理科室のパラダイム

小町紗良

理科室のパラダイム

「寒いですよ」

 酢酸の臭いが満ちる理科室。どこかのクラスの担任を受け持つでもなく、職員室での慣れ合いを好むでもない俺にとっての唯一のテリトリー。室内の窓を全開にして空気を入れ替えることが、コンビニ弁当を少しでも美味しく頂くための最大の努力である。

「実験の後で臭いんだ。我慢してくれ」

「はあい」

 明石は不満げにそう返して教卓に一番近い机に着き、ギンガムチェックの包みを解く。いつものストロベリージャムの瓶だ。

 俺も彼女の正面に座り、ラップを除く。ぱちん。いただきます。

「鍵はかけたの」

「あたりまえですよ」

 小さなソースのパックを破き、湿っぽいフライにかける。指先に付着したソースを白衣の裾で拭いつつ明石に目をやると、銀のスプーンでもくもくとジャムを食べていた。

 明石は幼い頃にかかった病気の後遺症で嗅覚を喪失し、味覚がおかしくなったらしい。詳しいことは知らないが、今のところストロベリージャム以外を食べるのを見たことが無い。

「この間、無くした上履きですけど」

「ああ、見つかったの」

「男子便所に捨てられてました。横田先生が見つけたらしいです」

「そうか」

「新しいのを買いました」

 きんきんきん、と瓶にスプーンがぶつかる音が響く。明石の動作はひどく機械的だ。

「上履き、いくらしたんだ」

「千円ちょっと」

「それぐらいなら出してやるよ」

「いらないです」

「わかった」

 往なされた。冷えた椎茸の煮物を噛みながら、時計の秒針を眺めてやり過ごす。

「気にしなくていいんですよ」

 烏龍茶を飲めば、いやに胃が冷えた。フタから口を離すと、ペットボトルを明石に掠め取られる。彼女の指先も冷たかった。

「大丈夫だよ」

 いやな少女だ。俺に似ていやな少女だ。

 明石は手を合わせて礼をした。瓶を見ると空だった。明石は立ち上がり、ホルマリン漬けが並べられた棚の前を行ったり来たりする。俺は米粒ひとつ残さず、弁当のパックをきれいにした。

 新しい上履きの、まだ白いゴム底が床を蹴る度、きゅっと鳴る。見ると、つま先や踵や足の甲を床に擦り付けていた。その理由に察しがつく程度には、俺も憂鬱な人間だ。

気付いてないふりをして明石の隣を横切り、開け放った窓から校庭を見下ろす。三月の寒空の下、友人と楽しげにボールを追いかける少年少女の笑顔。カーディガンや学ランを脱ぎ捨てて走り回る彼らのせいで、自分と明石がとてつもなく不健康な存在に感じられた。

 明石が出て行った後、空き瓶の始末をするのは俺だった。瓶を持って教室に戻るのは、明石にとって不都合だからだ。蛇口をひねって水を流し、指を這わせてジャムを落とす。苺の色なのか冷えた皮膚の色なのか、指先が赤い。ぬるりと指に絡むその感触が、駄目なことをしている気分にさせる。

 隅にある扉から準備室に入り、書類や割れたプレパラートなどが散乱する机に瓶を置いた。洗ったものはここで乾かし、週に一度まとめて捨てている。今日は金曜日なのでそれをやる。今のうちに新聞紙に包み退勤時にそのまま捨てられるようにしたいのだが、次の授業を行う教室に向かわなければならない。もうすぐ予鈴が鳴る。

 教室の扉を開くと、これだけが生き甲斐とでも言うような威勢の良さで学級委員が号令をかける。形ばかりの礼をして、なるべく生徒達の顔を見ないようにして出席を取った。このクラスには明石が在籍しているからだ。

