第一話 「呪いの貼り紙」
今にも崩れそうな足取りで歩く彼女を、周りは一向に気に留めない。
まるで彼女など、そこに存在していないようだ。
葉月はふと足を止めると、ゆっくりと顔を上げる。
目の前を歩く人々は、誰もが明確な目的を持って進んでいるように見え、何もない自分がその場にいることがとても恥ずかしいことのように思えた。
再び俯いてそのまま立ちすくんでいることがいたたまれなくなり、葉月は取りあえず足を動かすことに専念する。
それから、いったいどれくらい歩いただろうか。
人にぶつかりそうになれば立ち止まって時計を見るふりをし、かわせそうになければふらりと避ける。
そういうことを繰り返しているうちに、どうやら葉月は道に迷ってしまったらしい。
そのおかげで、葉月は今自分がどこにいるのか分からなくなってしまっていた。
いつの間にか周りに人は歩いておらず、道を聞くこともできそうにない。
もっとも、葉月には道を尋ねる度胸もないのだが。
しかたなく、葉月は今いるところから抜け出すことを優先することにしたようだ。
道なりに真っすぐ歩いていくと、そこで初めて周りの景色に気付く。
そこは古い街並みで、今にも着物を着て刀を携えた人たちが出てきそうな雰囲気だ。
葉月は思わず、ほうっと息をつく。
そのおかげか、少し心が軽くなったような気になる。
青い空とどこか懐かしいような街並みを眺めながらゆっくりと歩いていた葉月の目に、一枚の貼り紙が飛び込んできた。
その貼り紙には、流れるような字でこう書かれていた。
『文具・数珠、呪いなんかも揃えており〼』
呪い——
見るからに物騒な言葉だ。
しかし葉月には、その文字が自分に向けられているような気がした。
何かのお店なのだろうか、と看板を探す。
きょろきょろと首を動かしたが見つからず、一歩下がって上を見る。
『まほろばの月』
山号額のような見事な看板にはそう書かれていた。
葉月が胸のうちで店の名前を呟いた途端、自分の意思とは関係なく手が勝手に店の戸に触れていた。
本来ならばがたがたと大きな音を立てるであろうその戸は、思いの外静かに開く。
あまり明るいとは言えない店内を恐る恐る覗き込むと、香のやわらかい匂いがした。
「いらっしゃいませ」
はっとして声がした方を見ると、にこにこと笑う青年がのれんをくぐって店に出てくるところだった。
「どうぞ」
紺青色の着流しに亜麻色の帯を締めた青年は、優雅な仕草で葉月を店内へと促す。
その手に導かれるようにして店内に入った葉月は、改めて中を見回した。
どうやらここは、普通の文具店のようだ。
その中でもまず目に付いたのは、万年筆とインク。
それから綺麗な便箋と封筒、封蝋印と蝋。
これらを並んでいる硝子棚に、葉月は別の時代へ迷い込んだかのような錯覚になった。
ふと、インク瓶が青く光ったような気がしてまじまじと見つめる。
しかし、何事もなかったようにたたずむインク瓶に、葉月は小さく首を傾げた。
「何か、気になる物がありましたか?」
再び聞こえた優しい声に顔を上げると、着流しの青年が葉月の後ろでにこにこと笑っている。
驚いて自然と前かがみになっていた身体を起こすと、葉月はそこでようやくあわあわと口を開いた。
「す、すみません。普段あまり見かけないので、つい」
「そうですよね。万年筆や封蝋印なんて、あまり馴染みがないでしょう」
葉月の言葉にうんうんと頷いた青年は、またにこにこと笑いながら言う。
「どうぞ。好きなだけ見てやってください」
「はい、ありがとうございます。でもあの、それよりも表の貼り紙のことで……」
葉月はくるりと背を向けて立ち去ろうとする青年に、慌てて引き留めるように声を掛ける。
すると青年は一瞬だけきょとんとした顔をこちらに向き直り、すぐに合点がいったように頷いた。
「あー、はいはい。ちょっと待ってね。……みーちゃーん?」
「……みーちゃん言うな」
