きつね少女の魔女の夏

とくぞう

第1話こっくりさんの夏



 フッ! ウォ! ホォーイ!


 叫びながら、騒がしいものたちが夜の空を駆けている。熱狂し、怒りと喜びに溢れ、憎悪と愛情に無数の目を火のように燃やしながら。


 フッ! ウォ! ホォーイ!

  フッ! ウォ! ホォーイ!


 四足のものたちが、嵐の空を駆けてゆく。無数の脚の、割れた蹄を持った脚、硬く引き締まった黒い足裏、茶色い毛で覆われて跳ねるものの足の立てる足音が、雨だれが木々を打つように大気を叩く。針のような毛並みが、斑をもった滑らかな毛皮が、赤茶けて深く豊かな鬣が、混ざり合い一つとなり、うねる激流となったかのように天を行く。混ざり合い半ば一つとなり、それぞれを見分けることも困難であるようなものどもの群れ。その瞳が、闇に光る。金の、銀の、緑の目が、火を灯したかのように光る。興奮に泡を噛んだ牙が、振りかざされた枝角が、敏感な耳が、尾が、半ば透き通り、半ばこの世のものではない熱狂に駆られて、魔群となって空を行く。


 フッ! ウォ! ホォーイ!

 フッ! ウォ! ホォーイ!


 千匹目はどこだ!

 千匹目はどこだ!


(気付かないで、お願いだから気付かないで。あたしはここにいない。あたしなんてどこにもいない!)

 窓を閉めて硬く鍵を掛け、カーテンをぴったりと閉めても、嵐の中で荒々しく走り回り、歓喜と共に鳴き騒ぐものたちの声は消えない。暴風は雨と共に荒れ狂い、木々の枝は鞭のようにしなる。吹き飛ばされた木の葉が窓に張り付く。あの魔群が嵐に乗ってやってきたのか、それとも、魔群が嵐を引き起こしているのか、彼女にはどちらとも区別が付けられなかった。


 フッ! ウォ! ホォーイ!


 耳を両手で塞ぎ、布団の中で小さく硬く丸まって、今にも悲鳴をあげそうな唇を硬く食いしばる。

 見つからないはずだ、だって今日は髪だって三回も洗ったし、肌だって全身が赤剥けてひりひりとして感じられるぐらい強く洗った。シーツにも寝巻きにも使われている柔軟剤の匂いは甘ったるく、嗅いでいるうちに気分が悪くなる。それでもこの胸焼けのするような人工的な匂いが、すこしでもあいつらの鼻を誤魔化してくれるかもしれないと思えば耐えられる。

 ―――けれど、それでも。

 

 フッ! ウォ! ホォーイ!

 フッ! ウォ! ホォーイ! 


 千匹目はどこだ!

 赤毛の狐はどこにいる!!


(……!!)


 お願いだから気付かないで。あっちにいって。あたしは関係ない!

 少女は、弥子は、恐怖に逆立つ毛並みを無理やりに押さえ込み、耳の上から飛び出した二つの耳をぎゅっと押さえると、さらに体を小さくする。

 嵐の夜。暴風と共に空を飛ぶ魔群どもから身を隠そうと、小さく硬く蹲って、笹野辺弥子は、鉄筋コンクリートのビルの一室で、ひとりぼっちだった。







 夏。


 もうじき八月と行っても、標高1000m近い高原までやってくれば、うだるような暑さも一気に遠くなる。初めは駅の周りに立ち並んだホテルや見晴らしのいい立地に立てられたホテル、避暑のために訪れた人々の姿が目立ったけれど、バスに乗り続けているうちに次第に人気も少なくなっていく。周囲に広がるものが観光地然とした風景から畑や果樹園の木々に変わり、路上販売所で売っている果物や野菜、小さなロッジなどが見えるあたりを通り過ぎると、もう辺りにはほとんど人の気配も見えなくなる。

 白樺が群生し、枝葉のトンネルのようになったあたりを通り過ぎると、視界が一気に広がる。

 牧場だ。

 ―――遠く開けた草原に点々と見えるのは牛の背中だろうか、その向こうに青く空の端を縁取るように山脈が広がり、夏の雲はさらにその向こうから立ち上がっていた。大理石を彫ったように白く堅牢な雲が、黒いほど青い空へと向かって聳え立っている。手を伸ばせば触れることが出来そうなほどにくっきりとした実在性。こちらへと迫ってきそうな入道雲に、圧倒される。