「どこまで進んだんだっけ」

「水曜日は聴覚とその構造についてやりました」

「じゃあ、今日は味覚と舌の構造」

 くすくすと笑う声や、明石の方を見てなにか囁きあっている声がする。にわかに教室がさざめき、思春期の子供が飼いならす下劣な化物が顔を覗かせる。

「うるさい」

 咳払いをすればその場は収まった。明石は頬杖をつき、我関せずといった様子でぼうっとしている。俺が同じ立場なら、同じ振る舞いをすると思う。

 黒板の中央に半楕円を描き、舌に見立てる。どこがどの味を強く感じるだとかの解説や、教科書に線を引かせるだのをして淡々と授業を進めた。後方の席の女子が手紙のやり取りをしているのに目がつき、取り上げたところで終鈴が鳴った。

 その後、雑務をこなして今週分の空き瓶を校内のゴミ捨て場に放り投げることができたのは夕方だった。

「溝呂木先生、お疲れ様です」

 教員室で帰り支度をしていると、明石のクラスの担任である横田に声をかけられた。そういえば白衣のポケットに手紙を入れたままだと思い出す。なんとなく紙の手触りを確かめてから脱いだ。

「お疲れ様です。では、私はこれで」

 デスクチェアに白衣をかけて鞄を持ち、踵を返す。横田の厚い瞼の下の小さな黒目が、じっとりと俺の背中を追いかけてくるのがわかった。

「あなた、昼食を理科室で食べているでしょう」

 振り返ると、横田は俺のデスクチェアに手をかけて立っていた。彼の言葉を黙って待ったが、沈黙が続くばかりだった。

「それがどうしましたか」

「生徒達には飲食禁止の場所として指導しているのをご存知でしょう。教職員がそれを破っては示しがつきません」

「鍵はかけてます。万が一このことで問題が起きたら、私が責任を取りますので」

 横田はあからさまに大きなため息を吐いた。

「くれぐれもお願いしますよ」




 頭の悪い男子生徒がアンモニア水のボトルを倒し、悪臭騒動が起きた日だった。

 流石にこの日は教員室で飯を食った。現場の様子を見に行くと、理科室のみならず周囲の廊下や教室の窓も開け放たれていたが、未だ臭いが残っていた。こんな悪臭が漂うところに用がある奴なんていない。そう思っていたが、一応確認のために室内を覗くと、平然とした顔でストロベリージャムを食べている明石と目が合った。お互い「え」とか「あ」とか間抜けな声を出したような気がする。

「臭くないの」

 もっと他に言うべきことがあったかもしれないが、口をついて出たのはそれだった。

「臭くないです」

 彼女は、職員会議でたまに名前があがるいじめられっ子だ。嗅覚と味覚に障害があるとか横田が言っていたのを思い出した。

「みんながいるところでは、静かにご飯を食べられないんです」

 抑揚の無い、浅い息づかいの頼りない声で言った。まるで幽霊のようだった。ほのかに甘い香りがした。

「落ち着きますね、理科室は」




 午前の授業が終わり理科室へと階段をのぼっていると、手紙を取り上げた女子生徒二人が、耳をつんざく笑い声をあげて駆け下りてくる。すれ違い様に俺を見た瞬間、ものすごい剣幕で睨まれた。すぐに目を逸らして通り過ぎたが、直後、彼女達は「ドブ、マジキモイ」「失せろ」と叫んだ。自分が生徒達にドブというあだ名をつけられているのは知っていたが、これほどまでに卑しい真似をすることに呆れてしまった。

 理科室の鍵を開け、いつもの位置に着いて時計を見上げると丁度三分経っていたので、教員室で湯を入れたカップ麺のフタをはずす。もわりと温かい空気を顔に浴び、わり箸を割く。

 半分ほど食べたところでようやく明石が入ってきた。窓際のストーブのスイッチを押してからこちらにやってきて、ごとんと落とすように包みを置いた。結び目を解く手つきがなんとなく荒い。

「先生、大原さんと後藤さんの手紙、横田先生に見せたでしょう」

「見せてない」

「嘘つかないでください」

 自分が手紙を持っていることを証明しようと白衣のポケットに手をつっこんだが、そこには何も無かった。反対側のポケットもたしかめたが、やはり空だ。帰り際、俺の白衣に触れていた、横田のごつごつした手を思い出す。それを明石に言うと、二度三度のまばたきの後に、はあ、と声のような音のような息を小さく吐いた。

