第2話 住みよいことは良きことかな

「…つまり、長谷川さんは、大腰筋というインナーマッスルの育った美しい体にしか興味を抱かない、…ということで、よろしいので?」

 新太の過去をざっくりと聞き流した真知子がそうまとめると、新太はまぁ、と頷いた。

「ちょっと大まかが過ぎますけど、そんであってますよ。姿勢の綺麗な女性とか、街中で見ててもゾクッときます。宮部さんはどっちかっていうと猫背でしょ、範囲外なんすよ…」

 新太がやれやれとため息をつく。真知子は悲しそうに俯いた。真知子は生来、厳しく育てられた育ちの良い女であった。しかし、きちんと正した姿勢で歩く真知子を、世間は放っておかなかった。何せ街の目を引くナイスボディである。一目で居乳と分かるそれに、軟派な男が目を付け、あとを尾けた。ほとほと困り果てた真知子の姿勢は、知らず知らずのうちに、まるく、なっていったのだ。

 とはいえ、真知子は生来、ポジティブで性根の据わった女でもあった。新太の興味が自分に一切向いていないことを、喜ぼうと思ったのである。

「じゃあ、私がいくら長谷川さんのおっぱい、失礼、大胸筋を揉みしだいても何の文句もないということでよろしいですね?」

「文句はありますけど!」

 新太は慌てて否定するが、同じコアなフェティシズムを持った相手を邪険にすることのできない男である。しかも部位は違えど同じ筋肉好きとあらば、好きなだけ、提供してあげたい。自分の身に置き換えてみれば、完璧な姿勢を持つ女が、あまり見ないでくれというようなものである。そんな生殺しに遭って、死んでしまわぬとも限らない。

「…別に、触られることに不服は、ない、っす」

 そう述べて、新太気に入りのふかふかのソファに体を沈める。その様子を見ていた真知子は、同情するように胸を撫でた。

「そう落ち込まずとも…、筋肉も意識されるとよく付くというじゃありませんか?これからはもう、思う存分、私が揉みに揉んで揉みしだいて、意識を集中させて差し上げますからそう、落ち込まないで…」

 茫然自失としていた新太は、はっと意識を取り戻した。二三、聞き捨てならない言葉があった。

「これからは揉みしだくとは、何ですかね」

 真知子は、きょとんと首を傾げた。

「これから時々お訪ねして、大胸筋を揉ませていただく手筈では?」

「断じて認めません!」

 新太は再び慌てて、生娘のように自分の胸を腕で庇った。目の前では、何か問題でも?と言いたげな真知子が首を傾げている。

「ダメに決まってるでしょう!男の家に上がり込んでおっぱい揉んで、そんな、誤解受けたらどうするんですか!」

「誤解とは?」

「その…宮部さんが、俺に、気があるとかっ!」

 真知子はふうわり、と笑った。まるで聖母のように。

「それはありえません、新太さん。だってご自分で先ほど、私にはこれっぽっちの興味もないとおっしゃいましたよね?」

「う、」

 確かに、言った。それは紛うことなき事実であり、新太は真知子の姿勢が悪い間、一切の間違いを起こさない自信があった。新太はどもりながら否定を続ける。

「あ、あとっ、意識が集中して無駄な筋肉がついたらどうしてくれるんですか!」

 その言葉に真知子はふむ、と考え込んだ。真知子としても今の新太の肉体美が崩れるのはよろしくない。

「それでは、機会を決めましょう。筋トレ前は触りませんし、触るとしても直接的なタッチは一回に一分までとします。文句ないでしょう?」

 むむむ、と新太は唸った。この筋肉娘、なかなか絶妙なラインを突いてくる。だが、新太には切り札があった。

「…触らせることによる、俺への利益は何です?」

「え?」

 新太はニタリと笑った。営業部のやり手と称される新太は、交渉においても一流、いや、少なくとも二流以上であった。

「もちろん何かありますよね?おっぱい、触らせてるんですから。あなたは俺でフェチを満たせる、でも俺はあなたではフェチが満ちない!これでは不等価交換だ!こんな取引には応じられませんよ!」

 新太の言葉に真知子は目を丸くすると、再び、ふむ、と考え込んだ。そして、唐突にこんなことを言い出したのである。

「このおうち、なかなか広いですけれど、少々ジムからの距離が離れているようですね?」

「え?」

 新太は瞠目したが、ええまぁ、と頷いた。

「しかも先ほど頂いた名刺に書いてあるところ…職場はまた別の方向のようです。ここと、ジムと、職場を結ぶと、ちょうど大きな三角形ができるような位置取りですね」

「…そこまで分かるんですか、」

 新太は身を乗り出した。真知子は心から労わるような視線を向けて、頷く。

「筋肉愛好家として、また、己の筋肉を美しく保たんとする真のビルダーとして、ジムとの距離を感じたくはないもの。でもでも、だからといって職場を変えるわけにはいきませんよね?」

 新太の目頭は熱くなった。そうなのである。今の自宅は広く、使い勝手がよく、気に入っているが、それでもジムと職場との距離は大きく開いており、勝手は悪い。その勝手の悪さが、自分の体幹に十分な刺激という名の褒美を与えられていないのではないかと、新太は一人枕を濡らしていたのだ。真知子はそっと新太の腕に手を置いた。

「あなたの職場のお近くに、最高の設備を整えたジムがありますね?三階建てで、フィットネスも併設したエンペラープラチナジムが!なぜあの設備をお使いにならないのです?あそこのトレーナーは多くのアスリートを育て上げた手練れ、あなたのその体幹重視のマッスルボディもさらに高められるというのに…!」

 新太はクッ、と唇を噛んだ。

 エンペラープラチナジム。多くの筋肉愛好家たちを虜にしてやまない最強のジムである。真知子の言う通りトレーナーも、ボディビルに適した方からアスリートを相手にしていた方までさまざまで、確かに、今の自分の体を更に磨き上げられることは間違いない。…しかし、である。

「あそこは…会費が…ッ!」

 エンペラープラチナジムへ通うとなると、今のジムの三倍は会費がかかってしまう。新太の趣味の二つ目である料理にも金はそこそこかかるし、この広い家も失いたくないと、ジムの贅沢は諦めてきたのだ。

 その新太の頬に、真知子が手を当てる。

「どうでしょう、長谷川さん。私にそのお手伝いをさせてくれませんか…?」

「え…っ?」

 ひし、とその手を掴むと、真知子はその手を、さらに強く握る。

「あなたの職場に近いマンション、広さはここより少し広い3LDK。食費光熱費は全て面倒を見ます、…私にあなたの生活のお側にいさせてください…!」

 新太は信じられない、と首を振った。

「そんな、いけませんよ宮部さん…俺にそんな資格…」

「何を言うんですか!私はあなたの大胸筋に魅せられたのです!ファンです!さらに言えばあなたの料理のファンです!家に帰ったらこのクオリティの料理があるっていうなら多少の出費なんて辞しません!貯金はいっぱいあります!」

 真知子の熱弁に、新太は涙を零した。

 嗚呼、未だ嘗て俺の筋肉をここまで気に掛けてくれた人がいただろうか。

 新太の手は真知子の手を固く握って離さなかった。


 新太は営業部のやり手である。

 しかし真知子は大手下着ブランド社員であり、営業も乗り越えた身であった。


 引っ越しを済ませた新太が、そこに真知子も住んでいることを知って発狂するのは、それを見て真知子が「ルームシェアですよう」と笑うのは、何もかもを新太が諦めてエンペラープラチナジムに通い始めるのは、数週間後であった。

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