「お嬢ちゃん、このあたりは始めて? カッコいいかばんねえ。どこから来たの?」

「えっ…… あ、はい。神奈川のほうから……」

 唐突に話しかけられて、我に帰る。田舎だと当たり前のことなんだろうか。深く被ったパーカーの下から警戒心をこめて見つめても、相手はまるでひるむ気配もない。手ぬぐいを頭に被った小柄な老婆だった。顔が笑顔と皺に完全に埋もれてしまって、どこが目だか口だかよくわからない。

(キュウリの漬物みたい……)

「おっきな荷物ねえ、この先はもう何にもないけど、どこ行くの。山登り?」

「え、いえ、ちょっと親戚の家に…… しばらく泊まるって……」

「そうなのぉ。だったらちょっとまってねえ」

 そう答えて足元の荷物をごそごそしはじめた老婆は、面食らっている彼女にむかって、「はい」と何かを手渡した。黄色くて丸い、マンゴーぐらいの大きさの、……なんだろう?

「それね、マクワウリっていうの。都会の人はあんまり食べないでしょ。おばあちゃんの畑から今朝とれたばっかりなのよう、親戚の人と一緒に食べてね」

 ぷしゅう、と音を立ててバスが停車する。「よっこいしょ」と立ち上がった老婆は、唖然としている少女を残してバスから降りる。

「気をつけてねえ」

 そう笑ってバス停で手を振る、そんな老婆と呆然としたままの少女の距離を引き離すように、再びバスが走り出す。少女は再びシートに沈み込む。

(謎だ)

 なんでバスに乗ってるだけで、知らない人から野菜を貰わないといけないんだろう。意味が分からない。

 

 バスを降りたところで待っていた親戚は、弥子の口からその話を聞いた瞬間、腹をかかえて笑い出した。

「笑わないでください……」

「やー、ごめんね、そりゃ驚いただろうと思ってさ。うん、このあたりだとよくあることだよ、お疲れ様」

 そうひとしきり笑ってようやく息を整えると、彼女は、灰が落ちそうになっていた煙草を携帯灰皿に押し付ける。ずいぶん背が高い人だ、と弥子は思った。すらりとしているというよりも、なんだかひょろながく見える。手足が長いせいだろうか。長い黒髪は首の後ろで一つに括られ、小鼻の周りにはそばかすが散っていた。色が極端に白い。というよりも、日本人の肌色ではない。それを除けばちゃんと日本人の顔立ちをしている。切れ長な奥二重と通った鼻筋、大きくて唇の薄い口。

 なのに、目の色が違う。

 グリーンといえば良いのか、それともグレー、ブラウンと言えばいいのか。どう表現したらよいのかよくわからない色の右目と、ヘーゼルナッツ色をした左目。金銀妖眼(ヘテロクロミア)だ、と少女は思う。カラーコンタクトを片方だけ入れているんだろうか。さっぱりとした白いシャツに銀のペンダント、使い古した風のデニムという組み合わせとは見合わない奇抜なセンスだけれど。

 少女が何を見ているのかに気付いたらしい女は、にやりと笑った。大きな口のせいで、絵本に出てくるチェシャ猫が笑ったように見える。

「この眼気になる? 一応天然モノだよ、めずらしいだろ。ま、事情は後で説明するから、荷物を後ろに乗せて」

「あ、はい」

 バス停まで迎えに来ていたのは四輪駆動の大きな車だった。埃だらけだ。キャリーバック一個分の荷物を後ろに詰め込むと、指で助手席に来るように示される。きちんとリュックを膝に乗せて隣に座るとシートベルトを締めた。バックミラー越しに少女の顔を見ていた女が、その視線に気付いてまたニッと笑う。

「私は日下部アイノ。あんたは?」

「あっ…… 笹野辺弥子、です。ご挨拶が遅れてごめんなさい。これからお世話になるので、よろしくおねがいします、日下部さん」

 できるだけ深くお辞儀をしようとすると、パーカーが脱げそうになるから慌てて抑える。「アイノでいいよ」と答えながら、アイノは色違いの眼をスッと細める。

 エンジンが入れられる。車がぶるるんと唸って大きく身震いをする。

「笹野辺さん…… ううん、ヤコちゃんか。うちの流儀はちょっと変わってるから驚くこともおおいとは思うけど、これからよろしくね」

「―――はい」

 変わってるってなんだろう、とヤコは思う。でも他に行くところなんてないんだから、どう変わっていたって我慢するしかない。また俯いてしまう横顔をアイノがじっと見つめていたのに、ヤコは最後まで気付かなかった。



