第14話 ⑭

 マリは、順一の顔を見つめながら、腕はつかんだままで

「どうして、勝手に帰られたの」と、詰め寄るように聞いた。

 順一は返事に窮したが、マリがここまで自分を探して、追い掛けてきたことを思えば、うれしかったし、謝らなければいけないと思った。

「ごめんなさい。同じアパートに住んでいる爺さんの子供が腹を空かしている時間なんで、ちょっと心配だったものですから」

 こんなことを言ってもマリには通じないと思った。

 本当は、あのレストランに、あれ以上自分は居られないと思った。

 なにか自分に同情を誘うようなことがあって、慈善で招かれているとしたら、いつまでもあそこに居ることは厚かましいことだと思ったからだ。

 潮時だと思ったのだ。それに夢の世界に長く浸かっているわけにはいかない。長く浸かっていれば、現実に戻ったとき、心の後遺症の傷が深く残る。

「でも、ここでつかまえることができて、よかった。大切なお願いがあるって言ったでしょう。それはどうしても言っておかなければならないの」

 マリは穏やかな愛らしい顔に戻っていた。

 青のシックなスーツで、一流のモデルか女優のようにみえるマリと、汚れた作業服と無精ひげの順一は、やはり世界で、もっとも不似合なカップルだ。

 先ほど離れていった二人の若者が順一とマリの後ろに並び、

「これって、アリかよ」と聞こえよがしに言った。

順一は、このままマリが、地下鉄に乗るとは思えなかった。

「お爺さまが、お待ちではないのですか」

 マリは相変わらず順一の腕をつかみながら、ちょっと怒ったように言った。

「いいえお爺さまは、一階の待合室でお話をされていますわ。あのレストランは、お食事をした後、一階の部屋でくつろいで帰るのよ。そのとき、いろいろな方とお知り合いになることもできるし、お話を聞くこともできるの。おじさまをお誘いしようと思ったら、消えてしまわれたでしょう。案内係さんに聞いたら、今帰られましたって」

