第15話 ⑮
池袋行きの丸ノ内線がホームに入ってきた。順一とマリが先頭の車両に飛び乗ると、先ほどと同じように、順一が扉の手すりにもたれかかり、マリが順一の腕を握った。
マリはとてもうれしそうに甘えた声で言った。
「パパ。パパの命と私のお洋服とは何も関係ないのよ。パパの心配していることは、わかっているわ。でも先のことを心配してもしかたないでしょ。それに、どんな悩みごとでも、一生懸命になれば、思ってもみなかった意外な道が開かれるものよ。大切なことはそれを信じることだわ。そして私のことも信じるのよ」と言って、クスッと笑った。
地下鉄はまもなく霞ヶ関の駅に着く。
マリは自分の誕生日を言うと、
「その前にお店に行きたいの。私に連絡をしてね」と、小指を出す。順一は自分の小指を絡ませる。
マリは、父の親友で、これからマリの指導にあたる医学部の教授に会うために大学へ行く。そのため丸ノ内線を乗り続けることになる。順一は日比谷線で帰るので、次の銀座で乗り換える。
小指が絡まったまま、地下鉄は霞ヶ関の駅を出発する。
周りの乗客は二人に注目している。しかし、順一はもうすっかり慣れっこになってしまった。
銀座駅のホームに立って。閉まった扉のガラス越しにこちらを向いているマリを見つめている。
地下鉄が動き始めた。
マリを乗せた地下鉄が、蜃気楼のようにゆらゆらと揺れ始める。そして、そのまま暗い洞窟の中に吸い込まれてしまった。
爺さんが廊下をウロウロ歩き回っている。一太が部屋で吠えるように、意味のない声を発している。
順一がアパートの階段を上っている途中から、落ち着きのない慌ただしさが伝わってきた。
「順さん遅かったな。あんたが居ればなんとかなったかもしれん」
爺さんがおでこにたくさんのしわを作った。
順一は階段を上り、部屋の扉の前に立って、爺さんの方に向き直る。
「何があった」
爺さんは、幼い子供が地団駄を踏むような表情をして
「ヤスベイが警察に捕まった」と息を詰まらせながら言った。
「順さんが警察に話してくれれば、ヤスベイは捕まらなかった。このアパートでまともに仕事しているのは、あんただけだからな。お天道さんをまともに見られるエリートだからな。あんたの言うことだったら警察も聞いてくれたんだ」
そういう問題ではないだろうと思う。
でも爺さんは、自分をエリートだと思っていたのだ。
順一は何とも言えない気持ちになった。
「なんで、ヤスベイさんは警察に連れて行かれたのですか」
爺さんはしばらく、黄色のシミが雲のように広がっている天井を見上げていた。
「それがよくわからん」
下から階段を一段一段踏みつけるように登ってくる音がした。一階の印刷屋の社長で、このアパートの大家だ。
一階の印刷屋は社長と二十代後半と四十代後半の二人の従業員で行っている。
社長は順一が帰ってきたのがわかったので、上がってきたのだ。
順一の部屋の扉のところで、部屋の真ん中であぐらをかいている順一を見下ろした。
「ヤスベイが捕まった。薬の運び屋をやっていたんだ」
順一は大家を見上げると、左手で髪を掻きあげる。
「薬の運び屋って、麻薬のことですか」
津波の前兆になるような、どす黒い音が、順一の耳の奧で鳴り始めている。
大家の表情が一気に暗くなる。
「病院の薬剤師が、病院用の麻薬を持ち出して売りさばいていたらしい。その麻薬の運び屋をヤスベイがやっていたんだ。裏に怖い組織があるらしい。建物中全部調べられた。一階の印刷屋もな。爺さんの部屋もあんたの部屋もだ」
順一は『ただごとでは治まらない』と思った。
大家は興奮してきたのか、早口になって話を続けた。
「ヤスベイの部屋からは、麻薬が出た。爺さんの部屋とあんたの部屋にも薬はあった。でも、それは腹薬や、風邪薬だったと刑事が言っていた。それも刑事が持って行った。俺が立ち会わされたよ」
爺さんが大家の肩越しに顔を出す。
「ヤスベイからもらったのは腹薬だ。麻薬なんかもらってないぞ」
順一に怒鳴りつける。
大家は扉の横の柱に寄りかかると、爺さんをなだめるように言った。