「じゃあ、盗られたんですね」

「だろうね」

「手紙の内容は私の悪口だったそうです。横田先生は二人に私への謝罪をさせました。まあ、言葉だけでしたが。先生は執拗に辛いことは無いかとか何でも先生に言えとか、せまってきました」

 瓶の中でぐちゃぐちゃとジャムを掻き回し続け、口をつけようとしない。瓶の底を叩く無機質なリズムとストーブの稼動音が、鼓膜をふるわせる。

「私、横田先生が嫌いです」

「俺も嫌いだ」

 麺は伸びて美味しくなかった。明石はラベルの下の線あたりまで食べてジャムを残した。珍しかった。

「手紙の没収なんて、教師みたいなことするんですね」

 白く濁った生き物の死骸が陳列された棚のガラス戸に額を押し付けて、明石は呟いた。

 明石の感情の揺らぎは微細なものである。波ひとつ立たないつるりとした水面に、毛髪よりも細い針の先を落として広がる波紋のように静かだ。しかし今日のふれ幅は、大きく感じられる。

 きっと俺にしかわからない。そう思ってしまうぐらいには、明石を手懐けた気分になっていた。

「機嫌が悪かったんだ。普段は気にもとめない」

「それを聞いて安心しました」

 背中を伸ばしてこちらを一瞥し、明石は理科室を後にした。

 瓶を手に取り、人差し指と中指でジャムをすくいあげる。舐めると口内に無秩序な甘味が広がり、加工された苺の胡散臭い香科が鼻を通る。残ったものを流し台に掻き出した。水道水と混ざり合い、べちゃべちゃとだらしなく溶けていく。

 鍵を開け、準備室の机に瓶を置いてやる。飛び散った水滴が机上に滲むのを見て、俺は何をしているのだろう、と思った。

 次の授業で生徒に配る実験レポートの用紙が足りない。コピーするには教員室に向かわなくてはならない。昼休みの時間ももうわずかだ。用紙をひっつかんで廊下に出た。

 廊下では、腕を組んだ横田が明石に目を合わせるようにして屈み、何事か語りかけていた。明石は横田から顔をそむけて、首を縦や横に振りながらそっけなく対応している。

 理科室は校舎の隅に位置し、他に多目的学習室と称された空き部屋が連なっているのみで、この階に赴くのは理科室に用がある者ぐらいだ。無遠慮で浅薄な、俺と明石が嫌うこの男が何故ここにいるのだ。

「横田先生。こんなところでどうされたんですか。明石も早くしないと次の授業に遅れるぞ」

 横田は緩慢な動作でこちらに顔を向ける。

「明石が心配なんです。お恥ずかしいことに、うちのクラスは最近少しばかり荒れているようでして。心のケアは不可欠でしょう」

「そうですか」

「それにしても、明石は理科室に何の用だったんだ」

 俺と明石は、何も思うことは無いという表情を装って目を合わせた。

「提出が遅れた課題を届けにきたんです」

「今週中にはチェックして返すよ」

「はい。お願いします」

 虚偽の会話を横田は黙って見つめていた。不気味だった。

 予鈴が鳴り、ペンケースや教科書を抱えた生徒達が理科室にやってきて、俺と明石と横田を不思議そうな目で見やる。子供の察知能力というものは無駄に優れている。その視線を振り払うように早足で教員室に向かった。明石は教室に戻り、横田は俺の後に続く。