 マリは、そこで順一の腕をぎゅっと握る。 

 そしてもう一度睨む。

 後ろにいる二人の若者は耳をそばだてて聞いている。親子や親戚同士にはとてもみえない。愛人、援助交際はあり得ない。

 この二人っていったい何だ。

 実は同じ疑問を、若者よりも強く、順一は持っていた。

マリは話を続けた。

「それで、お爺さまに、おじさまを追いかけて、そのまま地下鉄で大学に行きますと言って、お店を飛び出したのよ」

 電車がホームに入ってきた。二人は地下鉄に乗ると反対側の扉のところに立った。若者二人は、空いている席に座った。今度は、地下鉄の乗客が二人に注目した。

 マリの美しさと、それとはあまりにも不釣り合いなその相手を。

 順一は、扉の手すりに寄りかかるように立つ。マリは順一の腕を手すり代わりに持っている。

 順一は聞いた。

「どうして、私がここに居るって、わかったのですか」

「それは、お店を出るとき、門番様が多分おじさまは、表参道駅がら地下鉄に乗ると言われたから。あとは感ね。きっと私の感の鋭さは、おじさまの想像を超えているわ」

 地下鉄は青山一丁目の駅を過ぎ、赤坂見附の駅に向かっている。 順一にはマリが追いかけてきた理由がわからないでいる。

「大切なお願いって何ですか」

「早く聞きたい?」

「ええ」

「それでは、次の赤坂見附で降りるわ」

 赤坂見附で降りると、マリは順一の腕を持ったまま、ホームの銀銀座方面先頭に行く。

 そこは、山王下改札方面の階段があるところで、人通りの少ない場所だった。

 マリがしっかりと順一の目を見て話し始める。

「おじさまにお願いしたいことをここで話すわ」

 マリは一呼吸おいた。

順一はやっと真相がわかると思った。きっと自分でなければできない依頼ごとがあるのだ。そしてその依頼ごとが、今回のこの不思議な出来事を解明させる。

 マリは医者を目指している。

 もし自分が役立つとすれば、実験材料として自分を提供してくれないかと言うことなのだろうか。

 それも危険な実験材料として。

 そういう話ならば、今までの出来事がすべて、納得できるように思われた。

 やっと食べて生きていくのが精一杯の自分が、身寄りも後腐れもない自分が、マリの研究で犠牲になって、人の役に立って、人生が終われることになるのかもしれない。

 順一は、マリの役にたてることがうれしかった。マリと関わるのであれば、こういう関わり方が一番いいと思った。

「おじさま。おじさま。どうされたの。心ここにあらずだわ。何か心配なことでもおありなの」

マリは心配そうに順一を眺めている。

 順一は我に返り、気持ちを落ち着けるように、両手をきつくお腹の前で握る。

「マリさんの願いだったら何でもするよ。私の出来ることだったら」

マリは一回首をかしげると、ぱっと明るい表情になった。

 順一は本当に美しいと思った。引き受けて良かった。

 マリはゆっくり話し始めた。

「おじさま、お断りになるかと思ったわ。でも私、絶対に引くつもりはないの。必ず了解してもらうまで、ここでおじさまを放さないでいるつもりだったの」

 順一は、こんな強い言葉でもマリであれば返ってうれしかった。

 地下鉄丸ノ内線はすでに、三回も客を乗り降りさせ走り去っていった。その乗客の中には二人の様子に気づき、心配そうに見ていく人もいた。

マリは願い事を話した。

「おじさま、それではもう約束したのよ。おじさま。必ず約束を守ってくださいね」

順一はコクリとうなずいた。

「私にお洋服を買って頂きたいの」

 謎が解明されるどころか、ますます深まり、暗黒の溝に落ち込んでしまった。

洋服を買うといっても、マリが着る洋服の値段は想像がつかない。確かに言えることは、自分には絶対に買えないと言うことだ。しかし、なんと返事をすればいいのだ。

 『買えません』とは言えない。だからといって『買います』とも言い難い。順一は祈るように考えた。いくら考えても名案は浮かんでこない。名案なんかあるはずはない。順一は唇を固く結び下を向いた。

 マリは淋しそうな様子を見せる。

「お母様が、マリが一八歳の誕生日を迎えたら、知り合いのイタリアのデザイナーにお洋服のデザインを頼んで、その方の日本のお店でつくってもらうことになっていたの。でもそのことは誰にも話さない、お母様と二人だけの秘密だったわ。だから一八歳の誕生日を、お爺さまが盛大に開いてくださったときも、その話はしなかったの。でもデザイナーの方が覚えていてくださって、日本に来られたときに二年遅れだけれど、二〇歳の誕生日にあわせてつくりましょうと言ってくださったの。お爺さまに話せば、喜んで買ってくださるのはわかっているのよ。今まで黙っていたことを叱られるかもしれない。でもお母様との約束を、そのようにはしたくないの。おじさまだったら、お母様も許してくれるような気がするの。いいえ、お母様はきっとおじさまに買ってもらいなさいって言っているわ」

 マリが涙を隠すようにうつむく。髪がほつれ、前に垂れ下がるのを軽く振りながら、また順一を見る。

 順一は覚悟を決めた。

「マリさん、買ってあげよう。命を売ってでも買ってあげるよ」

 もちろん順一は、自分の命ぐらいでは絶対に買えないとは、思っていた。

 気がつくと、マリの斜め後ろに駅員が二人立っていた。その後ろに、十人近くの男と女が自分たちも、なにかあったら、飛び出して、この怪しい男を押さえつけようと、殺気だった目で立っている。

 マリの後方から見ると、まるで順一がマリを捕まえていて、とんでもないことをしているように見えるのだ。

 順一は、不思議に動揺はなかった。人としての正義が機能したのだと思った。

 自分も逆の立場だったら、やはり、怪しい男を押さえるために体を張っただろう。

若い駅員が、順一とマリの間に入り込み、マリに「もう大丈夫です」と言ったが、美しいマリを見ると、それ以上の言葉が出なくなってしまった。

 順一の横に立った、年配の駅員が穏やかに、

「ちょっと駅員室のほうまで、一緒に行きましょう」と言った。周りを囲んでいた。男と女は、順一が少しでもおかしな動きをしたらすぐにでも、飛びかかろうという態勢をとった。

 次の瞬間、そこにいた誰もが想像し得なかった事態が起きた。

 マリが若い駅員を振り払うと、順一の首に抱きつき、

「お父様、このまま私と一緒に家に帰ってください」

 と泣きながら叫んだのだ。

 周りにゼリーのようなどんよりとした、空気が流れた。

 その空気が、若い駅員の頬をズルリと滑り落ちた。

「これが、あなたの父親」

 若い駅員が唖然として言った。

 それを見ていた十人近くの男と女は、霧が晴れるように、その場から離れていった。

 年配の駅員が順一を見ると、あいかわらず穏やかに言った。

「どんな辛いことがあったか知りませんが、こんなかわいいお嬢さん置いて、家出をしてはいけません。いっしょに家に帰っておあげなさい」

年配の駅員は駅員室の方に戻り始めた。

 若い駅員は、もう一度マリを見る。

「こんなのがあなたの父親」

 まだ頭が混乱しているように口に出した。

 しかし次のマリの一言は若い駅員を凍らせた。

「こんなんで悪かったわね!」







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