3 ファーストコンタクト

 マスターが言った。


「そういえば、今日、ようこちゃんのカレシは来ないの?」


 カレシって、ああ、弘樹のことか。あたしは答えた。


「来ないですよ」

「なんで?」

「なんでって。別に」


 マスターは、四十路も過ぎてるのに若作りだ。20代みたいなファッションばっかり。バツイチとはいえ独身で、若いカノジョがいるらしい。でも悪いけど、オジサンはオジサンじゃん。腹が出てないことを自慢してTシャツまくってみせるけど。くすんで緩んだ腹の皮は、やっぱ老けてる。弘樹はピチピチだもん。腹筋にクッキリ縦線入ってるし。


「ヒロキっつったっけ、彼」

「はい」

「前に来てくれたとき、12月8日が記念日って言ってたろ? だから一緒なのかと思ってたけど」

「記念日?」

「そ」


 誕生日じゃなくて、記念日。


 ビートルズ関係者にはあたしの誕生日を知らせるな、って。あたしは弘樹に言ってある。弘樹は言いつけを守ってる。記念日とやらを公表するのは、その代わりのつもり?


「あたし的には、どーでもいいんだけどな」

「おお、ドライ! さすが“ヨーコ”! 我らがファムファタール!」

「どーも」


 正直、誕生日と同じくらいどーでもいい話。でも、弘樹は大マジメに公言してる。


「ようことおれが付き合い始めたのは12月8日だ」


 しかも、それって正確じゃないし。思いっきり日付変わってたから。別に訂正しないけど。どーでもいいから。


 去年の12月8日。なじみになった東京のライヴハウス。あたしはワンマンで弾き語りをした。トリだった。演奏を終えたタイアップバンドの連中が、聴いてくれてた。


 弘樹はその聴衆の中にいた……らしい。でも、あたしは弘樹を認識していなかった。


 ジョン・レノンをメドレーで弾き語って。あたしはつつがなくライヴを締めくくった。そして、いつもどおり1人で食事に出た。


 行きつけのバーは、あたしのアパートから近い。鶏のソテーと、おまかせドリアと、シャーリーテンプル。これが“いつもの”。あたしは親父譲りで、酒が1滴も飲めない体質だから、カクテルは必ずノンアルだ。


 21世紀的な文明の機器って肌に合わないけど、i podだけは別格。ひとり飯のお相手は、ビートルズを歌うi pod。


 「エイト・デイズ・ア・ウィーク」を楽しんでたときだった。ギターを背負った男が、あたしに声をかけた。それが弘樹だった。アホなやつ。耳にイヤフォン突っ込んでいる人間に、熱心に語りかけるとか。


 怒ったような表情で、見たことがあるようなないような。若い男ってか、少年。へー、って感心するくらいイケメン。ジョージ・ハリスン系の顔。シャープで彫りの深い正統派の美形。


 そいつが口をパクパクしてるのを、あたしは観察していた。一通り、ナンパだか演説だかが終わる。あたしはおもむろに音楽を止めて、イヤフォンを外した。


「で、何だって?」


 そいつは、その場にへなへなと崩れ落ちた。あたしは再びi podのビートルズに意識を委ねる。シャーリーテンプルの氷をマドラーで弄ぶ。


 仮称ジョージ少年は、あたしの向かいに勝手に座った。いい度胸してる。ビールでも頼むのかと思ったら、瓶入りのラムネだった。


 まるまる3曲ぶん、放置プレイ。8分間くらいかな。初期ビートルズの曲は短い。4曲目に入ったころ、ジョージ少年はラムネを空っぽにした。あたしの耳からイヤフォンを引き抜いた。


 ジョージ少年は、2度3度、何かを言いかけてはやめた。てか、笑えよ。目つきがキツい。イケメンだから、なおさらキツく見える。まっすぐな目。一度もブレずに、あたしを見つめてくる。


