第17話 ⑰
その日、爺さんは役所に行く日だった。爺さんがアパートを出ると、一太は順一の部屋に入り込んだ。
そこで、畳と壁にベッタリ血が着いているの見た。一太は叫びながら部屋をぐるぐる回り始めた。そして飛び上がると尻餅をついた。目に涙を溜め、力みはじめた。たくさんの量をしてしまった。
しばらく考えたすえ、一太は何とかしようと必死になった。順一の部屋で寝っ転がりながらパンツを脱いだ。
汚れが畳に拡がった。
それを、両手で始末しようとしながら、逆に畳にすり込んでしまい、さらに服、顔、頭、足それから壁にまで、汚れをが拡げてしまった。
異臭が部屋から、廊下に流れ出て行った。
その時、福祉の人が階段を上ってきた。階段の途中で異臭に気が付くと、急いで階段を駆け上がった。一太が、他人の部屋に入り込み汚物の中を転げ回っている。
壁には血のような跡もある。一太を部屋から引っ張り出すと、どこか体が傷ついていないかを確認する。
そのまま服を全部脱がし、洗濯機に入れる。一太の部屋からタオルを持ち出すと、水で一太の体を入念に拭いた。それから部屋に連れて行き、服を着させる。
一太の体を優しくさすりながら微笑み掛ける。一太は落ち着きを取り戻していった。
福祉の人が役所に、携帯から電話をする。
爺さんは、用を済ませ、先ほど役所を出たとのことだった。
まっすぐ帰ってくれば、三十分でアパートに着くのだが、いつも爺さんはそれから三時間以上、何処かをふらついて帰ってくる。
福祉の人は、順一の部屋の扉を閉め、一太にここに入ってはいけないと何回も言ってから、一階の印刷屋に行った。
社長に事情を説明する。
「隣の部屋はひどく汚れていますが、自分は入り込む権限がないので、そのままで帰ります。できれば、一太の為に掃除をしてもらえればありがたいのですが」
社長が、二人の従業員を呼び
「ちょっと見てきてくれ」と頼む。
年配の従業員が先に階段を上りはじめ、その後若い従業員がしたがう。そして、順一の部屋の扉をそっと開ける。
「わっ」
二人そろって声を上げる。異臭の中で見た部屋の畳と壁に、汚物と、どす黒くなった血糊が飛び散っていた。
二人は逃げるように階段を下りた。そして社長に言った。
「あれは順さんの部屋だから、順さんに掃除をしてもらいましょう。俺たちの責任じゃないし」
順一は、やっとのことで会社に着く。
その腫れあがった額を見た誰もが、順一に声を掛けるのをやめた。
忌まわしい者に関わり合いたくはなかった。
それは順一にとっても好都合だった。決められた仕事だけをやり、他に気を使う必要がなくなった。
しかし、熱が出てきたのか、気持ちが悪く食欲も全くなかった。
昼は水だけを飲んで、後は机にうつぶした。その後、トイレで少し吐いた。
トイレの鏡で見ると、ガーゼの下の額は腫れあがっていた。そこがズキズキ痛んだ。
ポケットに入っている傷薬を塗ろうとガーゼをはがしにかかった。また出血をしてもかまわないと思った。行き着くところ行ってやろうと思った。しかしほとんど出血はしなかった。醜く腫れあがった傷にくすりを塗り、ガーゼを着けるのをやめた。
三時を過ぎた頃、めまいと吐き気で立っているのが難しくなった。その場でまた少し吐き、そのまま床に、倒れるように横になった。
電線を巻き上げる、モータの音が爆音のように聞こえてくる。油の臭いが、胸のところで使えて、また吐きたくなる。
しかし幸いなことに、やはり誰も何も言ってはこなかった。
ふらつきながら乗った帰りの地下鉄に座る座席はなかった。そのまま扉のところでしゃがみ込んだ。周りの乗客は別のところに移動した。
地下鉄から降りて長い歩道橋を渡る。雨上がりの歩道橋の途中でしゃがみ込む。
たばこの吸い殻がどろどろに溶けた水たまりの上に、尻餅をついた。作業着が吸い取り紙のように濡れていく。
歩道の手すりをつたい、また立ち並ぶ商店の壁にもたれかかりながらアパートに向かった。
部屋で横たわることだけに必死になった。
『今日は部屋がよごれているかもしれない』頭の隅を横切った。
部屋の血をみたら、一太は興奮するだろう。そして漏らしてしまうかもしれない。
いくら部屋が汚れていても、掃除をする力は、もう順一にはなかった。
