耳から無限に糸が出るからインフルエンサーになってみた
彼女と別れてひと月が経った頃のことだった。
耳かきをしてくれる人間もいなくなり、俺は自分で自分の耳を掃除していた。
「あぁ面倒だ」
1人でおこなう耳掃除ほど厄介なものはない。俺は常々そう考えていた。どこに耳垢があるのかわからないし、左耳を扱う時などは利き腕じゃない手で繊細な作業を要求されることになる。
「別れるんじゃなかったか」
そんなことを呟きながら、俺は別れた女のことを思い出す。パッとしない顔の女だった。しかし俺のことを全力で愛してくれた女だった。
「いや、そんなことはない」
俺は自分に言い聞かせる。
「あの女と結婚するつもりだったか?まさか。俺にはふさわしくない。なら別れて正解だ」
糸が耳から出てきたのはそんな時だった。
最初は「妙に取りにくい耳垢があるぞ」くらいに思っていた。綿棒でこすっても剥がれる気配がなく、仕方なくてピンセットでつまみ出してみた。するとそれは、右耳の奥から途切れることなくつるつると伸びてきた。
「なんだこれ」
一見したところ裁縫に使うような糸だった。しかしその糸は、真っ赤に染まっていた。
「もしかして……血?」
そう思った瞬間、背筋が凍りついた。どうしよう。鮮血の色をした糸が耳から出てくるなんて、どう考えても普通じゃない。
「そういえば!」
耳から出た糸を引っ張ってみると実はそれが視神経だった、なんて話を聞いたことがある。
慌てて俺は病院に向かった。しかし俺を担当した医師は、俺の耳から垂れ下がる糸を見ても首を捻るばかりだった。
「うーん」
医師の話を聞く限り、どうやら視神経ではないらしい。ひとまず俺はホッとする。
とはいえそれ以上のことは分からなかった。分からなかったのだが、診察と称して何度もその医師が俺の糸を引っ張ったせいで、気づけば1メートル近くも糸が耳の外へと出てしまっていた。
「とりあえず……うん」
医者は困ったように眉をひそめ、
「絡まないようにした方が良いでしょう」
とだけ助言してきた。
医師が提示してきた唯一の言葉に従い、俺は糸をトイレットペーパーの芯にぐるぐると巻き付けた。「しばらく様子を見ましょう」と例の医師は言っていたのだが、しかし、どうにも俺は落ち着かない。
「そうだ……」
俺はスマホを取り出すと、今の自分の姿を撮影してSNSに挙げてみた。もしかしたら似た症状の人間がいるかもしれない。
するとその姿が珍しかったらしく、俺の写真はみるみるうちに拡散されていった。
「早く治ることを祈っています。頑張ってください!」
「手触りは普通の糸と同じ?」
「どれくらいの長さまで伸びるんですか?」
同情とも好奇心とも言えぬコメントが大量につき、フォロワーの数が急激に増えた。そしてこの経験は、26年の間に培った俺の人生観を大きく揺さぶるものだった。
「こんな簡単に増えるのか……」
昔から自分は特別な存在だと信じていた。いつか何者かになれるはずと信じていた。自分の才能を探し求め、休みの日にゲーム実況をしてみたり、自作の曲を歌ってみたり、漫画を描いてみたりしていた。しかしどれも鳴かず飛ばずの結果だった。
それが今はどうだ。耳から糸が出た画像を挙げるするだけでこんなにも世間から反応があるのだ。
糸を引っ張ってみる。特に痛みは感じない。
少しだけ強く引っ張ってみた。やはり痛みや抵抗はなく、無限にたぐり寄せられそうなほどにも思えた。
この日を境に俺の生活は一変した。すぐに動画チャンネルを開設し、耳から糸を引っ張る様子を撮影してアップする。雑な編集だったが登録者は瞬く間に増え、糸が伸びるのと比例して動画の再生回数も伸びていった。