「順さんに責任はないんだよ。それにしても、困った。本当に困った。ただでさえ不景気なのに、これで変な評判でも立ったら、ますます仕事がこなくなる。それにヤスベイの家賃も入らない。こんな部屋もう誰も入らないだろう。順さん、あんたまともな仕事してんだし、一人もんなのだから、ヤスベイが戻ってくるまで、なんとかヤスベイの家賃、代わりに払ってくれないかね」
大家はまじめにそう思っているらしい。
順一は小さな声で、
「全額は無理だけど、考えておきましょう」と言った。
大家は、脈があると感じると、
「半分でいいよ。ヤスベイの家賃の半分を持ってくれ。後の半分は俺が涙を飲むことにする」
大家は、考えていたヤスベイの家賃の話が、考えていたとおり順一に全額ではなくても、肩代わりさせることが出来ると思ったので、少し元気を取り戻した。
右手で持っている紙を順一の前に放り投げる。
「刑事があんたと話したいと言うから、明日、日曜日だから、アパートに居るはずだと教えたんだ。そしたら、午前中にここに来るように連絡してくれと言われた。あんたに聞きたいことがあるらしい。俺も、うちの従業員も爺さんもたくさん聞かれたからな、あんたにもいろいろ聞きたいのだろう」
大家は、階段を踏みつけるように、下りていった。
爺さんがまた顔を出す。
「たくさん聞かれたぞ。細かいことまでたくさん聞かれた。そんなことまで聞かれたってわからん。ついでに一太にまで聞こうとするから、そりゃ無理だと言ってやった。そしたら、一太の奴、『ヤスベイカエセ』って叫んだんだ。一太になにがわかったのか?」
爺さんは顔を引っ込めると一太の居る部屋に戻っていった。
順一は、大家が投げた紙切れを拾って開いた。
『明日午前九時、西麻布警察・組織犯罪対策課に出頭されたし。なお、何らかの事情によりこれない場合は、速やかに西麻布警察署に電話で連絡すること』
さらに、西麻布警察署の住所、電話番号、そして簡単な地図が描かれていた。
そこは青山霊園のすぐそばであることがわかった。西麻布警察署の管轄にあるどこかの病院が、犯罪に巻き込まれたのだと思った。
立ち上がると、作業着を脱ぎ、それをハンガーに掛ける。タオルを持って洗面所に行った。
タオルで体を拭く。水がずいぶんと冷たくなってきた。共同便所の便器にしゃがむと虫が近くで鳴いていた。
明日のことはどうでもいい。陳腐な言い方だが、失うものはなにもない。
金がなくなろうが、病気になろうが、塩をまかれたナメクジのように、地面に粘液をこすりつけながら生きていけばいい。
死のうとは思わない。必ず死ぬのだから。
この先何があっても、それでどうだと言う生き方をしているわけじゃない。
壁際に畳んであるせんべい布団を引っ張り、仰向けにひっくり返る。
しみだらけのプラスチック笠の蛍光灯の回りを、蛾が飛んでいる。
今日の一日が、影絵のように目の前を流れていく。
『変な一日だった。どこからどこまでが本当で、どこからどこまでが夢なんだ。今日どこで起きていて、どこで眠り込んでいたんだ。
墓地のベンチで眠り込んで、その夢の中身を引きずりながら地下鉄に乗り、そしてアパートにたどり着いたんだ。
しかし夢にしても、まるで本当にあったことのように記憶に残っている。レストランでの出来事。それから、まだ少女らしさの残った、美しい女の人のこと。
目をつぶると暗闇の中にチカチカした白いものがゆっくりと回転をしている』
順一は体を持ち上げると、蛍光灯のひもを引っ張り、電気を消した。外灯の灯りで部屋の中はほんのりと明るい。
車の音や、ときおり聞こえてくる電車の音が子守歌のように聞こえる。
その時『はっ』とした。そして、うすら笑いをすると『まだ夢の世界にこだわっているんだ』と思った。
体がだるいのに、なかなか眠りがやってこない。
ばかばかしいと思う気持ちの一方で、やはりこだわっているもう一方の気持ちがある。 ゆっくりと起きあがる。
『ないに決まっている。ないことが分かればボロ布になって眠れる』
順一は、窓枠に掛かった、針金のハンガーに吊されている作業服の胸ポケットに指を入れた。
指の先に紙が触る。そして、カサッという音が、重大な告知があるように鳴った。
