第16話 ⑯

 アパートに戻ると、部屋に汚臭がした。また一太が順一の部屋で漏らしたのだ。自分の部屋で漏らすと、爺さんに叩かれる。一太は昼の間、ヤスベイか順一の部屋で一人だけで過ごしていることが、最近多くなった。一人でトイレに行けるのだが、たまに部屋で失敗してしまうことがある。

 昨日の事件から、一太の様子が落ち着かなくなった。

 部屋の畳をこすった後はあるが、汚れが取り切れていないために、異臭が漂っている。順一は洗面器に水を入れ、その中に雑巾を入れると、痛い腰をゆっくりかがめて四つ這いになり、畳を拭いた。そこに爺さんが入ってきた。

「順さん悪いな。また一太、失敗した。俺も雑巾で拭いておいたが、まだ臭うな」

順一は四つ這いのまま、爺さんを見上げると、

「ああいいよ。気にしなくてもいい」と言った。

 爺さんの立っている後ろの壁に画鋲がささっている。

 しかしそこにあったはずの紙がなくなっている。

順一は壁を見たまま爺さんに聞いた。

「ここに紙が貼ってなかったか」

爺さんが首をかしげるような素振りを見せる。

「ああそういえば、紙があった」

「それでその紙は」

「一太の手が汚れていたのでそれで拭いて、トイレに捨てた」

順一は、なにも言わず壁を眺めていた。

『これで、消えた。何もかも消えた』と思った。

「順さん。大事なものだったのか」

 爺さんは心配そうに聞く。

 順一はその声が、遠くの方で話しているように聞こえた。

「順さん悪かったな。謝るよ。そんな大事なものだとは思わなかった」

順一は、はっと我に返る。

「いやいいんだ。たいして重要なものじゃない。捨てようと思っていたんだ」


二週間が過ぎた、米を炊いて家を出た。腰の痛みはおさまりそうにない。

 午後の就業のサイレンが鳴ると、多目的室から作業場に足を引きずりながらもどって電気溶接をはじめた。

 そこに事務員が来て、

「課長が事務室にすぐに来るようにと言っている」と言った。

 事務室の扉を開け、入ったところで立ち止まり、課長を見た。

 課長は部屋の奥の、他の社員より一回り大きい机を前にして、踏ん反り返るように座っていた。

「今警察が来た。おまえが麻薬の売買に関わっているかもしれないということだった。おまえの勤務状況や、いつ会社にいて、いつ会社を出たか。ここ半年間に渡って細かく聞かれた。また、社内の交友関係やおかしな電話がなかったか、どうかも聞かれた。俺も含めて社員のことも聞かれた」

ここまで一気に話すと、鋭く順一を見つめた。その目はみるみる激高へと変わっていった。

「ろくな仕事もしてねえで、会社になにしてくれんだ。おまえが麻薬の売り買いをしてるのが世の中に知れ渡ったら、会社の信用が一気になくなることぐらい、おまえの間抜けな頭でも気がつかねえのか」

課長は立ち上がり、右手でブリキの灰皿を持ち上げる。

「くたばれ!」

 と、叫んだ瞬間、そのブリキの灰皿を、順一の顔目掛けて投げつけた。

灰皿の縁が順一のひたいに当たる。ひたいが割れ鮮血が飛び散る。

 そのドクドクと流れ落ちる血を見ながら課長はさらに激高して叫んだ。

「出てけ。さっさと出てけ。俺の前にその気持ち悪い顔をだすな。はやく出てけ」

他の事務員は下を向いたまま順一を見ないようにしている。

 順一は左手でひたいの傷を押さえながら、倒れるように扉を押し、廊下に出た。

 左手の指の間からベタベタとした血があふれ出てくる。その血が目に入り、前が見えない。

 多目的室に行き、取りあえず横になろうと思った。

 左の手のひらを見た。滲んだ手が、血で真っ赤に染まっていた。廊下を泥酔したように左右にふらつきながら前に進む。

『見ない方がいい。そして考えない方がいい』

多目的室の床に、上を向いて横になった。 傷口がえぐられたように痛い。

『考えるな。考えるな』

 そのことだけを呪文のように唱えた。

『これで終わるのか。終わるのだったらすぐにしてくれ』

 女の事務員が多目的室に入って来た。

 そこに血だらけで横たわっている男を見て、

「ギャーッ」と叫んで飛び出していった。

 それで、順一は今の自分の様子がわかった。

 意識が薄らいでいるわけではない。今は動かない方がいいと思った。

三十分ほど横たわっていたような気がする。

 この部屋の隅に一カ所だけ洗面台がある。左の髪が血で染まっているようだ。ゆっくりと起きあがる。

 頭のあった部分に血だまりが出来ている。

 洗面台の鏡をのぞく、傷のところは薄いかさぶたが出来たようだ。

 洗面台の横に台布巾が掛けてある。それを水でぬらして、顔の固まりかけた血を落とした。

 傷口の周りもまた傷口から出血してこないように用心しながら拭いた。

 仕出しの弁当が置かれる長テーブルにラップがおいてある。それを引っ張り出し、傷口がまた開かないように、その上にのせた。 

 ズボンのポケットから電線を束ねるための黒のビニールテープを取り出すと、それでラップを額に留めた。

 それから、顔をふいた台布巾で、床の血糊をおとした。

 台布巾を水ですすぐと、水が真っ赤になった。

 それをポケットにねじ込み、作業場にもどった。

 すでに作業場の従業員には、順一が大量に出血した話は伝わっていた。

 順一と同じ仕事をしている、男の作業員が近寄って来て言った。

「おまえまだ、頭のうしろの髪の毛や耳の後ろにたくさん血が付いているぞ。気持ち悪いから、洗ってこい」

 順一は作業場の横にある手洗い場で、油落とし用の工場石鹸で髪を洗い、耳のうしろの血をこすりおとした。

 先ほど床をふいた台布巾で頭をふきながら作業場にもどる。

 今度は女の作業員が近づいてくる。

「あたしさ、前からあんたに言おうと思ってたんだけど、あんたこの会社にむいてないよ。毎日毎日あの課長にいじめられる姿見てると、こっちまで気が滅入ってくるよ。あたしだけじゃないよ。みんなそう言ってんだよ」