汚物にまみれて倒れるのもいいかもしれない。
心の隅で笑っている自分を感じた。
暗い階段に両手をついて上っていく。
階段を滑り落ちるような気がする。
歯を噛みしめて上る。
やっと部屋の扉の取っ手に手が届いた。
扉を開ける。
「なんだ!これは!」
順一は思いきり叫んだような気がする。
ただし声は何もでていなかった。
畳の上に崩れるように倒れ込んだ。
どのくらい気を失っていたのだろうか。目を開けると真っ暗で周りは何も見えなかった。
少し体が楽になった。
きっとこの部屋の香りのせいだ。
電気をつける。
『これは自分の部屋じゃない!』
そこに、爺さんと一太、それに印刷屋の二人の従業員が入ってきた。
「爺さん、ここはどこだ」
順一は不思議そうに聞いた。
「あんたの部屋だよ」
順一は周りを見渡した。
確かに自分の部屋だ。
でも血の跡がない。
「爺さん掃除してくれたのか」
「いやしてない」
爺さんは笑いながら言った。
窓際の壁に小さなテーブルがしつらえてある。その上に籠に入った果物が置いてある。その甘い香りが部屋に満ちているのだ。
その手前に正月のお節につかうような重箱とピンクの小箱が置いてある。
その横のところに、ガラスの一輪挿しに赤いバラが一本ささっていた。
一太が叫んだ。
「かあちゃん。帰ってきた」
爺さんが、天井を見るように顔を上げる。それは爺さんの得意顔だ。
「娘が帰ってきたらしい。役所から帰って来て、階段を上がったらいいにおいがする。香水のにおいだ。順さんの部屋の扉を開けたら、こんな具合に、きれいになってんだ。それで、部屋の真ん中に一太が座ってた。まさか一太が部屋をきれいにするはずがない。『一太だれが来た』と聞いたんだ。そしたら、一太がうれしそうに笑って『かあちゃんが帰ってきた』と言ったんだ。一太がはじめて笑った。俺は一太が笑う顔を初めて見た。だから、これは本当だと思ったんだ」
年配の従業員が、それは違うというように首を横に振る。
「爺さんは役所に行っていて、何も見てないからな。俺とこいつは最初から見てるんだよ」
と言って、若い従業員を見る。
若い従業員は大きく首を縦にふる。
年配の従業員が話しを続けた。
「昼間福祉の人が来た。爺さんは午前中から役所に行っていなかったのだよ。それで一太が順さんの部屋に入って、漏らしたんだ。それも大量に。福祉の人は、一太をきれに洗ったけれど、順さんの部屋は他人の部屋だからって、後を社長に頼んだ。それで俺とこいつが、順さんの部屋に行くはめになった」
「ひどかった、糞と血の臭いだった」
若い従業員が思いっきりしかめっ面をした。
「そうひどい臭いだった。畳や床に汚物が飛び散っていた。それに、どういうわけか畳と壁にベッタリと血が付いてたんだ。おもわず大声を出すと、扉をしめて、階段をかけ下りた。ちょっと俺たちじゃ後始末は無理だと思った。俺はあの後少し気持ちが悪くなった」
「俺も気持ちが悪くなった」
若い従業員はしかめっ面のままでいる。
「しばらくすると、この家の前にでかい黒塗りの外車が停まった。 店の扉をちょっと開けて見たんだ。そしたら、サングラス掛けた、がっちりとした運転手がおりてきたんだ。俺はちょっとヤバイと思った。その運転手が後ろのドア開けたんだ。そしたら、ビックリした。あれが女優ていうのかい。モデルっていうのか。俺は、いままであんな別嬪さん見たことない」
「二人出てきたんだ。二人とも、映画女優みたいだった。それにものすごくきれいな服着てた。あれがセクシーっていうのだろうな」
若い従業員のしかめ面が驚きの表情に変わった。
「その二人が階段を、上がって行ったんだ。俺はまずいことになったと思った。こんなことが起きるなら無理してでも、順さんの部屋掃除しておけばよかったと思ったんだ」
「それは、俺もそう思った。でも女優さんはすぐに下りてきた」
「こいつ、そのとき道路に出ちまったんだ。こわい運転手が横にいるってのによ」
若い従業員が年配の従業員を見ると、
「しかたないよ。気がついたら出てたんだ。だけど親方も出てきたじゃないかよ」
若い従業員は年配の従業員を、親方と呼んでいた。
親方は話を続けた。
