第7話

 「それって・・・え、本当なの?」トオルも恐怖のあまり手や肘が麻痺したように感じて滑稽なしぐさになっていた。

 「体の節々が・・・昨日から痛み出して・・・」ルリが呟くように答える。

 「単に・・・リンパが痛い・・・とか・・・」

 「違う違う。これは絶対違う。私わかる。」ルリは指で肩を抑えた。「ほら、何かが流れてるのを感じる。ちょっとずつ蠢いてる。体が変わろうとしてるの。」

 「それは気のせい・・・じゃないかな・・・」

 「ねえ、信じてよ。」ルリはトオルの腕をいきなりつかんだ。ルリの母が驚く。「ほら。」ルリの肩にトオルの手のひらを強引に押し付けられた。通常、骨つきばっているはずの肩とは思えないうねりと蠢きを見せており、トオルは思わず「あ!」と叫んで手を離してしまった。

 しばしの沈黙。

 「私、変わっちゃう。」ルリは言った。「そのうち、鮎川ちゃんみたいにおかしくなる。」

 トオルは唖然としていた。どうしようもできなかった。ただ目の前で「いや・・・あの・・・」ともごもご言いながら固まる事しかなかった。ルリはしばらくし後ろを振り返り、二階の部屋に向かってどたどたと駆け上がっていった。ルリの母は軽く頷く。トオルもゆっくりと頷き返す。とりあえずプリントは渡した。扉から外に出て、トオルはルリの家を後にした。

 



 『ごめん。』

 トオルはチャットにそう送る。ルリからは全く返事がこない。すかさず、この申し訳ない気持ちを説明したくなる。

 『正直に言うと、どうしていいかわからなかった。せめて慰めの言葉でもかけてやるべきだったと思う。』

 送った後に、何言ってるんだ、今その慰めの言葉をかければよかっただろ、と考えトオルは慌てて新たな文章を考える。既読はついたが、返事はこない。ルドルフ病は不治の病だ。だからこれからルリに起きようとしている変異を食い止める事ができない。だが、不安を取り除く事は必要だ。虫になった人間たちを、僕らはどう見たか、それはすなわち、僕らがその立場に置かれた時、どういう目で見られてしまうか。ルリはそれを恐れているのだ。

 トオルは自分が意識の改革を迫られている事に気づく。今まで自分は人がヒトムシになる事を、新しい進化か何かだと傍観そして諦観さえしていたが、ヒトムシというのはもはや身近な存在であり、もはや他人事ではなく、諦観している場合ではない。せめて僕だけ、僕だけでもその理解の手を差し伸べねばならないのだ。ルリが。

 『ルリがたとえどうなっても、僕は君の大事な友達でいたいと心から思っているんだ。』

 トオルは必死に考えた末、この文章をチャットに送った。もうこれ以外に言う言葉が思いつかなかった。これがもし余計な一言だとしたら・・・その時はその時で一旦手を引こう。事はとても繊細な問題だ。しかし、すぐに既読の表示がつき、『ありがとう』という文字が帰ってきた。トオルの胸に嬉しさと安堵感がこみ上げ、今すぐにでも何かしら返信したくなったのだが、しかし、トオルは思いとどまる。自分が嬉しがってる場合ではない。ルリは今つらいのだ。それに今、かける言葉が思いつかない。思いつかないことは、やらないほうがいいかもしれない。そう思った時、ルリのチャットから笑顔のスタンプが届いた。なんだか状況が良くなりそうな事を確認したトオルはホッとした。




 その二日後に、ルリは登校する。いつも通り通学路を歩いているルリを見てトオルは再び安心する。

 「どう・・・体調は・・・。」トオルは訊ねる。

 「落ち着いた。なんか周期があるみたいね、これ。」ルリは言った。「とても痛い時と、何も感じない時がある。」

 「そうか・・・。」

 「ああ、残念だなあ。」ルリは言った。「残り少ない1ヶ月。こんなあっけなく人間としての人生を終えたくないよ。」

 「そんなことないよ。」トオルは言った。「意外と見た目が違うだけで、人間だった時とそう変わらないかもしれないじゃないか。」

 ルリは驚いてトオルを見た。「トオルくん、変わったね。前そんな優しい言葉くれなかった。」

 「・・・・だって。」トオルからしたら、優しくなろうと思って優しくなったのではない。ただ焦っていた。

 「いいよ。」ルリは微笑した。「友達でいてくれてありがとう。」

 確かに、その言葉だけでトオルは十分だった。「うん。こちらこそ。」

 二人は学校に向かう。空は相変わらずヒトムシが群れている。まだ彼らとルリは、その天と地の距離ほどに遠い。ゆくゆくはルリに訪れるであろう・・・否、その事について、トオルは考えるのをやめた。それは、その時が来たら考える話だ。校庭でボールが弾む音が聞こえる。学校が、近づいてきた。

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