第3話
聡美の友人の男が、クスリで逮捕され、二年の刑をくらったのだ。
受刑者と文通をしたり、面会に行ったりすることは、スリリングで楽しいことだった。
その男と文通して、はや一年半、聡美が手紙を書くと、次の週の水曜の午後、必ず便箋七枚にギッチリと書かれた返事がもらえる。
便箋の右下にはブルーの検閲済みを記す印が押されていて、正真正銘の刑務所感が、たまらなく聡美を喜ばせ、満足させるのだ。
馬鹿な夢が叶った事は、聡美をどっかに行かせずすませている。
両手に大輪の花束、という訳でもなく、しょぼくれた感じがしないでもないが。
電話が鳴った。
付き合っている悟からだ。
もう、枯れてしまった聡美の花束。悟。
聡美は三日前に、悟に電話で、
「もう、家へ来ないで。」と言った。
遠まわしに「別れたい。」と言ったつもりだが、悟には「距離を取りましょう。」と捉えられているのだ。
だから、仕事が終わると、毎日悟は聡美に電話してくる。
「明後日の日曜日どうする?」
悟は言った。
悟は、週一回は聡美に会うつもりらしい。
聡美も断りきれない。
「上野の西洋美術館に行きたい。」
「今、美術館、何やってるの?」
「分からないけど、私はあそこの常設展が好きなの。」
「上野ならガンダム展がいいなあ。」
「私はガンダムを一度も見たことがないし、興味も無いの。」
「しょうがないなあ、じゃ西洋美術館でいいよ。
で、何時にする?」
お酒が絡む夜のデートを、聡美は避けたかった。
「十一時に公園口で。
私と一緒にお昼食べたい?」
「食べたい。
でもあそこらへん、コッテリした食いもんやしかないぞ。」
「回転寿司でも食べようよ。」
デートの約束をするスタート地点から、なんだか、噛み合っていない。
聡美は、これだったら、一人で美術館に行った方が楽しそう、と思う。
電話を切ったあと、日曜日、悟が聡美の部屋に持ち込んで、置いていったものを、いっそまとめて持って行って行こうかと考えていた。
DVD、本、マンガ、タオル、CD。
大した量ではないけれど、それを見た悟は、大した騒ぎを、上野の公園口で起こすかもしれない。
それを恐れて、聡美は悟の荷物を持っていくのを先延ばしにすることにした。
先週の日曜日、聡美のベッドで眠る悟を見て
「この人はどうしてここで寝てるんだろう。」唐突に思った。
それまで、どちらかというと聡美の方が熱烈だったのに。
付き合って丁度一年くらいだった。
憑き物が落ちたように、聡美の悟に対する思いは、綺麗さっぱりなくなっていた。
この人と、キスしたり、セックスしたりしていたのが、嘘みたいに、思える。
まるで見知らぬ男のように、悟のことが思える。
初めての経験だった。
聡美は男と付き合うと、相手にいつも振られていた。
振られたあとも、しばらく相手を思って苦しんできた。
日曜日のデートを気重に思いながら、聡美は自分自身にとまどった。
聡美は、自分がますます人間らしさを失っているのではなかろうかと恐れた。
このまま感情というものを失って、廃人になってしまうんじゃなかろうか。
恐れる気持ちで、その夜はよく眠れなかった。
日曜日、十一時十分前、聡美は上野の公園口から道路一本隔てた石段の上に座って悟を待った。
十一時丁度に悟はやってきた。
二人は公園口からそう遠くない回転寿司屋に入った。
お盆だからか、街全体も回転寿司屋も人はまばらだった。
二人は話らしい話もせず、黙りがちに寿司の皿を選んでは食べた。
聡美は三皿食べ終わると、熱いお茶を飲み、悟が食べ終わるのを待った。
悟は、終始伏し目だった。
特に楽しそうでもなかった。
これから起こること全てが、悪いことになる。そんな気がして、聡美は気分が晴れなかった。
そして、悪いことは起こるし、それは聡美が起こす。
西洋美術館まで二人は手を繋いで歩いた。
二人の、少なくとも聡美の心は繋がっていないのに。
美術館にはボルドー展が来ていた。
聡美はぼんやりと絵を観ながら、考えていた。
「美術館のいいところは。
ひんやりといつも涼しい所と、
口をきかなくていい所、
そして、騒ぐ子どもが居ない所。」
美術館自体も人はまばらだった。
ボルドーが来てるというのに。
夏休みの課題だろうか、ノートを持って何やら書き付けている、高校生らしき集団がいたことぐらいが目に付いただけ。
ボルドーを観ても、今の聡美の心は特に何も感じなかった。