 課長からあれだけいたぶられても、文句の一つも言えない。仕事だけは熱心に行うが、周りと打ち解けようとしない。以前は一流企業のサラリーマンだったようだが、家族から捨てられ、今は金がなく、いつも汚れた物を平気で着ている。

 女の従業員にとって、得体のしれない、薄気味の悪い存在なのだ。

「あんたなら、もう少し実入りのいい仕事が出来るんじゃないのかね」

 順一は髪の毛から床に落ちる、水のしずくを見ながら言った。

「いや、私に他にいい仕事なんてない。どこへ行っても、ここ以上にいい仕事なんてもらえない。首になるまでここにいることに決めている」

女の従業員はあきれたという顔をする。

「あんた、あの課長が言うとおり、やはり馬鹿なんだね」

 横にいた男の従業員と目配せをして、自分の持ち場に戻った。

終業のサイレンがなると、すぐに会社を出た。

 地下鉄の座席に座ると目を閉じた。

 瞼の裏の闇の世界が、赤黒く見える。

 順一は安売りのスーパで買い物をし、アパートの階段を、腰に気遣いながら、ゆっくりと上った。 

部屋に戻ると、仰向けに横になった。頭の傷がズキズキする。そこに爺さんが入ってきた。

「順さん、その頭の黒いのどうした。シャツの赤いの血じゃないのか」

「ちょっと、すべって転んだ。頭から血がたくさん出たが、もう大丈夫だ」

 順一はしゃべるのが面倒くさかったが、なにかほっとした気持ちにもなった。

 爺さんは部屋を出て行くと、しばらくしてもどって来た。うしろに一太もついて来た。

 一太が順一のシャツの血を見て、「チッ。チッ。」と叫んだ。

 それから、寝ている順一の顔の横にあぐらをかいて座ると、黒いビニールテープを見ながら顔を近づけてきた。一太の鼻が順一の目の上に大きく迫ってくる。

 鼻から出る息が順一の顔に掛かる。しかしその息に涙を誘うような安らぎがあった。

「イタイ。イタイ」

「ちょっと痛い。ありがとう」

 順一の口から素直に言葉がでた。やはり生き続けようと思った。

爺さんが、スーパーのビニール袋から、ガーゼと絆創膏、それに傷薬をだして、順一に渡した。

「一太がけがをしたときに使えって、ヤスベイがくれたやつだ。警察もこれまでは持って行かなかった。俺が貼り付けてやろうか」  順一は、それを断った。今は少し休みたかったし、ビニールテープはそっとはがさないと、また傷口が開いてしまうような気がした。

 爺さんは、順一にビニール袋ごと渡す。

「何かあったら声を出せ、すぐに来てやるから」

 一太をつれて部屋にもどっていった。

順一はしばらく休むと、血の着いたシャツと作業着を洗濯機に放り込んで洗った。

 スーパーで買った総菜を食べ、夕食を済ませると、洗面器に水を入れ部屋に持ち込んだ。

 用心のために、畳の上にゴミ袋を引き、乾いたタオルとトイレットペーパーも一巻き横に置いた。窓際に手鏡をおき、覚悟を決めて、慎重に黒のビニールテープをはがした。

 しかし傷口が開いてしまった。

 慌てて両手で傷口を押さえた。またドクドクと血が出始めた。

 そのまま体をずらし、もう一度ゴミ袋を引き直して、そこに頭を置いた。血が顔を伝わってゴミ袋に落ちると、その度にカサッという音がした。

 タオルを額に強く当てた。タオルが生暖かくなっていくのがわかった。

また三十分ほどで出血が治まってきた。

 しかし全身がどうしようもなく、だるくなる。

 爺さんが持ってきてくれた傷薬をつけ、ゆるめにガーゼをのせ、絆創膏を貼った。そこまでするとなにもする気力がなくなった。電気を消した。

 朝が来る。寝過ぎたかと思ったが、目覚まし時計はやはり五時半を指していた。

 全身が火照ってだるい。

 電気を点ける。

 凄惨な事態に、『はっ』とした。

 昨夜洗濯した作業着は洗濯機の中に入ったままだった。

 作業着を慌てて干した。シャツの替えはあるが、作業着はこれしかない。

 どす赤黒くなった洗面器の水を取り替える。その洗面器に洗剤をいれ、赤黒く染まったタオルを入れた。

 ゴミ袋に溜まった血液はまだドロッとしていた。それを洗面所に流し、まるめてスーパーのビニール袋に捨てた。顔にこびりついた血のかたまりを取り、水で頭を洗った。

 畳にたくさん血が付着し、また窓際の壁に手形に血が着いている。それを今拭く気力はない。

 なにか体に入れないと持たないと思ったが、食べる気力がなかった。

 ぬれた作業服を着てアパートを出た。目の前がぐるぐる回っている。今日ここに戻ってくることが出来るのだろうか。

 しかし考えないことにして足を引きずりながら前に進んだ。

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