「二人の別嬪さんは、車からエプロンみたいなもの出すと、それを着た。そしてまた二階に上がって行ったんだ。その後ろから運転手も黒い大きなカバンを持って上がって行った。でも運転手はすぐに下りてきた。俺が階段をのぞくと、運転手が『悪いがしばらく上がらないでくれ』と言ったんだ。その時、社長は出掛けてたし、もしかしたら社長が頼んだのかと思ったんだ」
「親方。それはないな。だって社長とあの運転手じゃ。月とスッポンぐらい、運転手の方が偉そうだぜ」
「俺もそう思ったよ。それで俺たちもそのまま、また別嬪さんが下りてくるのを外で待ってたんだ。順さんの部屋の窓が開いたんだ。別嬪さんは順さんの部屋を掃除してるらしかった。あの部屋を、あの別嬪さんは、よく掃除ができるもんだと思ったよ」
「俺は掃除しておけば良かったと思ったな。そしたら、後から上がってきたあの別嬪さんと一緒に掃除が出来たのにな。一太のくそや血なんかどうてことない。パラダイスだったのにな。親方が掃除しないで階段下りちまうからさ」
「ばかやろう。最初に階段かけ下りたのはおまえじゃないか」
若い従業員は鼻の下を伸ばして、頭を掻いた。
親方はさらに話を続けた。
「一時間ぐらいしたかな、それ以上だったかな。二階の窓から声がしたんだ。とびっきり可愛い声だった。まどから別嬪さんが体を半分だすと、ビニール袋を下にいた運転手に投げたんだ。きっとその中には、汚れたものが入っていたんだろうな。それから『持ってきてちょうだい』って、またとびきっり可愛い声で言ったんだ。運転手はまた一山荷物を持って階段を上って行ったんだ。二回か三回上り下りしてたな」
「そこにある、果物や机や花を運んだんだよ。きっと。」
「しばらくすると、掃除が終わったらしく別嬪さんが下りてきたんだ。もしあの別嬪さんのどちらかが、一太のかあちゃんだと言っても、そりゃ若すぎる。それに一人の方なんか、高校生かと思った。まるでフランス人形みたいだった。俺なんか、目が合ったとき頭がポッーとなった」
「俺はリカちゃん人形かと思った。俺も頭がポッーとなった。そう言えば、車の前で泣いてたな」
「そう。一人の別嬪さんは車の前で泣き出したんだ。そしたらフランス人形の別嬪さんがその人の肩を抱いていたが、そこに運転手が来て何か言うと、二人は車に乗り込んで、どこかに行ってしまったんだ」
「俺はリカちゃん人形も泣いていたと思うな。順さんの部屋掃除したら悲しくなったんだな。雨も降ってきたからよけい悲しくなったんだ。順さん。あれ誰なんだ」
「俺も、こいつと同じ意見だ。あの別嬪さんは順さんの知り合いだ。順さん。あんたまだ俺たちに隠していることがたくさんあるんじゃないのか」
一太も順一の顔を見ている。順一の醜く腫れあがった額を見つめるとまた、
「かあちゃんが、帰ってきた」
と叫んだ。
それから立ち上がると、赤いバラの花のところに行き、花びらを一枚摘んだ。それを順一の額の傷に張りつけた。
爺さんが慌てて「こら一太なにすんだ」と、怒鳴った。
順一は、爺さんの顔を見ると、
「一太は私の傷を治そうとしてくれてるんだ」と静かに言った。
それから一太の方を向いて、
「一太ありがとう。かあちゃんが帰ってきたか。そうか、そうか。かあちゃんは、一太のことを心配して帰ってきたんだぞ。一太はいい子にしてるんだぞ」と言った。
一太はうれしそうにまた笑った。
爺さんも大きくうなずくと、順一の方を見て、何か思い出したように言った。
「ああそうか。この間、一太の腕が悪い虫に食われて腫れあがったことがあった。そのとき、路地に生えてるドクダミの葉っぱをむしって、そこにこすりつけてやった。こうすると、痛みも腫れもひくからな。きっとそのことを一太は覚えていたんだろう。だから、バラの花びらを摘んで、順さんのおでこに付けたんだ」
従業員の二人は、今日は順一からなにも聞き出せないと思った。 二人はくっつくように階段を下りて行った。時間は間もなく夜の十時になろうとしていた。
順一は。重箱のふたを開ける。
それから、爺さんと一太のほうに向かって、
「うまそうなものがたくさん入っている。一緒に食べよう」と言った。
「いやそれは順さんの分だ。俺の部屋にも同じ弁当と果物があるんだ」