いったん美術館を出て、喫煙所でタバコを吸いながら。
常設展を見るのはまた今度にしよう、ということで二人の話はまとまった。
膨大にあったボルドーの展示で、二人共疲れてしまったのだ。
こうして一緒に居ても、聡美の悟に対する思いが全く無いのを、聡美は再確認した。
悟が何を考えているかも分からない。
少なくとも、不機嫌そうではないのが聡美にとって救いだった。
「少し疲れたから、アイスコーヒーでも飲もうよ。」
聡美の提案に、悟は
「いいよー。」
と答えた。
その口ぶりから、悟がリラックスした心持ちであることを、聡美は汲み取ってホッとした。
少し歩いてルノアールに入った。
今度は、何となく手は繋がなかった。
喫煙可のテーブルにつき、聡美はアイスオレを頼み、悟はアイスコーヒーを頼んだ。
注文してから二人の前に飲み物が置かれるまで、二人は黙ったままだった。
「あの・・・・」
聡美が口を開くと
「別れたいんだろ。」
悟が遮った。
「俺は、聡美の俺に一生懸命なところが好きだ。
聡美と一緒に過ごす時間が好きだ。
ただ、お前の部屋でくつろぎすぎて、知らないうちに嫌な気持ちにさせていたら、謝る。
俺は、また、聡美と一緒に聡美の部屋でDVDを観たり、話をしたいんだ。」
悟は言葉を続けた。
「訳がわかんないんだよ。俺が何かしたか?一週間前の俺と、今の俺、どこも変わっていないのに、お前の態度は変わってく。
頼むから、俺を混乱させないでくれよ。」
「飽きたの。」
聡美は、我ながら酷い言葉だと思いながら、静かに言葉をぶつけた。
「え・・・・」
悟はしばらく、言葉を失った。
「飽きたって・・・・聡美、俺はオモチャじゃないんだ。
少しは、俺の心のことを考えてくれよ。」
「あなたの心の事を考えて、同情もとっくにしてる。
でも、もう私はあなたの事に興味が持てないし、好きでもないから。」
「俺のどこに飽きたんだよ。好きじゃなくなった理由をせめて教えろよ。」
「理由は・・・・無いよ。
気がついたら、好きじゃなくなってただけ。」
「他に好きな奴でも出来たのか。」
「好きな人なんて、誰ひとり居ないよ。」
「訳がわからなすぎるよ。
俺を納得させてくれよ。
あんなに俺に、夢中だったじゃないか。」
「そういうことも、あるよ。
部屋にある荷物どうする?」
「お前は人らしい心を持ってないよ。
荷物は後で送ってくれよ。」
「別にお互い嫌いになった訳じゃ無いから、これからも・・・・」
聡美のこの言葉が、何故か悟を一番不快にさせたらしい。
「お前なんかと付き合ってられるかよ。」
悟は静かに言うと、席を立って出て行った。
その背中を見ながら、聡美は言うべきことを言い残したことに気づいた。
(さよなら悟さん。)
その言葉を、心の中で呟くと、聡美は晴れやかな気持ちになった。
センチメンタルになんかならない。
そういうところが、
「人らしくない」のだろうか。
平坦な気持ちで、そんな事を考えながら聡美は帰りの電車に揺られていた。
少なくとも悟は悪くない。
傷つけてしまって悪かった。
帰ったら、悟の荷物をまとめて、シャワーでも浴びよう。
聡美は電車の中で予定を立て始めた。
聡美は聡美のマンションに到着し、いつものようにポストの中を覗いた。
一通の白い封書が入っていた。
ダイヤル式のポストの鍵を開け、封書を手に聡美は部屋に入るとクーラーをつけ、ペーパーナイフで封書を開けた。
手紙は聡美が寄付を続けているNPOからだった。
「拝啓、土田聡美様。
暑い日が続きますが、お元気でいらっしゃいますでしょうか。
当NPOは設立してから三年が経ち、同時に土田様からの、ご寄付も三年・・・・」
そこまで読むと、手紙の隙間から何かが、パサっと落ちた。
拾い上げてみると、ピンクの折り紙で折った「奴(やっこ)さん」だった。
奴さんの顔は緑のクレヨンでニッコリと描かれ、お腹のところには、幼い筆跡で「さとみちゃん」とオレンジのクレヨンで書かれていた。
裏返すと背中には、ブルーのクレヨンで、同じく幼い字で「ありがとう」と書かれていた。
聡美はピンクの奴さんを、そっと手で包んで、泣いた。
数年ぶりの涙だった。
センチメンタルになんかならない @hiyori6
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