第4話

 隼人祐直信を名乗るようになった兄と再会したのは嘉永三年(一八五〇)の初春を五日過ぎた頃であった。久三郎が末期養子となった頃から会うことは少なくなり、最後にあった日もあまり思い出せないが、以前に比べ体格も立派になったように見える。形右衛門から継いだ石黒家を立派に盛り立てているようだが、引け目を感じることはない。彼が父に託された役目を果たしているように、自分も高橋六左衛門の期待に応えられている。そう言い切るだけの自信があった。

「湯殿で亡くなったと聞きました」

 久三郎が訊くと、隼人祐は静かに頷いた。

「突然ですね」

「ああ。畳の上で逝くことができなかったのは不本意だろう」

 そう言い、隼人祐は葬儀の会場へ久三郎を伴った。彼は石黒家長男として喪主を務めている。

 父形右衛門直愿が湯殿で亡くなったのは年末のことであった。一人で湯浴みをしている時に卒中を起こし、気づかれるのが遅くなったこともあってそのまま帰らぬ人となってしまった。隼人祐には九月に息子の勘太郎が生まれており、形右衛門も初孫を愛でていた。それから三ヶ月で別れるのは、孫にとっても祖父にとっても早すぎた。

「残念だな。もっと生きられたら、勘太郎が歩くところも見られたろうに」

 甥は抱き続けるのが疲れるほど大きくなっていて、末は父親のように強く育っていくだろうと思われた。その成長を見るのを楽しみにしていた形右衛門だったが、それが叶わぬまま逝くことになったのは寂しい。

「こればかりはやむを得ぬ。誰しも命数がある」

 隼人祐は冷静な態度に努めているように見えた。形右衛門を甥の祖父と見られるのは外から見る者の気楽さで、隼人祐にとっては家督を譲った男に見えるのだろう。石黒家の家格は高く、そのおかげで裕福に暮らしていけるが、それに伴う責任も多い。

「忙しいのか」

 葬儀が終わった後に兄が何気なく訊いたので、久三郎は胸に秘めていたことを伝えることにした。

「所用が多いもので。実は江戸へ行く話があります」

 出し抜けに思えたのか、冷静な兄らしからぬ抜けた返事が聞こえた。

「何故このような時期に」

 隼人祐は驚きより心配を強く感じているようだった。

 飢饉の余波はだいぶ収まってきたが、十三年前の大坂で起きた大塩平八郎の乱や相次ぐ外国船の出没により、徳川幕府は揺れている。そのお膝元である江戸ともなれば、どんなことが起きるか見通せないほどだろう。

「前田利光様というお方の元で、医学の修行を致します。前田様は牛痘についての知識があるそうなので、それをこの久保田へ持ち帰ろうと思います」

「天花痘への対抗手段か。しかしそれなら既に行われているだろう」

「人痘では確実ではないのです。それで役割を果たしたなどと言っても、片手落ちでしょう。天花痘は時間をかければ、確実に絶つことができます。そのために人痘は必要です」

 何が起きるかわからない不安など、自分ではどうしようもないことで人生を左右される理不尽さに比べれば些末なことだ。怖れを抱いては、養達に恩を返すためにやってきた少女の勇気にも劣ることになってしまう。

「そうか。俺が言えることは何もないから、思うとおりに行けば良いが」

 兄はそう言ってまっすぐ見つめてきた。

「しかし気をつけろ。いくら人を救うためとはいえ、死んではならぬ。それで悲しむ者もいる。そして死ねば助けられるはずだった者も助けられなくなってしまう。きっとお前は、高橋家だけでなくこの藩に必要な男になっていくはずなんだ」

 直接的な言葉を投げかけられたわけではない。明確に名を出されたわけではない。だからこそ心の深いところへ届く。

 兄の、家族の思いが、届いてくる。

「心得ています」

 久三郎は喉の奥から押し出すように言った。胸の奥に染みこんだ家族の思いに、触れることができたような気がした。

 久三郎の江戸出立は一年後の嘉永四年(一八五一)であった。斎藤養達に続く師は前田利光という町医者で、養達と同じく開業医として実績を積み、いくつかの著作もあるという医家であった。

 前田もまた種痘医であり、痘苗を得るために多くの患者を相手にするという日常は角館の頃と変わりない。ただし、医学館の学頭という高い地位にあった斎藤と違い、前田はあくまで町医者である。助手も他に取っていない。そして人を教えるという気持ちは乏しいようで、都合良く使える助手が一人増えただけという認識しか持っていないようであった。

 久三郎は少しだけ失望したが、元より自分で学ばないことに意味はない。前田の許しを得て、仕事が終わった後に書庫の書物を片端から読みあさる日々が始まった。

 著作がいくつかあるというだけあって、前田の書庫は狭いながら多くの書物が詰め込まれていた。最初は全てを覚え込むという気持ちで臨んだ久三郎だったが、すぐにそれが無理であることを思い知らされる。少し考えて、書名から関係のありそうな書物を狙い撃ちすることにした。

 そんな心持ちで書物を探していたから、『魯西亜牛痘全書』という題を見つけるのは必然であった。導かれるようにその書物を手に取ると、牛痘の方法を解説した書物であることがわかる。

 前田利光は有能な医者であっても、町医者である。斎藤養達のように人を育てることもせず、江戸の片隅でひっそりと生きている。そんな人物に、最新とも思える医術は不似合いだと思った。

