2 ホワイトアルバム

 10ヶ月前、あたしは初めて、その店を訪れた。“PUBホワイトアルバム”。


 夕暮れ時だった。上下からライトアップされた、ユニオンジャックの看板。あたしは階段を下りた。汚い漆喰の壁。タバコの匂い。インディーズバンドのライヴ告知のポスター。


 ドアベルを鳴らして、店に入った。その空間は、例えて言うなら。1960年代のリヴァプールにつながるタイムトンネルだった。


「いらっしゃい」


 カウンターの内側から言ったのは、長髪のオジサンだった。そのほかに、談笑するオジサンが4人。どこにでもいそうなサラリーマン風。まあ、予想どおり。ビートルズに釣られるのは、たいていオジサンだし。


 BGMは「デイ・トリッパー」だった。いいじゃん。好きなんだよね、このギターリフ。


 店内は、みごとにビートルズだらけだった。ポスターやレコードのコレクションが壁を埋め尽くしている。薄型液晶の大画面に映されてるMTV。まだ10代のジョージ・ハリスンが、やっぱイケメン。


 店の奥には、ちょっとした音楽空間が創られていた。ギターもベースもマイクもアンプもドラムもピアノもある。


 オジサンたちは、あたしの登場を何度も喜んだ。まず単純に、あたしが若い女の子であること。次に、ビートルズが好きだってこと。そして、あたしのギターがギブソンの本格的なやつだってこと。さらに、あたしの“ようこ”って名前。


 彼らの間では“ヨーコ”って響きは魔女の呪文に等しい。もちろん、前衛芸術家のオノ・ヨーコ姐さんを意識してのこと。彼らのヒーロー、ジョン・レノンをたぶらかしたからって。


 勝手に言ってれば? って感じ。とりあえずあたしは、自分の名前を気に入ってる。


 あたしはオジサンを手玉に取るのがうまい。見た目は若々しい美女だけど、話す内容がオジサンだから。ビートルズネタだったら、リアルタイム世代よりよっぽど詳しい。


 ビールと肴を交えて、ビートルマニアなおしゃべりをした。そして、ある瞬間、空気が変わった。まったくもって唐突に、セッションが始まったんだ。


 マスターがコンポのヴォリュームを絞ると。冴えないサラリーマンのオジサンたちが、ビートルズに化けた。


 曲は「ア・ハード・デイズ・ナイト」。


 ジョン・レノン役は、チェーンスモーカーで脂ギッシュ。タバコ嗄れして絶妙なしゃがれ声が、ハマってる。


 ポール・マッカートニー役は、右利きで額が広すぎる。ジョージ・ハリスン役は、メタボ腹の上にギターが乗っかってる。リンゴ・スター役は、四角い黒縁メガネが鼻からずり落ちかけてる。


 毛穴の開ききったオジサンたちの肌。スポットライトに照らされて、てらてらキラキラ輝いてた。笑っちゃうほどカッコ悪くて。永遠のロックアイドルからは力いっぱいかけ離れてて。でも、本物だった。そのグルーヴは、ビリビリするほど熱くて、キリッと冴えてた。


「カッコいいじゃないですか」


 あたしは言って、ギターを抱えた。サポートに入るのは、エリック・クラプトン役ってとこ? マスターが、ピアノ担当のジョージ・マーティン役。


 全員でコーラスを重ねに重ね、軽快なハーモニーを創る。リズムはしなやかに安定して、軸がブレない。その上を、個性的な3本のギターがじゃれ合って駆け抜ける。ピアノは茶目っ気たっぷりに、弦楽器たちの間で踊る。


 楽しかった。ホワイトアルバムの夜は更けた。手玉に取られたのは、あたしのほうだったかもしれない。


「また来るよね?」


 そう言われて、うん、と答えた。近くもないこの場所に、あたしはたびたび通ってる。



***



 結局ハンバーガー屋に居座った。昼ごはんは、チーズバーガーのセット。あたしは、午後2時にホワイトアルバムの階段を下りた。


「おはようございまーっす」

「おー、ようこちゃん。おはよう」


 店内には、顔なじみのオジサンたちが楽器の調整を始めてた。今日のライヴでは、ジョン・レノンの曲だけが歌われる。ジョンの持ち歌は幅広い。アイドルっぽいストレートなロックもある。マイナーで憂鬱なナンバーもある。聴かせる系の荘厳なバラードもある。


