第5話

 中川五郎治が知り、白鳥雄蔵を通して久保田へ持ち込まれた牛痘の知識はロシアに端を発するものであった。そのロシア船が下田に現れたという話を瓦版で知ったのは嘉永五年

(一八五二)のことである。中川五郎治がロシア人から知識を得たように自分も接触してみたいと思った久三郎だが、江戸から下田への距離は短くない。何より日々の仕事があって、とても離れられる状況ではなかった。

 そのロシア船も離れ、久三郎も角館へ戻る日がやってきた。ロシア船が帰国した後の五月十日のことであった。

 前田家で続けた仕事がどれほどの手間賃を稼ぎ出したのか、正確なところはわからないが、最後に前田は『魯西亜牛痘全書』を渡してくれた。

「きっと二度と会うことはないだろうが」

「そんな寂しいことを」

「いや、わかるのだ。儂が死ぬ前に、何か大きなことが起きると。それが元で儂らは二度と会えない。賭けの結果を見届ける以前の問題だな」

 確かに近年は、今までとは違う異様な事件が立て続けに起きている。外国船の相次ぐ出没がその一つであろうが、それがなければ牛痘を知ることはなかった。人を引き裂く出来事と同時に、人を救う可能性の両方をもたらすのだろう。

「しかしお主のように、可能性を見つめられる者がおれば、きっと安泰だろう。あまり弟子を取ってこなかったが、お主が弟子で良かったと思うよ」

 前田はしわの深い顔をまっすぐ向け、言った。久三郎もそれに応えるように、

「同じです。私も、ここに来てあなたの下で働けて良かった。婢の手伝いまでしてしまうかもしれません」

 実際には有り得ないと思いながら、笑みを見せた。

「餞別はそれぐらいしかないが」

 前田は書物を指して言った。何やら本当に申し訳なさそうだったが、あまり見ていたくない様子であった。

「それなら一つもらいたいものがあります。あなたの名を一つもらいたい」

「儂の、か。何が良い」

 前田は快く言ってくれた。

「では、今後私は高橋痘庵と名乗ります」

「確かに儂の号は仙庵だが、それで良いのか」

「どうしても痘という字を使いたいのです。これが一番収まりが良いでしょう」

「まあ、良かろう。そんなものが餞別になるのなら、遠慮無く持っていけば良い」

 それが江戸の師と交わした最後の言葉となった。

 久保田藩へ戻った高橋痘庵は、江戸で手にした技術と知識を元に、角館を中心として仙北郡六郷方面など久保田藩を広く飛び回って種痘医としての地位を確立していく。その働きは、いつしか「イモ神様」という名を生んだ。

 後に久保田藩内では、「勧牛痘趣意書」が無料で配布された。小児への予防接種を勧めるために作られたこの文章では、天花痘に罹った女子の縁談を妨げられた上痘痕が顔に残ることを哀れに思う一文がある。女子に限らず、小児のうちから牛痘接種を受ける必要性を訴える文章には、高い料金を取ることはないと明記されている。

 各地を精力的に回った痘庵の努力もあり、牛痘は久保田藩で理解されていく。天花痘が日本から、そして世界から消滅し、根絶宣言が出されたのは昭和五五年(一九八〇)五月七日のことである。久三郎を名乗っていた頃の痘庵が予想した年代から約八十年の開きがあるものの、徳川幕府も消滅した時代に打ち立てられた、医学の金字塔である。

 以降天花痘と診断された人類は出現していない。たとえ罹患しても、長い時間をかけて積み上げられた成果によって生きていける。

 その大きな成果を作り上げた人類の中に、高橋痘庵の名は確かにある。石黒形右衛門直愿の次男として角館に生まれた高名な種痘医として名を残している。

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花摘 haru-kana @haru-kana

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