第二話 「青いインクと小さなひみつ」




「君もそうでしょ?」


 目を細めてそう言う直斗に、葉月は、ぐっと押し黙る。

 ただでさえのろいまじないを読み間違えているのだ、ここで問われている意味も分からないまま頷いてしまえば何を言われるか分かったものではない。

 そう考えた葉月は、押し黙って目をそらすのが精いっぱいだった。


「……何してんだ、お前」


 相変わらずにこにことしたままの直斗に葉月が困っていると、ちょうどそこに幹哉が戻ってくる。

 その手には盆があり、お茶を淹れてきてくれたようだ。

 救われたような気分になった葉月は、思わず幹哉の顔を見る。

 しかし幹哉は、しかめっ面のまま訝し気にこちらを見ているだけ。

 その表情に、葉月は怒られている気分になってしまう。

 途端にさっと目をそらした葉月に、幹哉も気まずそうに目をそらしたのだった。


「んふふ、ちょっといじめすぎちゃったかな」


 幹哉と葉月の様子を見た直斗は、くすくすと笑うと席を立つ。

 やっと自分への真っすぐな眼差しから逃れられた葉月は、思わず安堵の息をついた。

 すかさず幹哉にお茶を差し出され、葉月ははっと顔を上げる。


「悪いな。あいつは人を弄んで楽しむところがあるんだ。ほうじ茶、嫌いじゃなかったら飲んでくれ」


 眉を下げて申し訳なさそうにする幹哉に、葉月はおずおずと湯呑を受け取る。

 そのひんやりとした触り心地に、外の日差しを癒すための冷たいほうじ茶だということが分かった。

 焙煎された香ばしい香りが鼻を抜け、葉月は少しだけ緊張が解れたのを感じる。


「そうそう、葉月さん、だっけ? 君、これが気になってたんだよね?」


 直斗に急に声を掛けられ、葉月は再び身体を強張らせる。

 口を付けていた湯呑を取り落としそうになりながらもなんとか耐え、慌てて振り向いた。


「ぁ、はい! インク瓶って、珍しいなと思って……」


「そうだろうねぇ。今時は、インクそのものが珍しいだろうから」


 直斗はそう言うと、葉月に場所を明け渡す。

 葉月は無意識のうちに湯呑を置き、導かれるようにインクが置いてある棚へと近寄った。


 棚には色とりどりのインクが並び、そのどれもが可愛らしい瓶に入っている。

 棚に取り付けられている照明のおかげか、とても綺麗に輝いていた。

 葉月はその中でも、一見黒にも見えるインクが気になる。

 瓶には群青と書かれていて、恐らく群青色のインクなのだろう。

 その瓶が一等気になった葉月は、無意識に手を伸ばした。


「え……?」


 葉月が群青のインク瓶に触れるか触れないかという時、ふとインクがほのかに光る。

 驚いて一瞬手を引っ込めた葉月だったが、不思議と危険だとは思わなかった。

 むしろ触れることを許されたような気がして、そっとインク瓶を手に収める。

 すると手の中に納まったインク瓶がほのかに暖かくなり、群青色のインクが一瞬だけ金色に光った。


「あ、」


「……やっぱり、そうだよね」


「や、やっぱり?」


 一人納得したように頷く直斗に、葉月は困惑しながら視線を向ける。

 まだ手の中では、インクが何かに呼応するように金色に明滅していた。


「それは言霊のインクと言ってね。自分でも気付いていない感情に反応するんだ」


「自分でも、気付いていない感情……」


 直斗の説明に、葉月は信じられないような気持ちでインク瓶を覗き込む。

 インクという性質から、これを使って手紙を書けば素直な言葉が出てくるのだろう。

 この店は普通の店ではないと思っていた葉月も、こんなものが置いてるというのは想像していなかった。

 何だかこの店自体が宝箱のように思えて、自然と表情がほころぶ。


「じゃあ、物は試しだ。……書いてみる?」


 葉月がインク瓶に見惚れていると、直斗から思わぬ提案をされる。

 驚いてぱっと振り向くと、どこから取り出したのか直斗の手には便箋と硝子ペンが。

 硝子ペンの繊細な造形に、葉月はまた見惚れる。


「さぁ、ここに座って」


 直斗に促されるままに、葉月は小上がりの座敷に上がる。

