第18話 ⑱

 順一の額の傷は相変わらず、よくならなかった。それどころか顔全体がすこしむくんできたようにも感じられた。まるで額にも心臓があるかのように、ドクンドクンと響き痛んだ。 

 昨夜、しっかりとした食事をとったので、体は前日の朝よりかは楽だった。洗面所で顔を洗う前に、鏡を見た。額の傷はザクロのように腫れあがり、両瞼もつるつるにふくらんでいる。

 今日はこれ以上、鏡を見ようとは思わない。

 爺さんが起きてきて、順一の顔をまじまじと見た。

「順さん。医者に行ったほうがいい」

「いや、昨日の朝よりかはよくなっているから、しばらくすると腫れもひいてくるよ」

「順さんよくなっちゃいない。悪いこと言わないから、医者に行ってくれ」

「だいじょうぶだ。多分明日あたりからよくなるよ」

 会社に着くと、いつもと同じように作業場に行き、仕事の準備を整え、溶接機のスイッチをいれた。 

 順一の周りにいるものは、誰一人、順一の顔を見ようとはしなかった。そばに順一の気配を感じると、思い切り嫌な顔した。

 男の作業員は壁に向かって「なんで会社にくるんだ」と言った。

 順一はなにも答えなかった。

午後の作業が始まって一時間が過ぎた頃、事務室の女が順一のところに来た。

「課長からの連絡だよ」

 女は横を向いたまま、順一に言って、紙を床に放り投げた。

『警察から連絡があった。作業をやめて、片付けろ。今からすぐに警察に行け。今日は会社には戻るな。おまえの額の傷は、作業中に倒れて機械の角にぶつけたことにしておけ』

順一が一番心配した『会社を首にするとか、停職にするとか』ということは書かれていなかった。

 しかし、その反面そのことが不思議でもあった。

四時前に西麻布警察に着いた。二階に上がり、以前と同じ小部屋に通された。この間の二人の刑事が机を挟んで順一の前と横に座った。上司の刑事が話し始めた。

「その顔はひどいな。どうした」

「作業中に滑って転んだときに、機械の角に頭を打ち付けました」

「いつだ」

「一昨日です」

「医者に行ったか」

「いやまだ行ってません」

「はやく行けよ。取り返しのつかないことになるぞ」

調書を書く刑事が順一の方を向く。

「その頭の傷と同じくらい、あんたにとって、よくない情報が入って来た。いいか正直に言うんだぞ。隠したり、嘘をついたりするとそれだけ罪は重くなるぞ」

そこまで言うと、順一が話し出すことを、二人の刑事は待った。

 順一には思い当たる節はない。ヤスベイが新たに何かを言ったのかもしれないが、ヤスベイが自分を陥れるはずはない。

 だからそれは、どこかに誤解があるのだ。

 自分にとってよくない内容が出てきたとしても、正直にすべてを明らかにすれば、きっとその誤解は解消するだろう。

 刑事が、ボールペンの後ろで二回机を叩く。

「自分から言うつもりはないのか」

「思い当たることがありません」

「そうか、時間がたってから、白状することになると、それだけ悪質だということになるがいいか」

 刑事は、この薬物犯罪に自分が関わっているという、確証を持っているのだろうか。そうでなければ、こんなに厳しく言うことはないだろう。しかし、なにがわかったのかを聞かなければ、順一もその誤解を解くことができない。 

 上司は「話をつめよう」と言った。

 刑事は仕方ないという顔をする。

「あんたの状況を調べると、同情すべきところもある。だから、自分から言い出すのを待ってるんだがね。いいか、途中からでも何か思い出したら、話していいぞ」

刑事はノートを開く。

「ヤスベイをアパートで見付けた日の土曜日だ。実は病院の薬局部を訪れた男がいることがわかった」

刑事は順一の目を矢を刺すように見た。

「時間は、三時頃だ。例の薬剤師を訪ねてきた。しかし、そのときにすでに薬剤師は逃亡していたのだ。それで薬局に居た者が、休んでいることを伝えると、慌てて立ち去ったそうだ。ヤスベイから物を受け取ることになっていた者がヤスベイがこないので直接病院にきた可能性がある。それがあんたじゃないかと思っているのだが、どうかね」

「私は、ヤスベイがそんなことをしているなんて夢にも思っていませんでした。もちろん病院も知りません」

「ヤスベイは、三年前から公園のベンチで、シンジケートに金で釣られていたのだ。病院で例の薬剤師から薬を受け取ると、薬剤師から指示された場所に行き、そこに表れた者に渡す。それで北海道から沖縄まで全国に行かされたようだ」