 しかし、ちょっと面倒くさい。あたしは自分から会話をスタートさせた。


「どうかした? 知り合いだっけ? じゃないよね。どっかであたしのライヴ聴いた人?」


 ジョージ少年は、ようやくしゃベった。よく通る声だった。


「さっきまで一緒のハコにいただろ?」

「出演してた人? あー、じゃ、わかった。2番目にやってたブルース系のでしょ?」

「それだよ。覚えてたか」

「ギターと演奏はね。顔は忘れてた」

「ライヴの前に楽屋でも挨拶したんだけど」

「あっそ。みんな挨拶してくれたから、誰が誰だか」


 ジョージ少年はうなだれて、長々とため息をついた。そのまま、上目遣いにあたしを見た。


「あんた、いい性格してるな」

「どーも。そんで、何か用?」

「用件なら、さっき話したんだけどな」

「あたしの耳は2つとも、ビートルズを聴いてた。用件はシンプルに言って」

「おれ、あんたに惚れてる」


 沈黙。イヤフォンから、かすかに「ラヴ・ミー・ドゥ」。


「はぁっ?」


 ジョージ少年の怒ったような顔は、ハッキリ赤くなってた。


「前から気になってたんだ。今日、あんたの歌を聴いてて、完全にやられた。好きだ。もうどうしようもない」


 ビビッた。いきなりそんなこと言われたのは初めてで。ファンとか友達とか、そーいうステップぶっ飛ばされて。しかも、繰り返すけど、ジョージ・ハリスン系の美少年に。


「……じゃあ、とりあえず、食べる?」


 何が“じゃあ”なんだか、わかんないけど。ジョージ少年は、ぶんぶんと首を左右に振った。


「帰る。真夜中まであんたと一緒にいたら、おれ、止まらなくなると思う」


 それ、どういうこと? むしろ、気になった。興味があった。硬い表情でニコリともしないそいつが、どう化けるのか。


「何か頼めば? 食事してないっしょ? おごるよ。あたし、今だったら、お金けっこう持ってるし」

「自分のぶんくらい払う」

「遠慮すんなって。あたしより年下でしょ? 名前、何ていうの?」

「ヒロキ」

「ふーん、そう。よろしくね」


 衝動的に、思った。めちゃくちゃになっちゃいたい。ミュージシャンなんだもん。自分の殻をぶっ壊してみたかった。


 飲める体質だったら、つぶれるまで飲んだと思う。弘樹は、未成年だからと言って、頑なに飲まなかった。ここで補導されてキャリアに傷が付いたら、将来つらいからって。


「暗い中、ひとりで帰れって言うの?」


 弘樹にアパートまで送らせた。見え見えの罠だったけど、17歳の弘樹は引っかかった。あたしはベッドに押し倒された。


 でも、初めての激痛は想像以上だった。甘い好奇心も一瞬で吹っ飛んだ。あたしが処女だったことに、弘樹は驚いた。驚く以上に、心配しまくった。こいつ、やっぱバカだ。あたしは弘樹をぶん殴った。人の処女奪っといて、しけた顔すんな。喜ぶところだろ、バカ野郎。



***



 レスポール系のギターを直接マーシャルのアンプにつなぐ。その原始的な音質が好き。


 ギターシールドのジャックを、アンプに挿し込む。ザクリとした手応えが、あたしのスイッチをオンにする。アンプの電源を入れる。ツマミをひねって、コンディションを調整する。ホワイトノイズの中で、ギターストラップを左肩に掛ける。


 あたしのギターの位置は、ビートルズにしては低すぎる。ちょうど骨盤の高さ。仕方ないじゃん。あたしに男の筋力はない。今日のギターは、重さ約5キロ。上半身だけで支えるのは難しい。両脚をしっかり踏ん張って、腰と腹筋でギターを支えるんだ