「精が出るな」

 不意に声をかけられ、久三郎は書物を閉じた。

「隠すことはあるまい」

 言いながら書庫に入ってきた前田は、後ろから書名をのぞき込んだ。

「ああ、その本が開かれるのは久しぶりだ」

「あなたが書いたのですか」

「もちろん。ただし、全てを一人で書いたわけではない。元々はロシア語だった」

「では、訳書ということでしょうか」

「そうだ。だが、最初にやったのも儂ではない」

 どういうことかと訊くと、原書の名は『ヲスペンネヱケニガ』だと言った。

「佐十郎というオランダ商館の通詞が、それを四十年も前に邦訳したものがある」

 そう言って彼は、『魯西亜牛痘全書』の近くからもう一冊を取り出した。

「名を『遁花秘訣』という」

「花から、逃げる」

「そう。天花痘というだろう。その花から逃げるという秘訣を記したという意味だな」

 言いながら前田は書物をめくる。前田が書いたものと内容は似ているが、意味の通じにくいところがあって、読みづらい。

「これは広く印刷されて出版されたわけではない。関係のあった医家たちの間で回し読みされたり、書き写したりされたものだ。その成果の一つが儂の著作ということだ。内容を書き写した上で、わかりにくい部分などは手を加えて直してある」

 前田の言葉を聞きながら先を知ろうと紙をめくっていく。久保田藩でも長く行われてきた人痘種痘と、イギリスでジェンナーによって開発された牛痘種痘が比較されており、その中には適々斎塾の創始者として有名な緒方洪庵などの名があった。

 読むことに没頭しかけた時、不意に本が取り上げられてしまった。

「ただ読みはそこまでだ。それともこれが欲しいのか」

「ええ、そうですが」

「譲ってやっても良い。少々仕事を増やしてくれるのならな」

 前田はいたずらっぽい笑みを見せる。書物を餌に小間使いをやらせるつもりかと思ったが、

「その言葉、忘れずにいてくださるなら、引き受けましょう」

「良い心がけだ。早速明日の朝からやってもらいたいことがあるのだがな」

 前田は自分の妻がやっていた朝の掃除を代わりにやるよう命じた。

 手間賃のためにと始めた仕事を、前田は遠慮無く増やしていく。起きる時間は早くなり、日々の負担は増えたと感じながら、久三郎は文句を言わずに続けた。

 そんな久三郎の姿勢を楽しんでいるようであった前田は、

「よほどあの本が気に入ったらしいな」

 家の仕事を終えた後に書庫へ向かう久三郎に言った。

「あれを手に入れてどうするつもりだ」

「故郷へ持ち帰ります。かねてより人痘より牛痘を広めたいと思っていました。牛を探すのに苦労するでしょうが、やり方さえわかれば、何か道は拓けるはずです」

 久保田藩に暮らしていて牛を見たことは少ない。西の方では犂という農具を使うために牛馬を飼っている農家が多いというが、それは東へ行くほど見なくなっていく。馬鍬で代掻きをしているところを見たことはあるが、だいたいは人力であった。

「なるほどな。しかし種痘自体は新しいものではない。牛痘もそうだ。発見されたのは五十年も前だし、既にこの国でも最先端にいる者たちの間では常識的だ。お主はきっと、どうあがいてもその最先端には立てまい。歴史に名を残すような名誉とは無縁だろう」

「それがために今まで医家に仕えてきたわけではありません」

 久三郎は言い切った。後の人に忘れられてしまうことは寂しいだろうという前田の言葉にも冴えがあって真理を感じさせたものの、大事なことは現在であろうと思えた。

「私の苦労や努力で、現在の人々を救えるなら無駄にはなりますまい」

 百姓が他人を生かすための食糧を作るように、医者も異変を解決するための方法を見つけていく。それは後世へつなげるためでもあろうが、現在を確かなものにするためでもあるはずだ。

「救いが必要な者など手に余るほどおる。それを全て救うことなどできまい。それでも続けていくか」

「できる限りのことをするのが、医者の役目でしょう。昔は救えなかった人を、今は救う力がある。それは大きなことだと思います」

 子供の頃は大人の言われるままに見捨てるしかなかった人を、今なら自分の意思と力で救うこともできるだろう。それだけでも大きな成果であった。

「私のすることはきっと、できる限りのことに留まるでしょうが、それを久保田藩の後の医者たちが高めるかもしれない。その未来を少しでも確かなものにするのが、あなたに仕える私の役目でしょう」

 それはあなたが、私という弟子を育てるのと同じだと久三郎は言った。

「そうして広まっていく。痘苗が人の腕から腕へ植え継がれていくように。それが繰り返されたら、きっといつか天花痘を根絶することもできるでしょう」

「予言か、弟子のくせに」

 前田は苦笑したが、

「いつになると思う」

 そう訊いた声には真剣味が宿っていた。

「すぐには無理でも、多くの蘭方医が注目しています。五十年後にはできているのではないですか」

「楽観的だな。ただ広めるだけでは新しいものは根付かん。それを使う人の気持ちも変えていく必要がある。倍以上の時間がかかるな」

「賭けてみますか」

「それも良いが、きっと儂らはその決着を見届けられん」

 それほど遠い未来の話をしていることに気がついて、久三郎は肩から力が抜けた気がした。

「しかし、決着がわからないならそれも良い。少なくとも儂らは夢を見ていることができる。どんな方法が選ばれるか、考えているだけで良い」

「無責任ですな」

「後の連中に丸投げできると思えば、思い切ったこともできよう。そしていつか、それをはねのける者も出てくる」

「いつか、ですか」

 久三郎はその言葉を噛みしめた。ずっと遠い未来で、確かに天花痘が消える日が来ると信じられた。

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