 エントリーは8人。持ち時間は、各自20分くらい。食事と酒も用意されてて、ライヴは夜中まで続く。今日という日が終わるギリギリに、全員で「イマジン」を歌う。


 あたしはライヴの初っ端で歌う。今日に限らず、ホワイトアルバムでは、たいてい初っ端。あたしはオジサンたちの起爆剤だから。


 あたしっていうコンテンツは、いろいろと得してる。若い女で、ビートルズ通で、ギターが弾けて歌える。それだけで、オジサンたちは喜ぶ。食事もおごってもらえる。うまくすりゃライヴのチケットも譲ってもらえる。


 オジサンたちが言うには“ようこちゃんのルックスは武器”なんだって。音源の売り込みでも何でも、顔を出せば強いはずって言う。あたしは愛想笑いをしておく。この程度の顔と体が、夢へのフリーパス代わりになるはずない。あたしは今まで、この顔と体で生きてきた。運命がかしずいてくれるほどの美しさじゃねーよ。それはあたしがいちばんよく知ってる。


 だいたい、あたしは自分が女だろうが男だろうが、気にしてない。 並みの男より、あたしはカッコいい。ロックとギターと潔さ。その3点セットであたしを超える男は、今までいなかった。たまに、女子から本気で惚れられる。いつも丁重にお断りする。そーいう意味では、あたしは女だから。


 だからたぶん、あたしは中途半端だ。女々しい自分は許せない。でも、生物学的には完璧に女。面倒くさい。男になりたいとは思わない。でも、女を捨てたいと思うことはある。


 マスターが、あたしのエレキギターに親指を立ててみせた。


「ようこちゃん、今日はギブソンのレスポールか。気合い入ってんじゃん。大好きなジョンの日だもんね」


 あたしは微笑んでうなずいてみせるけど。内心は薄笑い。


 大好きなジョン? 安っぽいこと言ってくれるよ。


 9歳のころから、ジョン・レノンは、あたしの精神に住んでる。巣くってる、と言い換えてもいい。あたしはジョン・レノンに浸食されてる。


 理想だとか憧れだとか、そんな生ぬるい感情は超越。あたしは、ジョン・レノンに嫉妬している。


 ジョン・レノン、あんたはずるい。


 劇的な人生を独り占めにして、さっさとこの世から退場してった。超が付くほどの勝ち逃げじゃん。あんたの人生って、一般人の何十倍エキセントリックなの?


「今年で何年になるかなあ、ジョンが死んでから」


 誰かが、ふと言った。即答したのは、あたしだった。簡単な引き算じゃん。途端、オジサンたちは、ため息と嘆きの大合唱。


「うおー、そんなになるのか」

「ジョンより生きちゃってるよ、おれ」

「おれも老けるわなあ……」


 オジサンたちの言葉は、あたしには理解できない。あたしが知ってるジョン・レノンは、生身の人間じゃないから。1個の伝説だから。強烈で矛盾に満ちた、完結した物語だから。


 あたしは、ジョン・レノンと時代を共有していない。ジョンの遺した音楽と言葉とアートだけを受け継いだ世代。


 ジョン・レノンという男。こんがらがった男だと思う。英雄だけど、ヘタレで。世界がジョンに理想像を押しつけるから。ジョンはますますこんがらがっていって。音楽への分析とか、私生活への批判とか。まるっと流して笑ってられる人じゃなかったんだよ。ジョンの歌を聴いてたら、そんな気がする。


 追い詰められてパニクって、でもそれはそれで楽しそうで。ジョンとヨーコのエピソード、あたしは好きだ。“オノ・ヨーコと出会ったから、ジョンが血迷った”って言いたがるビートルマニアも多いけど。


 血迷ってたっていいじゃん。そのぐちゃぐちゃっぷりがステキじゃん。


 例えば、ビートルズがまっすぐ飛び続けてたらどうなってた? きっと地球なんか飛び越えて、果てしない宇宙の高みまで。彼らは、地球の人間を連れて行ってくれた。


 でもね、それって、すっごい幼稚なストーリー。今ここに現実として存在する物語のほうが、ずっといい。バラバラになったビートルズ。ぐちゃぐちゃな人生のジョン・レノン。苦しくて、しょうもなくて、だからこそ魅力的だ。


 完璧でご立派な人生なんて、あたしはほしくない。だから、あるがままのビートルズが好きで。ジョン・レノンが好きで。あたしもそうなりたいって願ってる。

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