幻想の濃縮


「毎日同じ事の繰り返し」

「ゲームみたいなファンタジーの世界に行ってみたい」



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男は退屈していた。


そんなある日、男は会社帰りに一冊の不思議な「本」を手に入れた。


これは何だろう?

特に何も書いていない、真っ白の本だ。

しかし男は、これが普通の本ではないことを感じとっていた。


何か、願い事でも書けば、叶うだろうか。

適当な思い付きで、


「空を飛んでみたい」


と書いてみた。


……特に何も起こる気配はない。

馬鹿馬鹿しい、そう吐き捨てて男は就寝した。



次の日。


男は見知らぬ世界にいた。

辺りでは人々が魔法のようなものを使い、空を飛び回っている。

まさしくファンタジーの世界に入り込んだようだった。


願いが叶ったのだ。


男もはじめは少しぎこちなかったものの、慣れると皆の様に思う存分大空を駆け回ることが出来た。

この風を切る感覚の、何と素晴らしいことだろう!


あの本はきっと「幻想」を「現実」に変える本だったのだ。


次の日もその次の日も、男は夢中で空を飛んだ。

すっかりコツを掴んだ男は、知り合った人々と競い合うこともあった。



しかしある日。

男はとてもつまらなそうな顔をしていた。


どこへ行っても皆が空を駆け回っている。

この世界では空を飛ぶことは「常識」なのだ。

前の世界で、車で移動していたのと何も変わらない。

単なる移動手段だ。


ここに「幻想」は無くなった……。



男は新たな「幻想」を本に求めた。


「時間を止める力が欲しい」


次の日目覚めた男は、また別の世界へ来ていた。

男はさっそく力を試してみた。

風に揺れる木は止まり、はばたく鳥は空中で静止している。

確かに願いは叶ったようだ。

だが、男が驚いたのは、空を飛ぶ能力がこの世界でも引き継がれていたことだ。


てっきり本に書いた事は一度に一つだけしか叶えられないものと思っていたので、嬉しい誤算と言えた。


二つの「幻想」を手に入れた男は、人の身では本来あり得ないはずの力を存分に振るった。



しかし、「幻想」はいつしか飽きがきて「常識」へと消費される。


その度に男は何度も何度も「幻想」を求め、本はそれに応えた。


新たな世界へ行くごとに、「幻想」は蓄積されていった……。



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ついに本の全てのページが埋まってしまった。

あまりにも複雑に事象が絡み合った、赤黒い混沌の世界で、男は一人佇んでいる。


極限まで「幻想」が濃縮された世界。

……しかし、それは男にとっては「常識」なのだ。


もはや「幻想」は出尽くされ、男に残ったものは莫大な数の、取るに足らないこと、つまらないもの、退屈がもたらす逃げようのない苦痛だけ。


一切の「幻想」も夢見ることが出来なくなった男は、ドロリと重苦しい雲の下で、辿々しく歩き始めた。


壁にぶつかっても当たり前の様にすり抜け、男はひたすらまっすぐに歩き続ける。


いつか「常識」の海で溺れ死ぬ時まで。

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