 駅からバスで一時間半、さらにそこから車で30分。

「ついたよ」と言われてドアを開けられたとき、ヤコは、目の前に見えているものが一瞬、現実だとは信じられなかった。

 まるで、バスを降りてからの30分で、一気に二百年も時を遡ってしまったかのよう――― 森の中、道なき道を通り過ぎるうちに、見知らぬ世界へと迷い込んでしまったようにも思えた。車から降りたアイノが後部座席から荷物を引っ張り出している。ヤコは糸で引かれる様に、半ば上の空で助手席を降りた。

 ずいぶん前に通り過ぎた二本の石柱は、おそらく昔は門柱の役目を果たしていたのだろうと今なら分かる。正面に見えるポーチの向こうには灰色の石材を使った重厚な建屋が続いている。左右から両腕を広げるように立てられた家屋にはそれぞれ出窓が見え、その上には切破風のついた屋根が高くそびえていた。木と硝子製の二重ドアがポーチに設けられているのは、おそらく冬季の寒さを避けるためだろう。その後ろには母屋の屋根が高く伸び、その天辺では風見鶏が風を受けて気まぐれにゆれていた。

 足元にはチョコレート色と灰色、二色の石をモザイクのように使った石畳。高さ4mはゆうにあるだろう縦長の窓、漆喰に施された精緻な細工。その上からさらに覆いかぶさるようにして、リンデンの木が梢を揺らしている。アイノはにやにや笑いを浮かべたまま、ライターに火をつけた。

「外国みたいだろ。もう三百…… 四百年ぐらい前? に作られた建物らしいよ。スコットランドの物好きが、別荘にするって言って日本に持ち込んだらしい」

 大股であるいてゆき、ドアを開く。アーチ状に作られたドアの前面にも、上部にもはめ込まれているのはアザミの花をかたどったステンドグラス。両開きの扉を開けた瞬間に鼻をくすぐったのは、どこか甘く、埃っぽく、すっと鼻の奥を通り抜けるような――― そう、幾種類ものハーブ、スパイス、香料の匂いが交じり合った香り。

「うわぁ……」

 ホールのはるか高みから、赤い硝子を使ったシャンデリアが下がっている。正面には二階へと続く大きな階段、その中央に置かれた大時計の中では、二つの錘が規則正しく時を刻んでいる。床には三種類の木材が複雑なモザイク模様を描き、薄暗いホールのはるか高みに向かって壁紙に描かれた夏草の花々が絡み合うようにして伸びてゆく。

 壁に架けられた油絵の周りを縁取る額縁の暗い金色、マントルピースの上に置かれたシノズワリ風の猫の置物。何処を見ても飽きなくて、周りを必死で見回して居るうちに、気付けばくるくるとその場で回っていたらしい。アイノがくすくす笑い混じりの声で、「こっちにおいでー」と呼ぶ声がする。

 聞こえてきたのは、大階段の横手に隠れたドアのほうから。

 はい、と返事をして小走りにそちらにかけてゆく。ちょこんと頭を出して外の様子をうかがおうとした瞬間、真正面から吹いた風が、ヤコの被っていたフードを吹き飛ばしそうになる。

 目の前には、夏の高原。

 きつい傾斜となって降りてゆく斜面を、そのまま階段状に設えて庭園に作り変えている。はるか眼下には黒く茂った針葉樹の木立が見え、それよりもなお圧倒的なのは眼前一杯に広がった高原の景色だ。邪魔をするものが何もないから、巨大な王冠のように、あるいは、青い水晶の結晶で周囲を取り巻いたかのような山嶺が、何がさえぎることもなく見渡すことが出来る。

 タイル張りの床に、藤で編んだ古風な調度品。夏という季節にすべての窓を全開にしたその場所の正体はおそらくは温室(ウインターガーデン)だろう。様々な植物を植え込んだポット鉢を並べた隣にちいさく水槽が床に切られ、睡蓮が丸い葉を浮かべていた。

「いい景色だろ、今の季節はここで一服するのが最高なんだ。ヤコちゃんは煙草は?」

「えっと…… その、あんまり……」

「分かった。それじゃヤコちゃんがいるとこじゃ吸わないことにしよう。どうせ部屋はいっぱいあるしね。ところで」

 手を伸ばしたアイノが、ヤコの頭を軽くつついた。

「可愛い耳じゃない。それ、どうしたの?」

「ッ!!!!」

 忘れていた。

 油断していた。

 まさか、アイノが『見える人』だったなんて!

