第9話

 「久保田先生。」トオルは職員室に寄り、理科の久保田アツヨシ先生を呼ぶ。「理科の事でお伺いしたいことがあります。」

 「お、佐鞍さくらくん、珍しいじゃないか。ちょっと一緒に理科室へ行こうか。」恰幅のいいアツヨシ先生はそうにこやかに言いながら席を立ち、鍵をとってトオルと行く。

 「それで、聞きたいことって何だい。」理科室でアツヨシ先生は訊ねる。

 「ルドルフ病・・・。」

 「あー・・・それは先生もよくわからないんだよなあ。」

 「いえ、それに関連したことなのですが、ルドルフ病にかかってる僕のクラスメートを見て疑問に思った事があるんです。」

 「はいはい。」

 「ルドルフ病を発症した人って、まあ、なんというか女の子の方がやけに積極的というか、男の子が受け身というか・・・。なんというか僕が知ってる男女の感じとは逆というか・・・。」

 「そんなことを観察する君も変わってるねえ。研究者気質だねえ。」アツヨシ先生はくすりと笑った。「まあ、それは冗談。それで何を聞きたいんだい?」

 「ルドルフ病が、もし、人間以外の虫などの生き物に、その、心まで変化するとしたら、その、男性より女性の方が積極的にアプローチする事って人間以外だと何があるのかな、って気になったんです。」

 「いい着眼点だね。でも、もともと動物はそういう事が多いんだ。」

 「へえー。」

 「たとえば哺乳類でも、孔雀やライオンはオスの方が装飾が立派。いわば生きながらお化粧してる状態で、そうやってメスにアピールしているんだ。メスは地味な装いで積極的に狙って品定めしている。見た目の上では、今の人間社会とは違うね。以外とそういう、オスの方が派手目の生き物って多いんだ。まあでも、人間も一概に言えないかもしれないけどね。」

 「ふむ。」

 「ルドルフ病はよくわからないと言ったが、私も科学雑誌は読んでいる。それによれば、あの空に集まってるヒトムシたちは、最初男ばかりが群れて、そこに女が突入するような習性をとる事が知られている。」

 「あ、それって、蚊柱。」

 「よく知ってるねえ。そうそう、ユスリカの生態に似ているんだよ。」

 やっぱり。ふとトオルの脳裏で、以前見た夢の光景を思い出した。虫になったルリが見知らぬ男と交わっている。

 「その、ヒトムシの女性は、その、」トオルは口ごもった。「男たちの群れに、何度も、飛び込んで、その、するのですか。」

 「・・・まあねえ。」気まずそうに先生は答えた。「知っての通り、ヒトムシは子孫を残すのに必死だ。だから、我々人間と違って一妻多夫に近い感じに・・・佐鞍くん?」トオルがとても悲しそうな顔をしている事に先生は気づいた。

 「あ、いえ、すみません、大丈夫です。」トオルはひどく傷ついている自分を否定しようとした。考えたくない、考えたくない事だったがしかし・・・。「教えてくれて、ありがとうございました。」トオルは一礼をし、アツヨシ先生はにこりと笑って共に理科室を後にした。




 「やっほー、トオルくん!」下校時に下駄箱に靴を履き替えていた時、後ろからルリが妙に明るく話しかけてきた。

 「陽気だなあ。何か嬉しい事でもあったのかい?」

 「別に?ただ楽しいだけ。」

 「そうか・・・。」

 「一緒に帰ろうよー!」とても親しげで明るいルリ。トオルはますます暗い気持ちになる。でもその目は、サネヒコや鮎川ミチコのような狂気を感じない。

 「うん!」とりあえず強い返事をしてトオルはルリと玄関を出る。




 その後は分かれ道だったので、トオルもルリもお互い「じゃあね」と手を振ってお互い後にした。その時のルリの目がどこか悲しそうだったのが忘れられない。トボトボと歩きながら、家に帰り着くのもなんだか気が進まず、小さな公園のブランコに座る。何か言えば気が楽になるかなと思って「ああ、どうしてあの子は虫になってしまうんだ。」と言ってみるが、一層悲しみが増大するばかりである。結局トオルはルリと毎日何気なく話すから意識していなかったが、あの空の喧騒にいずれルリが入るという事実に耐えがたい感情が湧くあたり、実は自分はルリが欲しいのかもしれない、とふと自覚する。

 「虫の事でお悩みかい?」という声がそばで聞こえた。振り返ると、あのコートを来た丸メガネの老人が隣のブランコに座っている。

 「あ、いえ、何でもないです。」トオルは関わりたくなかったので、すかさずバッグを持って去ろうとした、その時である。

 「ここに特効薬があるぞ。」

 特効薬。トオルは立ち止まって振り返る。老人は小瓶を持っている。

 「それは、本当ですか?」

 「私は、この通り、ルドルフ病と似た遺伝的な疾患を患っていた。」そう言って老人がコートのボタンを外して中を見せる。シャツをまくると長さの違う虫の足のようなものが飛び出ており、トオルはゾッとした。「ごらん?中途半端でみっともない。この姿をどうにかできないものか、ずっと研究していたのだ。」

 「・・・・それで・・・・その薬は・・・・。」あきらかに変態なのだが、特効薬という言葉を無視でいないトオルは訊ねてしまう。

 「いま君はまさに、想いを寄せている女の子が虫になる真っ最中なのだろう?」老人はにやりと笑う。「これは、そういう患者に最もよく効く薬なのだ。」

 「本当ですか・・・。」トオルは息を飲む。「あの、手に入れたいです。その、お金でもなんでも払いますから・・・。」

 「・・・。」老人はニコリと笑って小瓶をトオルの方に差し出す。「これを無料であげよう。サービスだ。」

 「え!」トオルは驚いた。「本当に、本当に、本当にいいのですか。」

 「ああ。良いとも。私みたいな奇人のやる事に興味を持ってくれたのは君が初めてだ。」老人は言った。「これはそのお礼だ。」

 「ありがとうございます・・・」トオルがそうお礼を言った時、老人はさっと踵を返してどこかに行ってしまった。トオルは後を追ったが、その姿を見失ってしまった。




 『朗報だ。』トオルはチャットを送った。

 『何。』ルリは会った時の明るさとは裏腹に、もともと素っ気なかった文章がさらに素っ気無さを増していた。

 『特効薬というのをもらった。』

 『特効薬?』

 『虫になろうとしている人に効くって。研究してる人からもらったんだ。』

 『それ大丈夫なの?偽物じゃない?』

 『その研究者も虫みたいな姿でルドルフ病に似た遺伝的疾患だったんだって。それを食い止めるための研究をしてたっぽい。』

 『そうなのね。』

 『どう。』

 『そうね。残り少ない人間としての人生だし、試してみるのもありかもね。』

 トオルはしばらく返信できなくなった。何と言っていいのかわからなかった。やっぱりルリが明るいのはルドルフ病からではなく、いまだ募る不安を取り除くためにわざと明るそうに振る舞っていたのではないか、と、その文章からふと思い当たったからである。

 適当な返事はできない、と思いつつも、でも、適当な返事しかできなかった。

 『今度会ったら持っていくよ。』

 ああ、歯がゆい。トオルはいまいち満足できないそのメッセージを送信する。すぐに、「Thank you!」の文字が書かれたスタンプが送信された。はぁ、とトオルはため息をつく。

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