第55話 HELLO 僕とボクの世界
たとえ、元に戻れなくても、僕は―――
「守られてるだけじゃダメなんだよ。僕もニールを守りたい」
僕の囁くような言葉にアダムが手にしていたグラスを落としかけて目を大きく見開いていた。
「あのうう。坊ちゃんは…… 今なんと申されました?」
「え? なっ……なんでもないよ」
慌てて僕は両手で口を押えた。でも、時すでに遅しとは、このことだろう。幸いなことに部屋に残っていたのは僕とアダムだけだった。
「ニールさんのナマエをどうして知っているの?」
「え? えーっと……」
「キミに自己紹介なんて俺たちはしていないよね?」
「みんなが、あのお兄ちゃんをそう呼んでいたでしょ? だからね、覚えちゃったんだよ」
「……あああああぁぁぁ〜! そうだよね! ああ、びっくりした」
「お兄ちゃんはとっても変わった人だね?」
「そう? そんなに褒められたら照れちゃうじゃなか〜」
僕は慌てて話題を変えようと、言葉を探した。そんな僕の言葉にアダムは照れ笑いをしながら水が入ったグラスを手に、僕の目の前でゆっくりとしゃがみこむ。そしてそっと僕の手にそのグラスを渡してくれた。グラスを持ったのを確認して、ゆっくりと息を吐くとアダムは力を抜いたように目を細めた。
「本当に綺麗な髪をしているね。まるで絹のようだね。肌も陶器のようになめらかで、色白なんて言葉では足りないね。まるで天使のようだよ。ってホンモノを見たことないけどね」
彼は気がついているんじゃないだろうか。優しくするのは、僕が困るのを分かっているから。もしも、それならば、彼は味方になってくれる? 味方? 一体全体、何の味方だというのだろうか。僕はそんな自問自答を繰り返していた。
「ああ、そういえばね。ここには本当ならば、あと二人居たんだよ? 栗色の髪の綺麗なサトリの女の子と、天使になりそこなった馬鹿な青年と…… ね? シモンくん」
僕はアダムの立っていた場所をソファーから見上げるように顔を上げた。
アダムは先程と変わらない表情で僕を見ていた。
「……何を言っているの?」
僕は精一杯の言葉を選んで、アダムから目を離せないまま心だけは必死で逃げようとしていた。それを悟られないように、バレないように、ゆっくりと話す。アダムは変わらぬ表情で首を傾げた。聞き間違えか? 疲れているのだろうか?
「……やっぱり」
「え?」
「シモンさんだね?」
「…………」
「カマをかけてごめんね。瞳の色も、その絹のような髪も。俺にはシモンさんにしか思えなくて。騙すみたいになってしまって…… だけどね、言いたくない理由があるのなら俺は誰にも何も言わない。シモンさんが自分でそう決めたんでしょう?」
彼はやっぱり人気俳優だっただけのことはある。すっかりと僕は騙されてしまったみたいだ。柔らかい表情で笑う彼は、嘘偽りない彼だ。僕じゃ敵わない。足元にも及ばない。
「心配しないで…… まだ誰にも言ってないし、誰もキミがシモンさんだなんて分かってないよ。ニールさんもお兄ちゃんなら気がつけばいいのに。って知られたらダメだったかな?」
僕はアダムの言葉にゆっくりと首を横に振る。そんな僕を見てアダムはふっと力を抜いた笑顔になった。
「何も言わなくていいんですよ。これでも俺も俳優の端くれです。付き合いますよ。シモンさんにどこまでも付き合います」
「………」
正直、彼の言葉に僕は驚いていた。誰よりも慌てて騒ぎ出すと思っていた。でも、彼はグランのことで成長したのだろう。守る強さに嘘はないんだと、僕は思った。
******
遠い空には飛行機が手の届かない青と白を描く。ゆっくりと引っぱって伸びて行く雲は飛行機雲。これを見上げていると、小さなころを思い出すんだ。光が見えた時には、じっと膝を抱えて箱の中にいた。誰も知らない。ハッピーエンドなんて知らない。なにがバッドエンドなのかも知らない。ううん、違う。分からないんだ。見たことがないから。ボクは、ずっと籠の鳥だったから。誰にも愛されたこなんてないんだからね。あたりまえっちゃあたりまえ。なんだよね。
赤い金魚の尾びれが揺れて、白い壁が美しさをひきたさせた。高い位置の小さな窓と飾りも何もない無機質な壁。そこから逃げ出すのも、実はそこまで難しいことじゃなかった。必死でもがけば、出来ないことじゃなかったんだ。
でも…… あの頃のボクにそこまでの気力はなかった。精も根も尽き果てていたんだ。ナマエのないボク。数字で呼ばれる日々。色とりどりの薬と数台のウォーターサーバー。言葉を交わさない生き物。無駄に時間が過ぎていき、窓からさす光で昼か夜かを確認して、暖かい日差しが振り注げば晴れていると分かる。それくらいの毎日。それ程度の感覚。
楽しいという心も気持ちもなかったんだ。
もう、何年こうして此処に居るんだろうか。
ビーカーに入った謎の液体。
エディションという名の実験。
泣けと言われて泣いても「失敗作」と言われる。何もかもが、謎。やりきれない思い。ただ繰り返す時間と身体の痛み。
なのに、苦しくなる心だけはあった。
暖かな飲み物をもらい、口にすると、どうしてだか胸の奥が潰れるような痛みに襲われた。ボクは涙を流して、人を笑顔に出来るの? それで誰も不幸にならないなら、僕は悪になるよ。誰も悪くない。悪者は僕だけでいい。
十二枚の羽根。ふつうの枚数を優に超えた羽根。俗に言う悪魔のそれが、十二枚。天使の羽根はそこまで多くないんだって。数冊だけ置いてある本の中に、青いベルベットの生地で覆われた綺麗な物があった。聖書のような内容に最初は興味もなかった。だけどね、それでも無限に感じる時間の中で暇を潰すには十分な内容だった。知らない世界と知らない生き物。ボクだってそれの「ひとつ」だと、後に知る。
「希少価値」「絶滅危惧種」「絶滅種」「天使」「悪魔」「変異種」「その他」
まるで作られた世界の寓話。現実に居るとは思えない生き物だったよ。それが一番の感想。ボクの種もその中にあった。
――――ローズ種
堕ちた子供。SNOW MIDDO GOLD EVE
消えた宝石。赤い血の色の涙から生成された宝石。
これが、ボクだった。
monthly 櫛木 亮 @kushi-koma
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