刑事が机の下の紙袋に手を突っ込み、背広の上着を取り出す。

「見覚えないか」

それは、最近、ヤスベイに貸した背広のようだ。

 刑事は、机の上にその上着を拡げて、

「これあんたのじゃないのか」と言った。

順一は、それを手に取ると、内ポケットに自分のイニシャルが入っているのを確認した。

「私のです」

「名古屋で薬のやり取りがあった場所から出てきた」

「ヤスベイさんに貸したものだと思います」

「ヤスベイもそう言っていたのだが、あんたから借りたと。でも、ヤスベイが着るには大きすぎる」

刑事は、順一から上着を受け取ると、また紙袋にしまう。

「これは、証拠品として預かるよ。あんたが着ていたとすれば何も問題ないのだが」

「私は名古屋に行く余裕も、お金もありません」

「名古屋は、あんたの仕事が終わってからでも、行って帰ってこれるのだ。金はあんたが払うわけじゃない」

「話をもとに戻すが、ヤスベイが捕まった日の三時に、あんたどこに居たんだ」

順一の恐れていた話が飛び出した。腫れあがった瞼の下の目が一瞬落ち着きなく動いたのを刑事は見逃さなかった。

「墓に居ました」

「何時から何時まで」

「仕事が終わってからですから、一時から四時くらいまでだと思います。ベンチに座ってました。墓に居ると落ち着くんです」

「三時間も居たのか」

「はい」

「そのような可能性もあると思って、調べたんだが、青山霊園の周りはタクシーの運転手で休憩場所にしている人も居るし、墓の中に入って行くと、ホームレスも居る。しかしあんたのような人間が三時間近くあそこに居たという情報は得られなかったね」

悪魔がレストランに向かい始めた。そこにマリがいる。ここは命を掛けて守りきらなければならない。

「しかし、私は墓に居ました。私が休める場所は墓しかない」

順一は、目を瞑り、そして重たい瞼を開く。分厚い瞼の縁がぬれているように感じた。

 胸の真ん中に、真っ黒な傷が開いている。

 その傷の縁を手探りで辿りながら、たぐり寄せようとすると、また別のところがズルッと開く。

 時間が腐った果実を握りつぶしたように形を留めていない。

「刑事さん。私はね、何も失うものがないんですよ。そして求めるものもない。死なないから生きているんです。職があるから、アパートに住んでいますが、職が得られなくなればホームレスになる。それでいいんです。この姿とこの顔を見て貰えれば、私が汚い金を貰いたがっていると思いますか?私が犯人だというのなら、それでもかまいません。牢屋で生きようが、外で生きようが、私にはあまり変わらないことだと思う。ただ嘘をつく必要がないから、やってないと言っているだけなんです」

上司の刑事が左手で顎をさすりながら話しはじめた。

「生きていくのは楽じゃない。それは私も同じだよ。それに生きていれば何か良いことも少しはあるかもしれない。そんなに悲観することもないだろう。人を疑わなければならない因果な商売なんだ。そんなに気を悪くしないで堪忍してくださいよ。取りあえず、手遅れになる前に医者に行くことだ。また連絡しますが、それまでにはその顔の怪我はなおしておいてください」