指で挟んで紙を引っ張りあげる。その紙はレストランの領収書だった。
そこには、一五〇円という金額が書かれていた。
順一は壁に貼ってある、拾ってきたカレンダーの画鋲の一つをはずし、その領収書を壁に貼り付けた。
『やっと眠れて、また夢をみているのかもしれない。朝、起きればすべてわかるだろう。そう、すべてがわかる』
自分に言い聞かせて、横になった。
五時半。いつも通り目が覚める。どんなに遅くまで起きていても、不眠で眠れなくても、順一は五時半に目が覚める。
目が覚めると同時に起きあがり、壁に画鋲で貼った紙を見た。
両手で挟むよう頬を叩く。キーンという耳鳴りがし、頬に痛みが走る。
昨夜外から入り込む外灯の灯りで見た領収書が、そこに貼ってあった。
順一は洗面所に行き、顔に石鹸をつけひげを剃った。今度はその石鹸を頭にこすりつけ頭を洗った。歯も磨いた。
米を炊こうと思ったとき、米のないのを思い出した。買い置きの野菜もない。冷蔵庫がないから、せいぜい次の日までに食べきってしまうものしか買わない。昨夜はスーパーに行かなかった。
いつもであれば、朝、米を炊き、それで弁当までつくる。仕事から帰ってくると、釜の中の米は一膳分しかなくなっていることがある。一太が食べてしまうのだ。爺さんや一太は福祉で金がでるから、本当は食べるのには困らない。スーパーで弁当や総菜を買ってきて、二人で食べているのだ。しかし、爺さんは、役所へ行けば役所の食堂で食べていた。
昼食のない一太は、ヤスベイや順一の部屋に入り込み、そこにある食べ物をあさっていた。
一太は学校に行かなければならない。しかし迎えのバスが来ると、泣いて暴れてバスに乗ろうとしない。爺さんが「家に居させますから」と言って、バスが迎えに来るのを断ってしまった。それで時々福祉の人が様子を見に来る。
洗面所の横にある、旧型の洗濯機に作業服を放り込み、洗濯機を動かした。
サラリーマン時代に着ていた背広が、二着ほど取ってある。
本当はもう何着かあったのだが、ヤスベイが泊まりの仕事の時に、背広を貸してやった。袖を折り、ズボンの裾を折って着た背広姿はおかしかったが、それでも背広を着ることが必要だったのだ。
しかし、背広を貸しても、必ず戻ってくるとは限らなかった。行きは順一の背広を着て行き、帰りは派手なシャツを着て帰って来ることが何回かあった。順一に背広を借りて出掛けたことなどすっかりと忘れてしまっているようだった。
部屋の中にロープを渡し、作業着を干すと、よれよれの背広を着て西麻布警察に出掛けた。
一ヶ月振りの休める日曜日だった。先週の日曜日までは、仕事が立て込んでいた。一ヶ月間土曜日曜もなく、夜の七時過ぎまで働かされた。
決められたノルマが果たせないために、勝手に会社に来た無許可出勤と見なされ、無給残業だった。
昨日の土曜日は久しぶりに昼で帰ることが出来た。
アパートから十五分ほど歩くと、日比谷線の地下鉄の駅に着く。
広尾駅で降りると、青山霊園に向けて歩く。昨日も歩いた道だ。
しかしその道も空気も灰色に乾いて、その無機質な風景が、表情のない面のように見える。
青山霊園の手前の道を右に曲がる。
刑事が一人、警察署の玄関のわきに長い棒を持って立っている。その刑事に「組織犯罪対策課はどこでしょうか」と聞く。
奥の階段を二階に上がり、その正面の扉を開けた。
組織犯罪対策課に入ると小部屋に通される。
十分ほど待たされ、九時ちょうどに担当の刑事が二人で入ってくる。
三時間にわたり尋問がおこなわれ、調書が取られた。
順一の部屋からは、ヤスベイの部屋にあったビニール袋入りの粉末の麻薬は、見つからなかった。しかし、部屋のほこりから微量の麻薬が検出された。
そのため、血液検査がおこなわれた。
アパートの住民はどの部屋も出入り自由だったので、ヤスベイが順一の部屋で麻薬をやった可能性もあると言うことだった。
順一の交友関係、仕事先と仕事内容、経歴、家族、アパートに住むまでの経緯等々、こんなことまで聞く必要があるのかと、思われることまで質問された。