 そこは店の奥隅にあり、恐らく普段はちょっとした事務作業をするのに使われているのだろう。

 一人で使うには少し広めのちゃぶ台に、直斗が便箋と硝子ペンを置く。

 それに向き合うようにして、葉月は背筋を正して座った。


「そのインクはね、書いた言葉を色と共に感情で彩るんだ。言葉ではいくら気丈に振舞っていても、その彩りで書いた本人の本当の感情が見えるものだよ」


「本当の、感情……」


「さぁ、書いてごらん。終わったら声を掛けてね」


 そう言って、直斗はすっと座敷から降りていった。

 インクの説明と目の前の筆記用具と共に取り残された葉月は、呆然とする。

 書いてごらんと言われても、何を書けばいいのか分からないのだ。


 葉月はちらりと後ろを振り返る。

 直斗はお茶をすすりながら穏やかな目で葉月を見て、幹哉は眉間にしわを寄せながらも心配そうな目で見ていた。


 葉月は、これ以上助言を求められないことを悟る。

 再び便箋たちに向き直ると、すっと硝子ペンを手に取った。

 透明なガラスでできたペンは、軸の部分にころころと転がる小さな粒が入っていた。

 それらは色とりどりで、とても美しい。

 少し揺らしてみると、からからと軽い音を立てて軸の中で踊った。


 葉月は硝子ペンをそっと置くと、今度はインク瓶に手を伸ばす。

 親指と人差し指で摘まめてしまう程の小瓶は、黒く見える群青色のインクをたっぷりと溜め込んでいた。

 少し揺らすと、とぷんとインクが揺らぐ。

 瓶肌に残ったインクに日の光を当てると、かすかに青さを見ることができた。


 葉月は意を決したように瓶の首に巻かれている紐を解き、薄い和紙をそっと取る。

 ねじ式らしいインクの蓋をゆっくりとひねると、インクが揺れて金色の香りが立ち上った。

 ように見えた。

 真上から覗いてみると、金色の細かいきらめきが揺蕩っているように見える。


 葉月はインク瓶をそっとちゃぶ台に置くと、深呼吸をして硝子ペンを取った。

 慎重にペン先をインク瓶に差し込むと、すぐに青色がペン先に広がる。

 こぼさないように静かにペン先を手元に持ってくると、ゆっくりと目を閉じて深く息を吸った。


 インク独特の香りがした途端に、葉月の中で書くことが決まる。

 すっと目を開けると、葉月は手を動かした。

 便箋とペン先がこすれる独特の音が、店の中に響いていく。


 最初はぎこちなく、しかし段々と流暢に続く音。

 直斗はお茶をすすりながら、そっと目を閉じるのだった。


 どのくらい時間が経ったか、葉月ははっと我に返る。

 気が付けば、目の前には便箋にみっちりと言葉が並んでいた。

 そしてその周りには、自分が書き募ったと思われる数々の便箋。

 どうやら一枚だけには治まらず、何枚も書いていたようだ。


「どうやら、気が済んだようだね」


 その光景を受け入れるのに時間を要していると、直斗に声を掛けられた。

 はっとして振り向くと、直斗と幹哉が覗き込んでいる。

 にこにこと笑っている直斗とは対照的に、幹哉は厳しい顔だ。

 何かいけないことをしてしまったのだろうかと考え始めた葉月に、直斗がそっと手拭いを差し出す。


「よかったら使って?」


「え?」


「擦らないでね、腫れちゃうから」


 直斗が何を言ってるのか分からず、葉月は目をぱちくりとさせる。

 その拍子に、自分の手の甲に雫が落ちた。

 はっとして手を見ると、確かに雫が落ちている。

 再び顔を上げると、直斗がすっと手拭いを握らせてくれた。


 どうやら葉月は、自分の思いを書いている最中に泣いてしまったようだ。

 それが分からないほどに没頭していたらしく、少し恥ずかしくなる。

 慌てて目元を押さえると、視界がはっきりとした。


「……こうもはっきり出るとはな」


「そうだね、ここまでのものは僕も久しぶりに見たよ」


 葉月そっちのけで、幹哉と直斗は話をし始める。

 葉月が書いたものをめくりながら、感心したように顔を寄せて見入っていた。

 自分が何を書いたのかさえもうろ覚えな葉月は、段々と居心地が悪くなる。