「溝呂木先生」

「なんですか」

「溝呂木先生が金曜日に捨てる包みを、ひとつずつ破く仕事も楽じゃないんですよ」

「やめたらいいじゃないですか」

 横田の返事は無かった。俺は足を早めた。気付いた時には横田の足音は消えていた。

 横田は俺が思っている以上にいやな男なのかもしれない。どこまでも横田の目がついて来ている心地だった。

 この日はもう横田と鉢合わせることは無かった。置いておくのが嫌で白衣は持ち帰った。




「明石さんは保健室に行きました」

「そうか」

 出席簿から顔を上げると、明石の席には学生鞄がかけてあるだけだった。蛍光灯の白い光が降り注いでいる。今日も大原と後藤は手紙を書いていた。

 授業を終えて教員室に昼食を取りに行く。隣接する保健室の前で足を止めたが、やめよう、と思った。通りすがった明石のクラスメイトが「ドブ、明石のこと好きなんじゃないの」と笑いながら囁きあっていた。相容れないな、と思う。

 理科室に向かうと、扉の前で明石がしゃがみこんでいた。膝を抱えて丸まり、俺に気付くとこちらを見た。生白い肌の色が、一層色を失っているようだった。

「立てるか」

「大丈夫です」

 明石はふらりと立ち上がり、こめかみのあたりを押さえて俯く。扉を開くと危なっかしい足取りでいつもの席に着き、突っ伏した。

「寒いか」

「大丈夫です」

「ごはんは」

「食べません。気持ち悪いです」

 ミートソーススパゲティのパッケージを開け、じゃあこのにおいも気持ち悪いだろうか、などと頭の悪いことを思った。

 ふと、明石の人差し指の関節が赤くなっているのが目に入った。腫れている気もする。

「似てますね、色が」

 前髪の隙間から目を覗かせて明石が言う。どの赤とどの赤のことだろうか。

「そうだな」

 会話は続かなかった。太くぶよぶよした麺をミートソースに絡ませ、延々と咀嚼する。食事という行為は義務だなと思う。且つ、明石にとってはひどく作業的な義務だと思う。今、明石はそれを放棄している。

「今朝は、ふつうのごはんを食べたんです」

「それで吐いたのか」

 関節を指すと、明石は頷いた。

「なんか、駄目でした」

「無理することもない」

「そうですね」

 外から扉を殴るように叩く音がする。擦りガラスの向こうに、横田のシルエットがぼんやり透けていた。俺と明石は少しだけそちらを見てから、目を合わせた。ほの暗い目が、お互いを反射している。倒錯している。

「お前を見てると、便所で飯を食った学生時代を思い出すんだ」

「同情ですか」

「感情移入だ」

「どっちでもいいです」

「そうか」

 明石と俺の名を呼ぶくぐもった声が聞こえる。その声は次第に荒々しいものになっていった。うるさかった。

「全く、教師という連中が何を考えているのかわからないな」

「溝呂木先生は、どうして教師になったんですか」

 プラスチックのフォークでスパゲティを巻きながら、それらしい答えを考える。明石は欠伸をし、宙を眺めていた。さほど興味は無いらしかった。

「学校という環境で躓いたからには、社会なんてところでまともに生きられる気がしなかった。だから、学校でいいと思った」

「そうですか」

「そうだ」

 騒ぎを聞きつけて野次馬が集まってきたようだ。ざわついている。どいつもこいつも飢えてるんだと思う。頭の悪い生徒達が望んでいるであろうエンターテイメントと、横田の過剰な自意識が起こしている妄想は、生徒と教師のやましい関係に違いない。生憎、この理科室にそんなものは無かった。

「みんな、死んじゃえばいいのに」

「そうだな」

 明石はホルマリン漬けを見ている。上履きはだいぶ汚れていた。多分、外にいる奴らは明石の上履きなんて見ていないのであろう。むなしい、と思う。

「やっぱり、ストロベリージャムが食べたくなりますね」

「仕方無いだろうね」

 教師達の呼びかけに混ざり「ロリコン」だとか「クソビッチ」だとか下品な言葉を叫ぶ生徒の声が扉を抜けてくる。

「いやな人ですね」

「何を今更」

 明石の唇が孤を描く。笑みと呼べるかは曖昧だが、神妙な表情だった。

 明石はホルマリン漬けの前を行ったり来たりし、俺はそれを眺めながら飯を食い、ごちそうさまをした。昼休みが終わるまで、どうやって時間を潰そうか。瓶が無いから、いつもより楽だ。

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