店の奥に向って青年が声を掛けると、奥から別の青年が顔を覗かせた。
その表情はなんとも無愛想で、おまけににこにこと笑う青年の呼び方が気に入らなかったらしく、こちらを睨んでいる。
葉月は何をした訳でもないのに自分が怒られているような気になって、その場から逃げようとそっと身をひるがえした。
「あー、待って待って。怖くないから、大丈夫だから。僕が話聞くよ? あれはお茶出しに来るだけ、本当だよ?」
帰ろうとしていた葉月に気付いて、今までにこにことしていた青年が必死な様子で引き留める。
困惑しながら葉月が店の奥に目をやると、先程の無愛想な青年の姿は見えなかった。
再び前に視線を戻すと、にこにこと笑っている青年と目が合う。
それならばということで、葉月は恐々としながらも頷いた。
その様子に安心したのか、青年はまたにこにこと笑って見せる。
そしてちらりと店の奥に視線を向けると、お茶を運んでくるように言った。
少しして足音が聞こえてきたので、葉月はまだ先程の無愛想な青年がそこにいたことに驚く。
やがてかすかにお茶の支度をしている音が聞こえてくると、目の前の青年が深く溜め息をついて葉月向き直った。
そして青年はまた笑顔になると、どうぞと言って時代を感じさせる古い洋風の椅子を勧める。
葉月は戸惑いながらも勧められた椅子に腰掛け、向かいに座った青年を改めてもう一度見る。
黒々とした短い髪に白い肌。
中世的な顔立ちににこにこと笑みをたたえ、じっと葉月を見ている。
なるほど。
紺青色の着物を着ているせいか、より肌が白く見えるようだ。
見るからにひ弱そうな青年の顔を、まじまじと見つめる葉月。
するとばちっと目が合い、葉月は思わず肩を震わせた。
まさか目が合うとは思っていなかった葉月は、驚いて慌てて俯く。
そんな葉月の反応に、青年は優しく話し掛けた。
「改めて、いらっしゃいませ。僕はここの店主で、
多分という言葉に眉をひそめた葉月に、直斗はにこりと笑って見せる。
直斗の言う通り悪い人ではないのだろうが、如何せんあだ名一つ呼ばれただけであの顔だ。
それを思い返すと、葉月も困ったような笑みしか返せない。
「まあ、その話は置いておくとして。早速だけど、君は表の貼り紙が気になったんだよね」
「はい、そうなんです」
「何が気になったの?」
「あ、えっと。それが……。呪い、という言葉でして……」
「うんうん、やっぱりね」
自分でもなかなか恥ずかしいところが気になってしまったと思いながらも、葉月は正直に打ち明ける。
すると直斗は腕を組み、心底納得したように何度も頷いた。
馬鹿にされるかもしれないと思っていた葉月は、直斗の反応を見て安心する。
しかし次に直斗から発された言葉に、思わず顔を真っ赤にしてしまうのだった。
「でもあれね。”のろい”じゃなくて、”まじない”って読むんだよ?」
「え……」
直斗の言葉に思わず店の戸を振り返った葉月は、しばらく視線を戻せなかった。
しかし直斗は全く気にせず、相変わらずの調子で言葉を続ける。
「よく読み間違えたまま入ってくるお客さんは多いけど、その方が都合がいいんだ」
「都合が、いい……?」
直斗の言葉が引っ掛かり、葉月は自然と振り返る。
にっこりと笑ったままの直斗と目が合うと、恥ずかしさがぶり返して葉月は思わず俯いた。
「そう、都合がいいの。僕たちの商いは、そういう方面だから」
「そういう?」
言葉の意味が掴めず困惑する葉月に、直斗は笑みを崩さない。
それどころかにこにことした顔のまま、ぐっと葉月を覗き込んでくる。
吸い込まれそうなほど真っすぐな目に、葉月は目が逸らせない。
不安に揺れる葉月の目をじっと見つめる直斗は、最後にふっと笑って身を引く。
そして何か聞こうとする葉月を遮ると、目を細めてこう言った。
「君もそうでしょ?」
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