 そもそも最初から、直斗たちに読まれる前提で書いていなかったからだ。

 自分の内面を曝け出したようで、恥ずかしくて仕方がない。


「あの、何のことですか? 私、何かしてしまったんでしょうか」


 インクを使って書くのは初めてで、もちろん硝子ペンを使うのも初めてだ。

 もしかしたら何かしてはいけないことをしたのかもしれないと、無性に心配になった。

 しかし直斗も幹哉も葉月の問いには答えず、はぐらかす。


「ううん、何でもないよ。それよりも、どう? すっきりした?」


「あ……。はい、胸のつかえがとれたような気がします」


「そう。なら良かった」


 直斗がにこりと微笑むので、答えをはぐらかされた葉月もまぁいいかという気になる。

 しかしそんな気になったのも束の間、幹哉がそれを掻き乱してきた。


「……お前、本当に客か?」


「……はい?」


「ちょっと、みーちゃん。そんな言い方しないの。これも縁だよ」


「……」


「縁……?」


「うーん、来るべくして来たってことかな」


 いたずらっぽく笑う直斗を見て、葉月は妙に納得する。

 この店に来たことも、こうして思いの丈を書き連ねたことも。

 偶然ではないというのなら、そうなんだろうと思った。

 もしそうならば、またこの店に来ることもあるだろう。

 そう思うと、葉月は胸が温かくなる気がした。


「それはそうと。この手紙、貰ってもいいかな?」


「えっ?!」


 思ってもいなかったことを言われ、葉月は目を丸くする。

 直斗の方を見ると、葉月が書き連ねたものをじっくりと見ていた。


「あ、買取っていう形でもいいんだけど、どうかな」


「買取、ですか……」


「うん。どう?」


 まさか自分の胸の内を書き連ねたものが、誰かに保管されるとは葉月も考えていなかった。

 だっだらどうするのかと聞かれれば困ってしまうが、どうにも買取というのは気が引ける。


「あ、じゃあ……。ご自由にしてください……」


「ありがとう。じゃあ、いただくね」


 直斗はそう言うと、レジの後ろにある書棚にそっと仕舞う。

 自分が書き連ねたものが仕舞われていく様子を見ていた葉月は、なんだか不思議な気分になった。


 突然、店の柱時計が音を立てる。

 葉月がはっとする頃には、もう三回なり終えていた。

 慌てて確認すると、時刻は五時を指している。


「大変、もうこんな時間!」


 慌てて小上がりの座敷から降りると、葉月は自分の荷物をひったくって店を出ようとした。

 そのばたばたとした様を目で追いかける直斗と幹哉の目の前で立ち止まった葉月は、何かを思い出したように先程まで荷物を置いていたところまで戻る。

 そしてずっと放置していた湯呑をそっと持ち上げると、一気にほうじ茶を煽る。


「置いたままにしてすみません! ごちそうさまでした!」


 とん、という小気味の良い音を立てて湯呑を置いた葉月は、幹哉に向かって深々と頭を下げる。

 そして今度は直斗に向き直ると、また深々と頭を下げた。


「貴重な商品で試し書きさせていただき、ありがとうございます! また来ます!」


 そう言うと、葉月は勢いよく店を出た。

 しかし丁寧に店の戸を閉めると、くるりと踵を返す。

 そしてそのままの勢いで雑多な中に消えていった。


 葉月が去った後の店内は、再び静寂に包まれていた。

 まるで嵐が去った後のような気分になったらしい直斗は、ちらりと幹哉に視線を向ける。


「……また来ます、だってさ」


「……おん」


「……また、お茶よろしくね」


「……おん」


「……珍しいものが浮かんでたね」


「……あれは、蔦だろ?」


「……うーん。鎖かなぁ」


「……そうか」


 そう言うと、幹哉は湯呑を回収して回る。

 自分のもの、直斗ものも、葉月のもの。

 どれも空になっていて、結露も乾いていた。

 それを盆に乗せると、静かに奥へ引っ込む。


「さて次は、いつ来るのかなぁ」



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