撮影を初めて3ヶ月が経つ頃には動画の収益が今の給料を超え、4ヶ月目には会社を辞めていた。やがて有名インフルエンサーと動画のコラボをするようになり、テレビへの出演オファーも舞い込んだ。それに付随して、綺麗な女性と出会う機会が多くなった。近寄ってくるミーハーな女も増えてきた。
1年が過ぎた頃。俺の耳から出る糸の量は10メートルを超えた。トイレットペーパーに巻き付けておくのも格好がつかないので、鞠状にしてまとめることにした。大きさは野球のボール程度になった。
随分と奇妙な姿だが、去年と比べて格段にモテるようになった。まさに「あばたもえくぼ」。有名人というフィルターはこんな外見であっても魅力的に見せてしまうのだ。
試しに何人かの芸能人と付き合ってみたのだがすぐに別れてしまった。気後れしたわけではない。むしろその逆だ。ポッと出のモデルや、少しばかり売れ始めた女優なんかでは俺という男とは釣り合わない。
俺の理想は高いのだ。もっともっと、俺に相応しい女がいるはずなのだ。
耳から糸が出始めて2年が過ぎた。真っ赤な糸の塊はサッカーボール程度になり、常に両手で持ち歩く必要があった。ふとした時にそれを落としてしまうと、その分だけ糸は頭の中から伸びてくる。とはいえ、やはり痛みがあるわけではなく、体調は驚くほどに健康だった。
しかしこの頃から、少しずつであるが世間が俺に飽き始めてきた。
動画の再生回数やフォロワーの伸びが停滞し、「あなたの糸には色気がある!」とまで言ってきた女に連絡してみても返信が来なくなった。
2年と半年が過ぎた頃には、俺の人気はいっそう陰ってきた。仕事の依頼は滅多になくなり、たまに呼ばれたとしても「過去の人」という扱いを受けることが多くなった。
一方で、例の糸はビーチボールほどの大きさになってしまい、なにもするにも邪魔で仕方がなくなった。いっそ切ってしまおうかと考えたが、とはいえ俺が世間に注目されている理由はこれだ。糸を切れば、有名人としての人生が本当に終わってしまう。
気づけば今年で30の年だった。周りには結婚する友人も増え、家族からは糸を切って普通の人生を歩めとまで言われた。
しかし俺は自分の野望を諦めきれない。なにかの拍子に再び注目されるかもしれない。そしたらまた良い女が近寄ってくるはずなのだ。いや、これまでに会っていた程度の女ではダメだ。もっと上のクラスの女と近づかなければ。
はやく結婚はしたい。生涯のパートナーだって欲しい。しかし妥協はしたくなかった。俺の相手は、理想の女でなければならないのだ。
そんなある日のこと。自宅で過去の動画を見返しているとあるコメントが目に入った。
「運命の赤い糸みたいですね」
改めて糸を観察してする。言われてみれば、確かにそうだ。
「運命の赤い糸」
自分でも口に出してみる。その時、ある考えが頭をよぎった。それは妙に説得力のある仮説で「あぁ、なるほど」と俺は思わず笑ってしまう。
今、俺の右手は糸の端っこをつまんでいる。
そして、もう一つの端しっこは俺の頭の中にある。
「俺の理想の女は、俺の頭の中にしかいないってことか……」
しばらく糸の塊を眺める。どれくらいの時間が経ったのだろう。俺はスッと立ち上がり、引き出しからハサミを取り出した。右手でそれを持つと、自分でも驚くほど冷静に耳から伸びる糸をハサミで切った。
プチっと音がする。頭を左右に振ってみたり、体を動かしてみたりするが特に異変は無かった。
俺はスマホを取り出し、連絡先の画面を開く。その中から1人の女性の名前を探した。パッとしない顔だが、何者でもない俺を愛してくれた女のことを。
今さら連絡して何になる。きっと手遅れだ。
そんなことを考えながらも、俺は彼女に電話をかける。
短編集 水谷健吾 @mizutanikengo
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