爺さんは、そこですこし考えたあと、思いきって切り出した。
「順さん。そこのケーキだけど、さっきから一太の奴、ずっと見てるんだ。悪いけど、少しだけでいいから、一太に食わしてやってくれんかな」
「ケーキって?」
「その小さい箱に入っているやつだ」
順一は、手を延ばし、ピンクの小箱の蓋を開けた。
そこには、あのバラのケーキが入っていた。
「ああもちろんいいよ。一人でこの弁当を食べるのも大変だ。ケーキは部屋に持って行って、二人で食べるといい」
順一は、箱ごと爺さんに渡した。
「悪いな、順さん」
ピンクの小箱を大事そうに両手で持ち、爺さんは部屋に戻って行った。その後ろから一太がついて行く。
その後ろ姿を扉のところで見送った順一は、『ここに家族がある』ことに気が付いた。
順一は食べ物を受け付けないくらい疲れていたが、不思議と弁当は食べることが出来た。
それは、あのレストランの食事以来の豪華な遅い夕飯となった。
しばらく壁にもたれかかって、なにも考えずに座っていた。夕飯を食べ、少し体が楽になったように感じた。今日初めての食事だった。
立ち上がると、傷口に付いた花びらを丁寧に取り、机の上に置いた。洗面所に行き下着を替え、傷に気をつけながら顔と頭を洗い、体を拭いた。
布団の上に新しいパジャマとシーツが置いてあった。
布団を敷き横になった。本当に久しぶりにさっぱりした感覚を味わった。電気を消した。電車の走る音が聞こえてくる。
『マリと聡美は、どうしてこのアパートがわかったんだ。前の会社からたどれば、このアパートまでたどり着くことは可能だ。しかし、あの二人にとって醜い虫のすみかを見つけ出すのになんの価値があるのだろう』
順一は体が疲れているにも関わらず、頭が冴えてきて、眠りが訪れてこない。
『今、人生は急転直下で落ちていく。それは止まるどころかますます勢いを増しているようだ。俺には悪魔がついているのか。仮に悪魔がいたとしても、俺の柔な力では、退治するなんて無理な話だ。
しかし俺の中には悪魔がいる。俺に近づくと悪魔が感染する。ヤスベイは、俺に会わなければ、こんな犯罪の道に進むことはなかったかもしれない。
前の会社は、俺がいなくなったら業績が伸びた。
今の会社は、俺が入って業績が落ちている。そして社員の生活も沈んでいるように見える。
俺のために警察が麻薬の捜査をしに会社に入り込んできた。
悪魔に敏感に反応しているのが、総務課の課長かもしれない。
俺に近づくと誰もが不幸を背負い込む。
悪魔が感染する。
マリ。俺に近づいちゃだめだ。悪魔が無理矢理おまえを招いているのかもしれない。
俺は訪れてくる死に至るまで、生き続ける。
笑うかもしれないが、悪魔との壮絶な戦いに挑んで行くんだ。
絶対に俺に近づくな』
順一は金縛りにあった。
肩と胸の筋肉が盛り上がった、頭のない、そして腰から下が消えている裸体の男に両手で顔をつかまれ、上に引っ張られている。首が苦しい。これは金縛りだとわかっている。はやく眠りから覚めようとあがくが、正気が戻ってこない。
その男が、横たわっている順一にのしかかり、順一の喉をつぶしはじめた。顔が猛烈に熱い。顔中の血が額に集められて、破裂しそうだ。
遠くから飛行機の爆音のような音が聞こえてくる。その爆音が徐々に近づいてきて、やがて爆音が強烈な振動とともに順一を包み込んでしまった。
その爆音の真ん中から、かすかな言葉が表れてくる。
それは文字としてではなく、音としてではなく、地下から水が噴き出すように、順一の体を突き抜けた。
『私を信じなさい』
昔その言葉を聞いたことがある。しかしそれは誰が言ったのか、それを言ったのが男なのか女なのかも、全くわからない。
しかし、順一はその言葉しか助かる道はないと思った。
『信じる。だから目覚めさせてくれ』
外灯が部屋の中に入り込み、その淡い光で赤い薔薇の花を浮かび上がらせていた。
天井を見ながら、やっと戻れたと思った。
上半身だけの男がまざまざとまぶたに浮かんだ。
そしてマリが『私を信じるのよ』と言ったことを思い出していた。
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