順一は立って一礼すると、署を出た。

外はすっかり暗くなっていた。

星の見えない夜空に、六本木ヒルズが、ばかでかくそびえ立っていた。その建物を背にまた青山霊園に入って行った。

 順一は、自分は執念深くはないと思っている。嫌がる相手にしつこくつきまとうことはしない。

 しかしマリには、約束が守れないことを謝らなければならないし、この間の件で礼も言いたかった。

 マリに会えないのはわかっている。悪魔の存在も外気にあたれば妄想だと思う反面、闇の中から重くのし掛かってくる。

 だから、遠くからその姿を少し見られることができれば、心の中で、謝り、礼を言って、すべて終わりにしようと思った。

 自分の中から、マリが与えてくれた夢を、完全に溶かしてしまいたかった。

 青山霊園を抜けて青山通りに出ると、そこから十分足らずでレストランに着く。

今日が、あのスポーツ新聞に出ていた、祝宴の日だ。

『マリもきっと招待されている』

 順一は最初、おぼろげにそう考えていたことが、今は間違いのないことだと思った。


 青山霊園の墓地通りを、人は全く歩いていなかった。

 ときおり車のヘッドライトが、蛍のような光を漂わせながらやって来て、その光がスッと消えるように、後ろに去っていく。

 左右の暗闇に墓石が立ち並んでいた。

 顔が熱くなって来たのがわかる。また熱が出てきたのだ。それとともに頭痛がし始めた。 

 いくら歩いても墓地の出口が見えてこない。

 何回も歩いた道だが、夜歩くの初めてだった。きっといつもの速さでは歩けてないのだ。

 体全体が火照って来た。寒気がする。吐き気もする。外人墓地のところでしゃがみ込んで休んだ。

 しかし、長くそうしていれば、立ち上がれなくなってしまう。

 思い切って立ち上がった。

 まるで酔っぱらいのようにふらふらと歩きはじめた。

 昨日と一緒だ。

 身体が動かなくなってきた。

 熱の中から、赤い闇が現れ、その奧から悪魔の笑い声が聞こえてきたような気がした。 

レストランの手前の信号から、歩道は通れなくなり、道路を挟んで反対側の歩道に誘導される。三車線ある車道も二車線が通行できなくなっている。

道路を挟んでレストランの前の歩道は、見物人で溢れかえっている。

 レストランの門に通じる階段のところはロープが引かれ、その外側に報道陣のカメラが放列を敷いている。 

 順一は、必死に門を正面で見るところまで来た。

 後ろに児童館の建物があり、その塀に寄りかかった。

 門の前に門番が衛兵のように立っている。その横に、燕尾服を着た財界人が、門番の助っ人のように立っている。 

 階段を下りたところに支配人が立って、来賓を迎えている。

 次々と高級車が門の前に到着する。ドアボーイが車のドア開ける。一斉にカメラのフラッシュが焚かれる。見物人から歓声が上がる。

 政財界人が晴れがましく門を入っていく。

世界のスーパースターが、艶やかな出で立ちで登場し、集まったファンに大きく手を振ってから足早に門の中に消えていく。

 各国の皇室が、護衛の車とともに到着し、最高の気品を輝かせながら、支配人の先導で入っていく。

 見物人の興奮が絶頂に達したところで、真っ白なリムジンが登場する。

 支配人が足早にかけよると、白い手袋をした手を差し伸べる。その手を取って、純白のドレスを身につけた少女が現れる。

今までにも増して激しくフラッシュが焚かれる。

 レストランの外壁いっぱいに飾られたイルミネーションに、星明かりのようなキラメキがあらわれた。

順一の斜め前に立っているアベックの男が彼女の方を向くと言った。

「あれが今話題になっている、何処かの国の姫君だよ」

 男は嘘をついたわけではなく、何かの雑誌で、そのような人も来ると言う内容の記事を読んだのだ。

 しかしそれは違っていた。

 彼女がバックからオペラグラス出す。

「えっ、そうなの。私知らなかった」

 その少女が、次に車から降りてくるエスコート役の老人を待つために、見物人の方を向いた。

 アベックの女がオペラグラスを目から離すと、男を見た。

「かわいい。かわいいね」

 男は、女の肩を抱くと

「おまえもかわいいよ」と言った。

見物人の方からも、一斉にフラッシュが焚かれ、どよめきが起こった。

 順一は、胸が詰まる思いで、心の中で叫んだ。

『マリさん。ごめん。そしてありがとう』


順一は肩をたたかれた。

 横に警察官が立っていた。

「ちょっとこの建物の裏に来てもらいたいんだが」

建物の後ろ側はやっと車が一台通れるくらいの道になっている。そこにパトカーと、この状況の中で、突発的な事態に対応するため、機動隊が乗った数台の護送車が待機していた。