 ―――ヤコは昔から、赤茶けた色をした髪と、色の薄い目をしていた。角度によっては金色に見えることもある。ヤコちゃんの目は猫みたいに光る、といわれたこともある目だ。

 それが、ある日気がついたら、その髪の間から同じ色の毛に覆われた三角形の耳が二つ、生えていた。そうして尻からはふさふさとした毛並みの、先端の毛が白い長い尻尾が生えていた。どちらも、鏡で見ればまるで狐だった。

 ヤコは、狐になってしまったのだ。

「ちょっとまった! 逃げないで。大丈夫、隠すこたないよ。見せてごらん」

「やだ! やだ!!」

「怒ったりしないよ、ただ珍しいだけなんだから。んーとねえ…… フェネアン! フェーネーアン!!」

 暴れるヤコをほとんど片腕で抱えるようにして、アイノは屋敷の中に引き返す。大声で何度か呼んでいるうちに、大階段のドアの裏からひょいと顔を出す猫がいる。胸の辺りの毛が白い、大きくて逞しい黒猫だ。それが大あくびをしながら顔を出したかと思うと、ヤコのほうを見て、目を瞬く。

 次の瞬間、耳を疑ったのはヤコのほうだった。

「ご主人、どうしたんですか、そいつ。襟巻きの準備にゃまだちと早すぎやしませんか」

「可愛いお客さんを襟巻き扱いするんじゃないよこの怠け者(フェネアン)」

 呆然とした。

 目を見開いて見つめていると、黒猫のフェネアンはさも退屈そうに欠伸をする。くるくると前足で耳の後ろをこすり、如何にも不精たらしい風に答えた。

「なんですか、あたしが口を利くのがそんなに珍しいですか。自分だって二本足で歩くキツネなんてゲテモノの癖に」

「しゃ、しゃ、しゃべ……」

 もはや声もなく、口をぱくぱくさせることしかできないヤコに、アイノはとうとう頭を抑えた。

「あんたねえ、もうちょっとお客さんに気を使うとか遠慮するとか、まともな口を利く気はないのかい」

「ないですよゥ、人の事『怠け者』なんてろくでもない名前を付けるようなご主人にどうしてそんなサービスしてやんなきゃなんないんですか」

 アイノが手を離すと、ヤコはそのまま足に力が入らず、ぺたんと床に座り込むことしかできない。こちらまで歩いてきた黒猫はさも珍しそうにヤコの顔を覗き込み、胸に前脚二本をあてて背伸びをするとぺろっと鼻のあたりを舐めた。首に皮ひもを編んだ細い首輪が結び付けられ、銀貨の飾りがつけてあるのが見える。

「なんだかねェ、血の巡りの悪そうなガキだが、こんなんできちんと食っていけるんだか。なりはでかいがまだ小狐じゃねえですか」

「生まれつきは人間なんだよ、勘弁してやんな」

「おや、人間。……ははぁお嬢ちゃん、さては取替えっ子がバレて、親に棄てられたね?」

 すてられてないもん。

 そう怒鳴ろうとした声が喉に詰まった。代わりに目の奥が熱くなる。じゃりじゃりと痛くなる、喉の奥にも砂利がつまる。ひっく、と息を吸った瞬間、目の前の景色がぐるりと水の中のように揺らいだ。

「ちょっ、おい!? 泣くこたねえだろ、泣くこたあ!! おいご主人、どうするんですかこの小狐、ご主人!」

「お前が泣かせたんだろ、フェネアン。きちんと慰めな」

 懐からジッポーと煙草を出しかけて、すこし迷って、元通りにポケットに押し込む。ひっく、ひっく、としゃくりあげて泣くヤコの周りを、フェネアンがおろおろした様子で尻尾を揺らしながら歩き回っている。アイノはため息をひとつつくと、ヤコの目の前にかがみこんだ。ぺたんと寝てしまっている二つの耳の間を撫でて、くしゃくしゃになったハンカチを差し出す。