最初に言いたくないことは言わなくてもいいと言われていたが、なにも隠すものもないし、仮に何かの手違いで監獄に入ることになったとしても、それならそれでいいと思った。
小柄で、髪の毛の薄くなりかけた刑事が調書を取っているペンを置き、机の上で手を組む。
「あなたも苦労しているようだが、最近あなたのような人が増えているのだよ。どこかうまくいかなくなると、次から次へと狂いはじめる。そして、悪の道に近づいてしまうことも多い」
刑事は今書き上げた調書を順一に読んで聞かせると、順一にサインを求めた。
順一がサインをし、拇印を押した書類を机の上で整えながら言った。
「気をつけなさいよ。生活が苦しくなっても、そこで耐えていれば何とかなる。しかしそこで犯罪に手を染めたら、それで人生が終わってしまう。私も同じだが、もう繰り返しがきく年じゃない」
もう一人の刑事は調書を取った刑事の上司なのだろう。先ほどから順一の顔を鋭い視線で見ていたが、早口で言った。
「この事件は根が深いから、これから何回か、来てもらうことになります。何か思いついたことや、思い出したことがあれば、自分から言いに来た方があなたの為になります。それから、勝手に引っ越さないでください。それと勤務先が変わるようなことがあれば、事前にこちらにも連絡してください。今日はこれで終わりにします。ご苦労様でした」
順一は深く一礼すると、署を出た。
気がつくと、順一は外人墓地の無縁墓の前にしゃがんでいた。これだけ立派な墓を建てられたのだから、この世の最後まで、それなりに満足の出来る人生が送れたのだろう。
私の場合この後が難しい。後どのくらい生きるのだろう。今の生活がどん底だと思っていたが、そんなものじゃなさそうな気がしてきた。
犯罪に巻き込まれていく。
それは根無し草のように、死ぬまでそっと生きることではない。
嫌がられながら毒の花粉をまき散らし、ベットリと生きていくことだ。吐き気のするような人生がこの後展開していくのか。
無縁墓が、この世と関係のなくなった今、そっと消えていく羨ましい世界にも見えてきた。
順一の心臓が大きく鼓動し始めた。
『取りあえずアパートに戻ろう』
そう思って立ち上がろうとしたとき、腰に痛みが走った。
持病の腰痛が出てしまった。無縁墓を支えにしてゆっくり立ち上がる。動けなくなるほどの激しいものではなかった。右の腰部に手を当て、右足を引きずるように前に進み、日比谷線の広尾駅まで戻って行った。
広尾駅から乗った地下鉄は混んでいた。乗り込むとそのまま押されて、車内の中ほどで吊革を持った。前に立っている大柄の男がスポーツ新聞を半分に折って読んでいる。その新聞は電車が揺れると順一の顔をかすめる。
順一は『はっ』とした。その新聞にあのレストランの写真が載っていた。
銀座駅を過ぎると、車内は空いてきた。先ほどのスポーツ紙を読んでいた男は、そのスポーツ紙を棚の上に放り投げると、銀座で降りて行った。
順一はその新聞を棚から拾うと、空いた席に座った。スポーツ紙をめくり、レストランの写真を探す。
その写真の記事には、次のようなことが書かれていた。
『欧州の山間の美しい国の皇太子ご家族が、私事のお祝いを日本でおこなう模様である。またいくつかの国の皇室および各界の代表者が招待されているという話も、伝わってきている。また世界的なスターが参集するという噂もある。また本国の皇室とも以前より親交があり、主賓として招待されている模様である。なお私事ということであり、たぶん祝宴は・・・・・・』ということで、あのレストランの名前が掲げられていた。しかし、間近に開かれるこの催しは私事ということでプレス発表されていない。従ってこの記事はスクープなのだ。
順一はまた新聞を棚にのせた。もうレストランのことを考えるのはよそう。私の人生は単純に落ちて行っているのだ。終演を迎えるまでにどこまで落ちるのかが問題なのだが、その問題でさえ考えて解答をだすものでもない。
耐えることだけだ。問題の答えが自らでてくるまで、耐えることだ。
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