順一を三人の警察官が囲んだ。

「職務質問をする」

 順一はそれはそうだろうと思った。自分がここに居るのはおかしい。

 一人の警官が身体検査をした。財布に小銭と地下鉄の定期が入っているだけだ。

 なぜここにいると聞かれたので、どこまで話していいか一瞬迷ったが、西麻布警察に呼ばれたことから話さないと、話の辻褄が合わなくなると思い覚悟をして話した。

 しかしレストランについては、地下鉄に乗るためにたまたま通りかかったことにした。

 警察官は西麻布警察に連絡を取り、確認した。

 やっと、解放された。しかし随分時間を使ってしまった。

 額が痛いのか、熱が高いのか、どちらか分からないほど朦朧としてきた。


 通りに戻ると、見物人は数人を残して、後はいなくなった。

 祝宴が終わるころに戻ってくる見物人もいるのだろう。そういう人達は、自分たちも食事に出掛けたのだ。

 カメラマンも放列からはずれ、思い思いの場所で休憩状態になっている。

 こちらも祝宴の終わりを待っているのだ。

順一は門を見た。

 門番だけが、やはり衛兵のように立っている。

 仮に遠目で順一を見たとしても誰だか分からないだろう。顔が腫れていて、以前の顔とは変わってしまっている。

 第一、順一のことなど覚えているはずはない。

 門番が扉を開け、レストランの中に入って行った。

 その後、扉の前に四人の警備員がたった。警察官も歩道に立ち警備している。

 順一は明日も仕事がある。出来るだけ早く寝て、少しでも体力を回復しなければと思った。

 順一は、表参道の駅に向かいながら、ふらふらする頭で、自分に言い聞かせた。

『これでいいんだ。後は何もかも落ちていけばいい』


 支配人が扉を開け飛び出してきた。

 階段をロープの外側から下り、表参道駅の方へ小走りで歩き始める。

 しかし、カメラマンや記者でそれに気付いた者はいなかった。むしろ、道路の向こう側にいた、数人の見物人がそれに気付いた。

 順一はふらふらする頭を必死で持ちこたえながら、表参道駅に向かっていた。

 支配人は手を挙げた。しかし順一は気がつかない。数人の見物人が手を挙げた。

 順一は洋品店前の信号の所を過ぎ、その先の交差点にある表参道駅の入り口を目指している。

 支配人が信号の前に来たとき、歩行者用信号が赤に変わった。

 支配人は胸の前で手を組んだ。

 門番が扉を開け飛び出して来た。

 支配人がたどった道を走り始める。

 体型に似合わない速さで、支配人の背中を疾風の如く駆け抜ける。

 支配人はその後ろ姿を見送った。

 門番は交差点を左に曲がる、その先にも地下鉄の入り口がある。

 また扉が開く。その時には、何人かのカメラマンが何かが起きたのではないかと感じはじめた。

 扉の前にマリがいる。

 カメラマンが慌ててカメラの所に戻った。

 マリが純白のドレスのスカートを右手で少し持ち上げると、階段をロープの外側に下りた。

 スイスから来た濃紺の制服を着た護衛の一人が、マリに気がつき、兵隊人形のようにマリの横にピタリと着く。

 マリが走り始める。

 支配人が走ってくるマリに気がつくと、走り寄り、両肩に優しく手を置くと何かを話す。

 マリは支配人と護衛に両方を囲まれて、またレストランの扉の中に戻っていった。

カメラマンは放列から離れ、また休憩モードになった。


順一はやっとの思いで地下鉄の階段の所にたどり着いた。階段がぐるぐる回っている。手すりを持ち、転げ落ちないように必死で一段一段下りていく。しかし途中で限界が来た。 

 階段にゆっくりと座り込む、目をつぶると、猛烈な勢いですべてが回転し始める。

『もうだめかもしれない。血は出ていないが、この間よりかはずっと悪いようだ。悪魔が勝利する時間が迫っている。しかし悪魔が勝利すれば、自分には安らぎが来る。そして汚い灰になる。

 マリは大丈夫だろうか。大丈夫だ。きっと大丈夫だ。あの美しさは悪魔を寄せ付けない。

 一太に、かあちゃんだと思いこませた美しさだ。

 いや思いこませたわけではない。かあちゃんになったのだ。

 俺の人生はなんで狂い始めた。いつ悪魔が入り込んだ。

 この人生の終焉でさえ、しっぽも見せない奴のために、振り回されてきたのだ。

 しかし、もしかすると、悪魔は、逃げ道のトリックかもしれない。

 悪魔を創造して、何もかもその責任にしてしまえば思考停止に持ち込める。

 生き続けるならば、凌ぎながら流れに堪えていかなければならなかった。自滅に追い込んではいけなかったのだ。

 生という水の流れが変わったのは、いつどうしてだ。

水路が腐ったので、水は流れないまま、あふれ出したのだろうか。そして混乱したのかもしれない。

 しかし、水路は腐るのだろうか。

 別の水路が出来た。

 そう別の水路が出来た。

 そんなことはない。一つの軸の上でしか生きられない。

 何が変わったのだ。何も変わってはいない。

 最初から何も変わってはいない。

 もしかすると、

 そうだ。それが合っている。

 水が湧き出したのだ。

 水路に水が湧き出した。水路のどこかに新たな水が湧き出した。同じ水路をたどって生きてきたけれど、水の質が変わったのだ。

 それは、本質的な違いだ。

 そうだ質が違うのだ。

 しかし、もう水路は断たれてしまう。質がどのように変わったのかわからいないままで、全てが終わってしまう』

 

「順一様。終わるわけには参りません」

 順一は声の方を向いた。しかし、もう目を開く力はなかった。

「マリ様がお待ちでございます。約束は果たさなければなりません。時は急を要しております。さて、私の肩におつかまりください」

  門番は順一の両脇に腕を入れて、抱き上げた。それから、地下鉄の階段を、満身に力を込めて上り始めた。

地下鉄の出口の透明な屋根の上に、冬の星が輝いていた。




        了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

レストランの約束 里岐 史紋 @yona

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