第11話

 トオルはうきうきとしながら花屋への道を優雅に歩いた。太陽が真白に輝き、その空にひしめくヒトムシたちの嬌声が、自分を祝福して喜んでくれてるのだと思わずにはいられなかった。自分の私服のなかで最もかっこいいと思って選んだ紺と灰色のチェックのポロシャツを着、近隣の人に不審がられないよう平静を装いながら歩いていた。今日はルリから誘われた、トオルにとって初めてのデートの日。その初めて故の緊張が喜びをひどく増大させてもいる。

 そして約束していた花屋にたどり着く。まだルリはいない。この街の有名な花屋というとここしかない。さまざまな甘い香りが、昂ぶるトオルの心をおちつかせる。そうだ、焦る余り、ルリちゃんにみっともない自分を見せてはいけない。思い出せ、この一週間の自分の情けなさ!そこから反省せねば、と考えたトオルはシャキッと姿勢を整え、自分の視界をあらん限りの力を振り絞ってルリがどこにいるか見定めようとする。いくら平静を装うとしても気になるものは、気になるのである。ルリに似たショートの髪型の女性を見ては、あ、もしかしてとじっと見つめてしまうが人違いである。知らない人に見られてると気付かれたら嫌だなあと思いつつも、ルリがここにやってくるという事をトオルは本当に本当に心待ちにしている。


 そしてそれは思いもがけなくやってきた。


 「おまたせ。」ジーンズにブラウスのルリ。その足取りはふらふらとしていた。

 「ルリ大丈夫?」昨日の熱が続いてるのだろうか。

 「うん、大丈夫。」ルリは笑顔で答える。眼差しは真っすぐトオルを捉えている。その目つきに何か激しい渇望に似た熱情を感じる。それを見て、トオルの心の中で、ちょっと悪い、暗い炎が燃え始める。

 「そうか、よかった。」とトオルが言った時、花屋の側のレストランからがしゃんと皿の割れる音がした。ルリはその音に素早く反応し、首がグギッと動いた。腕や肘が変な角度の構えになってる。その挙動はまるで、張田サネヒコを思い出すような


 ・・・トオルは気付いた。



 「ルリ・・・。」


 「どうしたの?トオル?ねえ?」落ち着きのないルリはごくりと唾を飲み込んだ。「顔が青いよ?トオル。」

 「そんな・・・。」トオルは一歩後ろに引く。

 「トオル?」ルリは一瞬その目の光が落ち着いた、かと思うと、急に真っ直ぐ駆け出してトオルを強く抱擁した。

 「ッ・・・・。」トオルは苦しくて呻いた。ルリの体は異様に熱く、トオルの体は異様に冷えていた。

 「トオル!助けて!」ルリは抱きつきながら悲鳴をあげていた。「私、あなたが好きで好きでたまらないの!」


 虫の情欲、人の理性。


 「喰らいつきたいの!抱きついてもっともっと、その!でもなんだかおかしいの!自分でも頭のなかがギラギラしてて、うるさくて、好きだ好きだ、欲しいって、トオルくんの中が欲しい、ってうるさくて、しょうがないの!頭が!」

 「ルリ・・・」トオルの目から涙が溢れ出た。向かい合わせで見えなかったが、この時ほどルリの顔を、見たくなかった時はないだろう。

 「トオル!トオルッ!欲しい・・・。」

 「ルリ・・・」トオルは抱擁したが、それは決してそれは愛しいからでも欲望に駆られたからでもなかった。悲しくて悲しくて、人間として壊れてしまったルリを受け止めたかったからだ。そして、その手がルリの背中を触れた時、ルリの背中の中が異様にうごめいてるのを感じて思わず離し、トオルはまた何歩か後ずさりする。抱擁していたルリはそのまま前によろめいて地面に手をついた。

 「トオル・・・、どうして・・・。」こちらも信じられないような眼差しでトオルを見上げるルリ。

 「どうなってるんだ・・・これは・・・」トオルは呻く。

 「トオル・・・」ルリは再び渇望のような目でトオルに手を伸ばす。そして、「あっ」と小さな声をあげて、そのまま動かなくなった。トオルはその手を触ってみる。その指先は、異様に硬く熱い。



 ルリはさなぎになった。



 トオルはそのまま膝の力を失って地面にへたりこむ。失望、混乱、苦しみ、悲しみが頭を駆け巡る。腕を伸ばすルリと、膝を落とすトオルが朝の日光に照らされている。ルリの目が光を失いどんどん乾いている事にトオルは気づく。

 「無事に上手くいったな。」老人の声に気付いてトオルは振り返った。あのコートを着た丸メガネの、特効薬をくれた老人。

 「上手くいった・・・?あの薬がですか・・・?」

 「君は、あの子が虫になる事で悩んでいたのだろう?だからよく効く薬をあげたんだ。」

 「よく効く・・・?逆にあんな、物凄い速さで"さなぎ"になったじゃないですか。全然ダメじゃ無かったですか!」トオルは怒鳴った。

 「え・・・?」老人は首を傾げた。「だから、よく効く薬だったじゃないか。」

 「は?」

 「だから、より優れた進化を促進するよう改良したウイルスを、あのカプセルに入れた。」

 トオルにとってその言葉は全く意味不明であった。ただ、老人への殺意しかなかった。トオルは老人に飛びかかり、その両腕はわけもわからず首を掴んで絞め上げる。

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