 開放したままの弦を撫でる。レスポール特有の、太さと強さと柔らかみのある和音。エフェクターを仲介しないサウンドは、とてもシンプル。


 左手でコードを形づくる。右手のピックで、表情を吹き込んでいく。ギターは、あたしに似てない声で、あたしの感情を歌う。


 ジョン・レノン好きは、リッケンバッカーのギターを使いたがる。あたしはリッケンにこだわるつもりはない。リッケンがジョン・レノン的なギターだからってさ。あたしに合うとは限らないじゃん。


 それを弘樹に言ったら、あいつは妙に嬉しそうだった。


「ようこは、やっぱ女の子だ」


 何それ? 意味わかんない。


 あたしはコレクターになるつもりないし。そりゃ、ビートルズやジョン・レノンのことはかなり詳しいけど。でも、見境もなくぞっこんになってるわけじゃないんだってば。あたしは第2のジョン・レノンになりたいの。長髪メガネのあの人に同化したいんじゃなくてさ。


 あたしが今のエレキギターを買ったのは半年前。楽器店にあったギターを片っ端から試奏して、この子に出会った。ギブソンのレスポール・トラディショナル。左手でネックを握り込んだ瞬間、ピンと来たんだ。この子だ、って。音も出さないうちに、わかったの。


 新しいギターのネックは、あたしの右の手首とそっくりな感触。握り心地が、あたしの左手にピッタリだった。っていう表現は、実はあたしのオリジナルじゃなくて。さんざん焦らした後で弘樹に弾かせてやったら、そう言った。癪だけど、すごい納得がいった。


 弘樹は、あたしの手首で弾き語りして遊ぶ。ギターのローポジションみたいに握って、指を這わせて。くすぐったくて迷惑。でも、あたしはその迷惑な遊びが、割と好き。あたしの右の手首をつかまえる弘樹は、ふと熱っぽい目をする。生意気なくらい、セクシーな目。年下のくせにズルい。


 ギターは女の名前を付けられることが多い。これも弘樹から聞いた。弘樹は物知りだ。難しい言葉も複雑な表現も、いっぱい知ってる。“レスポールの音は豊満だから好き”なんだって。女の好みも、ほんとはそうなのかもね。あたしは、ストラトの音色みたいにスレンダーで、胸もないけど。


 ギターは女っていうことに、あたしは満足してる。それは、つまりね。歌うあたしの体は、ギターと1つになれるってことでしょ。


 骨盤にピタリと沿わせたギターの重み。腕を持たない“彼女”は、あたしの腕を操って歌う。あたしは、体の奥から筋肉を引き絞る。上へ上へと。熱い歌声を、腹へ胸へ喉へ口へと噴き上げる。唇から放つ。“彼女”とあたし、2つの音色が、1つの歌を奏でる。


 女は水だ。あたしもギターも、同じ。あたしは感じる。彼女とあたしは、温かな水の中で共鳴する。ゆるゆると溶け合う。


 男のギター弾きは、こうじゃないでしょ。男の腕が“彼女”を抱いて歌わせる。 “彼女”の音色に、男の歌声が乗っかる。そこには、支配的な匂いがただよう。


 不自由そうだね。痛々しいんだよね。


 弘樹のギターも、そうだ。弘樹のギターは、弘樹の焦りや怒り、若さと性欲に忠実だ。弘樹は“彼女”を服従させている。その激しさが、腹立たしいくらい芸術的。あたしは嫉妬する。その嫉妬は、どこに向けたものなんだろう?


 弘樹といると、頭がぐちゃぐちゃする。こんなの、うっとうしくて。だから、逃げ出したくなる。あいつはあたしを追いかけてくる。それでまた、不安になる。いつ、追いかけてくれなくなるんだろう? 昔はわからなかった歌の意味が、あるとき不意に理解できたりする。そんなふうに、人の心なんてコロッと変わっちゃうものだから。


 あたしへの興味をなくす可能性が1グラムでもあるなら。“好き”とか言わないでよ。態度にも出さないで。そんなふうに、あたしは弘樹を突き放す。それでもまだ弘樹が追いかけてくるのを確認して、安心する。


 だけど、12月8日はやりすぎたかな……?

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