「ほらほらヤコちゃん、手で擦りなさんな。眼が赤くなっちまうよ。それにほらほら、可愛い耳だし、立派な尻尾じゃないか。隠すこたぜんぜんないじゃないか」

「……っ、アイノさんって、……なん、なんですか……っ」

 驚かなかった。

 化け物って言わなかった。

 ヤコがキツネだと知っても、態度をまったく変えなかった。それどころか喋る猫と普通に話をして、可愛い耳だと、尻尾だと言って、撫でてくれた。

「あたしはね、魔女なの」

 アイノはそう言って、左右で色違いの眼で、不器用にウインクをした。

「一人住まいの魔女の"琥珀(オンブル)の"アイノだよ」



 

 ヤコが"狐"になってしまったのがいつだったのか、今では正確に思い出せない。

「みんなが気付くわけじゃないんです…… だから最初、これ、私にしか見えないんだって、ただの幻覚なんだって考えようと思ってて」

 だって、お父さんもお母さんも、気付かなかった。

 けれど街中を歩いていたり、塾で勉強をしていると、驚いたようにこっちを見る人がたまにいる。その眼にはありありと、『化け物』とヤコを恐れる色が映っている。どんな小型犬でもヤコを見るたびにけたたましく吼えるから、次第に犬が恐くなった。ヤコは次第に尻尾の隠れる膝下のスカートを履き、パーカーのフードを深く被ってすごすことを憶えた。なんでそんなだらしない格好をしているの、と母親には怒られた。それでもヤコは、本当はキツネなんだとバレてしまうことが恐かった。

「でも学校で、篠村さん……って人がいて。篠村さん、霊感があるって有名で。その篠村さんが、私の正体はキツネなんだってみんなに言い出して」

 森の館のキッチンは広く、水周りだけは流石に、新しいものに取り替えてある。

 ぴかぴかに磨いた銅鍋や鋳鉄のフライパンがフックにかけられてコンロの周りに並び、大きなマントルピースにも、どうやら普段から使用しているらしい気配がある。キッチンに置かれているのはどっしりとした一枚板で作られたテーブル、それに、デザインもばらばらの椅子が四つばかり。足元に敷き詰められたタイルの素朴な花模様が可愛らしいけれど、他には大して飾り気もない空間だ。普段はここを食事用に使っている、とアイノは言っていた。

 無造作に庭におりて摘んできたハーブをポットに入れ、熱い湯を注いだだけのハーブティは、とても良い香りがする。

 おそらく彼専用なのだろうクッション付きの椅子の上で丸くなったフェネアンは眼を閉じているが、耳はきちんとこちらを向いている。小さなナイフでマクワウリを切り分けながら、アイノも黙ってヤコの話に耳を傾けてくれていた。

「み…… みんな、私がキツネだなんてわかってないはずなのに、キツネ憑き、キツネ憑き、って毎日言われました。でも、最初は平気だったんです。空気読んであわせてれば、みんな本気でそんなこと思ってないって分かってたし。でも……」

「何かあったの?」

 アイノが、空になったカップに、ハーブティを注いでくれる。ヤコはこくんと頷いた。

「その頃、学校で『こっくりさん』が流行ってたんです」

 ノートにひらがなで50音を書いて、『はい』『いいえ』の文字を書き、最後に鳥居の中に五芒星を書いて、そこに10円玉を置く。

 みんなで10円玉に指を置いて、呪文を唱えてこっくりさんを呼ぶ。こっくりさん、こっくりさん、来てください。……たわいもない、遊びだった。

「でも、あんたキツネなんだから本当にこっくりさんが呼べるでしょって言われて、放課後に呼び出されて。すごくイヤだったんだけど、その人たちと一緒にこっくりさんをやったら…… な、なんだか様子が、おかしく、なって」

