寄駅ではなかったが、あれ以上あの電車に乗り続けるのは耐えられなかった。
一刻も早く、家に帰りたい。
早く、早く……!
これは夢だ。
帰って、布団に入って、寝て、この狂った日を終わらせるんだ。
アハハハ……。
14:00
家に着いた。
あせだくになって肩で息をする自分が、
なんだか、おかしくて、おかしくてたまらない。
ハハハハ。
ばっかみたいだ。
アハハハハ……。
アホらしい、何もかも、全て。
狂ったこの世界も、自分も……。
玄関の鏡にうつった自分を見た。
そこにあったのは、
顔中の筋肉を引きつらせ、大口を開けて笑う、自分の顔。
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