第54話 いつかの終わりは忘れて
テーブルには、いつも質素ながらも淡い色の花が飾られる。「毒々しい色もとても綺麗だけれど、疲れちゃうからね」と、母さんが笑って言った。
幸せっていうのは、贅沢じゃなくていいんだって、僕は知ったんだ。
父さんが優しく柔らかく微笑むと、家族分の珈琲をカップに注いでいく。その隣で母さんが焼きたての小ぶりのアップルパイを飴色のペーパーにいくつも丁寧に並べていく。母さんのその隣で香りにうっとりとして微笑む僕がいた。
暖炉の前の一人がけのソファーに座ったニールが不器用な手つきでルービックキューブをカチャカチャと音を鳴らし廻していた。
こんなのは夢の中だと分かる想いは、何処に仕舞えばいい? 僕は答えが分からぬまま、ぼやけた目で天井を見上げていた。
僕らは出逢わぬままに生きていたなら
今どうなっていたかな?
今とは違う、幸せはたくさんあったのかな?
それとも、何処かで出会っていたかな?
「ねえ、どうかしたの?」
ニアの声に僕は我に返る。ガラスに写った母さんの姿は消え、焦った表情の僕はニアの顔を見上げた。涙が溢れてくるのを必死でとめようと、震える手で何度も何度も拭うのに、一度溢れ出した涙は、簡単には止まらなかった。
涙は温かく、生きている証。
僕はここにいるよ。みんなのそばにいるよ。と何かに誰かに必死に訴えるんだ。
その言葉は汚れて濁った窓に映った自分の姿に思わず喉の奥に仕舞われた。
うまく伝えられなくて、それから、きっと僕は怖いんだ。ここに来てずっとずっと。
「いいよ…… 大丈夫だから。いっぱい泣いてもいいんだよ。車にブランケットがあったから、ボクがすぐに取ってくるよ。キミはここで待っていられるかい?」
ニアの温かな言葉が僕の胸を締めつけるようだった。黙ってニアの袖口を掴むと首をゆっくりと左右に振った。その仕草にすぐに察したニアが今度は僕の手を優しく包むと、にっこりと微笑んだ。
「わかった。一緒に取りに行こう。それからソファーで一緒にお茶をしようね? ボクのお茶は心がホッとするからね」
「うん」
「良い子だね。まるでボクみたい」
笑ったことで柔らかな髪が揺れる。ニアは本当ならニアのその手は僕より小さなはずなのに、今の不安な気持ちを包み込む大きな手に思えた。
*****
「着替えは此処にある好きなのを着ればいいよ。ゴシックドレスに、フォーマルスーツ。道化の衣装まで揃えてある。きっと、どれかひとつくらいは気に入るはずだ」
大きなクローゼットに様々な色のドレスが並び、棚には綺麗に畳まれたシャツと靴が置かれていた。編み籠には優しい香りのタオルにブランケットがあった。ティノはそれを見てから、ピンクの髪の兎の面をつけた少年と思わしき人物に消え入りそうな声で声をかけた。
「……あの」
兎面の人物は首をかしげてティノに返事をする。
「何かを悩み、何を困っているのか、ぼくは知らないけれど。風呂の湯が温かい間に入っておいでよ…… 貴重な時間と周りの優しさを無駄にするのは如何なものかな? 礼儀がなっちゃいないね」
と少々キツめの言葉を吐くと、勇み足で部屋から出て行ってしまった。ティノはおっかなびっくりで扉を見つめていたが大きなタイルのバスタブに心が魅了されていく。柔らかなハーブの香りのする湯に指先を浸す。すると温かさと香りがまるでティノを包むようだった。ティノは着ていた服を丁寧に脱ぎ、用意された籠の中にたたみ入れた。足先からゆっくりと湯船に浸かる。不安だった気持ちに温もりが優しかった。自然と涙が溢れてティノはみんなのことを思い出す。
「ねえ…… シモンちゃん。アタシはどうなっちゃうの…… 今どこに居るの……助けて……お願いよ……アタシ、悲しみでどうにかなりそう」
ティノは湯に浸ると膝を抱えて小さく震えた。温かな湯に優しい香りが包み込む。泣かぬように無理に頑張っていた。糸が解れていくように真実が解らぬままに音を立てて心が軋んでいく。不安は心を蝕んでいく。緊張は胃をキリキリと締めつけた。
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