 最初はたわいのない質問だったはずだった。隣のクラスの誰が誰のことを好きですか、だとか、誰と誰は本当に友達ですか、だとか。

 それが途中で、『ササノベヤコはほんとうにキツネですか』と誰かが笑い混じりに質問をしてから、おかしくなった。

「『はい』のところから十円玉が動かなくなって、笹野辺キツネアピールはげしすぎ、って笑った子がいたら『コックリサンヲウタガウノカ』とか『シンジナイナラショウコヲミセル』とかこっくりさんが言い出して。それで指が十円玉から剥がれないって泣き出した子もいて…… だんだん恐くなってきて……」

 アイノは椅子の背に行儀悪くもたれかかったまま、軽く首をかしげる。

「それ、ヤコちゃんはもう『手を離してた』ってことだよね?」

「はい。すごく恐かったから、その…… でも手が取れない取れないって泣いてる子はいるし、こっくりさんに謝ってよぉって怒鳴ってる子はいるし、すごく、恐くて」

 くわり、とフェネアンがあくびをする。

「それみたことか、莫迦なガキどもだよ」

 横目でちらりをソレを見て、ため息をつく。まだ目の奥がつんと痛くなる。ヤコは膝の上できつくスカートを握り締めた。

「そしたら、それ見て篠村さん呼んで来た人がいたみたいで、篠村さんが来たんです。そしたら篠村さんが私を見て、こう言ったんです」


 あんたがこっくりさんを連れて来たんだ。

 あんたが連れて帰って、二度と人間に近づかないで!


「それで私…… 連れて帰りました」

 フェネアンが片目だけぱちりと開ける。

「マジか」

「うん。篠村さんがみんなでこっくりさんに謝ろうって言うから、謝って、『こっくりさんはササノベヤコに憑いて行きます』って言って私に十円玉持たせて、それから、北東の方角から学校を出て行って二度と来るなって」

 あと十円玉は、ここにあります。

 ヤコが首にさげていた小さなお守り袋を出すと、アイノは「あ――――」と低い声で呻いた。長い髪を両手でバリバリと引っ掻き回す。フェネアンは知らん顔で、前脚を舐めては毛づくろいをしていた。

「それから後は聞いてるよ。学校に行きづらくなっちゃったんだよね」

「……はい。学校に行くと、みんなが、呪いが映るっていうから」

 本当はそれだけでもない。ヤコを見ると犬が吼えると知った同級生に飼い犬をけしかけられて、スカートを噛み千切られてとても怖い思いをした。大型犬は後ろ足で立ち上がれば、小柄なヤコの肩に前脚が届いてしまうほど大きなものも居る…… それでも一度も怪我をしないで済んだのは幸運だった、と思うけれど。

「アンタも災難だったなァ。それで…… おいご主人、何やってんだ!?」

「何って、確認してるんだよ」

 シャアッ、とフェネアンが背中の毛を逆立てる。ヤコもアイノの方を見てさすがに度肝を抜かれた。無造作に縫い目を千切ってお守り袋から取り出した十円玉を、アイノは眼を細めて検分する。ボトルグリーンの色をした右目の前に十円玉をかざし、そして、ため息と共にぱちりとテーブルに降ろした。

「予想通りだね、こいつはただの『銅のコイン』だ」

「へ? その、ええっと」

「だから、ただの十円玉だって言ってるの。何も憑いてないし、何の呪いもかかっちゃいない。―――あーごめん、一言訂正。呪いはかかってるかもしれない。でもそれに『キツネ』は一切関係ない」

 そもそも、とアイノは言った。

「『こっくりさん』っていうのはね、狐とは何の関係もないんだよ」

「……え」

「『こっくりさん』は『テーブル・ターニング』と呼ばれる占いの一種だよ。主に西洋に由来するものだ。具体的な起源は分からないけれど、大流行を見たのは19世紀になってから。英国を起源に死者と何らかのコミュニケーションを試みようとする『降霊術』が行われるようになってから、そのための手段の一種として行われるようになった。ええと……」

 ちょっとまっておいで、とアイノが言う。思わずフェネアンとヤコが顔を見合わせているうちに、アイノは部屋を飛び出していった。どうしたらいいのかと顔を見合わせてもどうしようもない。仕方なく向いたままおきっぱなしのマクワウリを食べていると、階段を駆け上る足音が聞こえて……駆け下りてくるとすぐに、キッチンのドアが開かれる。「これだ!」と嬉しそうにテーブルの上に置かれたのは、いかにもアンティークな道具の一そろい。

 アルファベットが印刷された木の板、丸い穴があけられたハート型の板。

「これをこう、アルファベット板の上において、みんなでこちらに手を置いて…… 滑らせて動かす。ヴィジャ盤というやつだね。これが日本に持ち込まれたのは19世紀末、開国間もない頃の横浜だといわれている」

「大昔からある占いじゃないんですか!?」

「ぜーんぜん。むしろ占いとしては非常に来歴が浅いね、新しいといってもいい。この占いが日本でもその後大流行したが、当時の日本にはテーブルがなかったから、お櫃を三本の竹でささえてその上でテーブル・ターニングを行った。その際に台が『こっくり、こっくり』とゆれる様から、この占いは『こっくりさん』と呼ばれるようになった」

 ヤコは、呆然とした。ほとんど虚脱したといってもいい。

 じゃあ、あの時起こったことって?

「『こっくり』に字をあてて、『狐狗狸』と書く。おそらくは鳥居のマークを書く影響からだろうけど、いつの間にかこっくりさんは、狐、狗、狸といった動物霊と関連付けて考えられるようになった。どれも人を化かしたり、祟ったり、時には福をなすとされた動物ばかりだ。で、人間と言う存在はね、『信じる力』によって非常に大きな影響を受ける。それがきちんとした筋道を与えられておらず、野放しにされたままの『信じる力』は、時に恐ろしい反動となって帰ってくることもある」

「魔法じゃなくて、科学の領域? アンタ、それでも魔女かよ、ご主人」

「何を失礼な。たとえあたしにとっては信仰の対象じゃなかったとしてもね、人類の叡智に対して尊敬の念を抱かずして、魔女なんて名乗れるもんか」

 こっくりさんは、狐ではない。

 あの時起こったことは、ヤコが狐であるせいじゃない。

「君が狐であるということと、君が言っている事件は無関係だよ。このコインが引き起こした現象は、何の魔法とも呪いとも関係のない、ただの『集団ヒステリー』だ」

 つらい思いをしたね、とアイノがヤコの頭を撫でる。ヤコは何度も頷いた。大粒の涙がぽたぽたとこぼれる。「眼が溶けちゃいそうだねえ」とアイノが苦笑する。

「ちょうどいいや、このコインはどうせだから、このまま始末してしまおう。ところでヤコちゃん」

 アイノは、ヤコのほうを見て、にんまりと笑う。あのチェシャ猫みたいな笑い。

「さっきからハーブティを充分飲んでたよね?」




 ざく、ざく、ざく、と地面を掘り返すと、そのたびに芳ばしい土の匂いが帰ってくる。摘み取った花柄や抜いた苗、他にも落ち葉や野菜のきれっぱしなんかを埋めるための深い穴。その穴をざくざくとアイノが掘っている横で、フェネアンは延々と愚痴り続けていた。

「まったく、ご主人と来たら。人の話をなーんにも聞きゃしない。もうすぐルーナサーのお祝いの時期だってのに、狐娘なんぞを拾ってきちゃあ夢中になって……」

「フェネアン、何か言ったぁ?」

「言ってませんよ、ええ、言ってませんともさ!!」

 地面も2mを越して掘り返せば、夏の暑さも流石に消えて、ひんやりと冷たくなってくる。これくらいの深さかとアイノがふうと息をついてスコップを地面に立てると、「あの」と控えめな声が聞こえた。

「アイノさん。その、これ……で、いいですか……?」

「んーちょっとまって、すぐ上がる」

 近くの木に結わえ付けてある縄梯子が、穴の底まで垂らされている。アイノは長い手足を使ってすいすいと梯子を上る。なにやら恥ずかしそうな顔をしたヤコの手元で袋に入っているのは大きなガラス瓶。中に入って居るものは錆びた釘、割れた硝子、剃刀の刃、折れた針。それに、さっきの十円玉。その上からひたひたに注いできつく蓋を閉じてあるのは……

「うん、これでオッケーだよヤコちゃん」

「ご主人の脳みそにはデリカシーって言葉はないからな、お嬢ちゃん」

「五月蝿いな、これでも伝統的な方法ですよ。呪い返しの『魔女の瓶詰め』だ」

 スコップを器用に背負って縄梯子を上ってきたアイノは、もう斜めになり、金色に染まりながら差し掛かりつつある日光に眼を細める。木々の梢は夕日を受けて金色のふちどりをされたようにきらめき、夕暮れを知ったひぐらしの物悲しげな鳴き声が聞こえ、山嶺をふちどるように夕日が黄金の線となってきらめく―――

「ヤコちゃん。君は狐だ。世の中の誰もかもが認めてくれるとは限らないけれど、君にとってそれは単純な真実に他ならない。だから私も魔女として、率直に話をしようと思う。いいね?」

 アイノの言葉に、ヤコは、あいまいに頷いた。まだアイノの事を全て信頼できたわけじゃない。この世の中に『魔女』なんてものが実在していると、そう簡単に信じられるわけじゃない。……たとえヤコ自身が、自分が人ではない何者ではないかと疑っていたとしてもだ。

 アイノはにっこりと笑うと、話を続ける。

「だから、これは最初のレッスンになるかな。私たち魔女は、『三倍の応報』を常に信じている」

「三倍の応報?」

「そう。私たちは魂の不滅を信じているけれど、『来世の報い』という考え方はもっていない。良いことであれ悪いことであれ、因果はその障害のうちに完結するものだ。良いことをすれば、それは三倍のお返しとなって戻ってくる。逆に悪事を行えば、それは三倍の報いとなって己に跳ね返ってくる」

 で、といってアイノはヤコの手から『魔女の瓶詰め』をとりあげた。

「この『魔女の瓶詰め』は、他人から向けられた呪いから己を防御するための伝統的な手段なわけ。錆びた釘、割れた硝子、剃刀の刃、触れた手を傷つけるようなあらゆるものと、魔女の尿、場合に寄っては経血を加えた瓶。これは魔女に対して送られた呪詛を本人に代わって受け止め、代わりに、そのままに決められた応報を相手に向かって送り返す」

「『三倍の呪い』って奴をなァ」

 猫がにやにやと笑うのを見たのは初めてだ、とヤコはぼんやりと思った。それじゃあと瓶を受け取って穴の底へと引き返そうとするアイノに、思わず「待ってください」と声を掛ける。

「その…… その瓶っていうのは、どんな呪いでも跳ね返すんですか? 無意識のものでも? ……クラスのみんなが、酷い目にあうんですか?」

 アイノは色違いの眼を瞬いて、ヤコをじっと見つめた。

 黄色味がかかって色の薄い眼、光の角度に寄っては金色に光っているようにも見える目。アイノはヤコの眼をじっと見つめたまま、静かに答えた。

「大丈夫、この『お守り』で返すことができるのは、『呪い』だけ」

 ほっと、ヤコは安堵の息をつく。けれどもすぐに、「けれどね」とアイノが言葉を続けた。

「『三倍の応報』は常に、誰に対しても働くと私たちは考えてるの。それを誰か他人が請け負ってあげることは決して出来ない。本人の行いの報復は、本人にしか受けることができない。それが私たちの信じる『世界の法則』なんだよ」

 ヤコは立ち尽くした。穴を元通りに埋めなおす、ざくざくと言う音が聞こえてくる。アイノは元通りに穴を埋めて、地面を平らにして、それから――― おそらく、『三倍の応報』は彼女の言うとおり、愚かしくも呪いを行ったものたちのもとに『返る』のだろう。世界の法則がそう作られているように。

(私に向かって石を投げた報いは、誰のところへ、どんな風に返るの?)

 なぁお、と甘えた声がして、黒猫が細い足に体をこすり付けてくる。フェネアンは緑色の眼でヤコを見上げる。

「そんなに深く考えなさんなお嬢ちゃん。人間がすることにそこまで深く関わりあって何になるってぇの?」

「……人間のって」

「少なくともご主人はそう考えてる。そのほうが健全さあね」

 だが、とフェネアンは言う。

「お嬢ちゃんまでもが、ご主人みたいな考え方や生き方をするこたあない。あんたは『狐』かもしれないが、『魔女』じゃない」

 そこんところが肝心さね、とフェネアンは言った。

「人だろうが獣だろうが、自分の生き方は自分で決めるもんさ。誰だって自分の選んだ生き方以外は、しようたってできるもんじゃねえのさ」

 そうさ、つまるところ。

「お嬢ちゃんが何者になりたいのか。結局のところ、それが一番肝心なことなのさ」


 

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きつね少女の魔女の夏 とくぞう @zyukai

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