第3話

 幼名を捨てるまでに、石黒家に残してきた家族にも変化があった。まず天保十二年に妹のおかじが坂元作右衛門と結婚し、石黒家を離れた。その二年後には兄の織紀も結婚する。相手は名古屋玄仲という医者の娘であった。父形右衛門は吟味役や勘定役、財用役を務めていたが、それははるか以前から変わらない役目であったらしい。石黒家は元々財政面の役職を担う家であった。そんな家が、兄弟で医家とつながることに不思議な縁を感じ、久三郎は見えざる手によって動かされている気がした。

 飢饉に荒れた天保年間は十四年で終わったが、それで発生した諸問題が片付いたわけではない。改善が見られるとはいえ飢えに苦しむ人は多く、城下町の久保田や武家屋敷の並ぶ角館には依然として飢えた人々が留まり、それを救えないために荒んだ空気が発生していた。

 高橋家に入った久三郎はそうした人々を尻目に角館で医学の修得に励むことになったが、完全に無視して没頭することはできずにいた。彼らを見るたびに、子供の頃道で行き倒れた女を思い出してしまう。しかし彼女が当時求めていたのは食糧であり、それを成せるのは百姓であっただろう。飢えた人を救うために医者ができることを見つけることができずにいた。

 それでも人の世に渦巻く問題が絶えることはないようだった。飢えた人々の力になれず悩んでいることを誰かに打ち明ける前に、藩の医家たちには病に立ち向かうことを期待された。

「西国では天花痘が流行っているという。努々油断せぬように」

 弘化年間に改まって間もなく、そのような布達が出された。

 天花痘と聞いて福蔵は不吉な思いにとらわれた。高橋家に入ってから知ったことだが、かつて道で出会った女の顔にあった傷痕こそ、天花痘にかかった証拠であった。

 天花痘には様々な呼び名がある。痘瘡、靤、天然痘などと呼ばれ、地方によっては更に別の名がつけられている。久保田を中心とする地域ではイモと呼ばれ、それを流行らせるのはイモ神という疫病神であるとされた。

 天花痘は、罹患した者の体に表れる疱瘡が花のように見えることで生み出された言葉である。かつて佐々木が教えてくれたように、一度罹患して完治すれば、生涯かかることはない。ただし、力尽きる者も多く、生き延びたとしても傷痕があばたとして残ってしまう。それが女子の縁談を破談にすることもあるという。

 古くは平安期、藤原四兄弟の命を相次いで奪ったという天花痘は、この時代有効な対策が見つかっていない。根絶宣言が出されるのは百年以上後の話である。

 疫病神による災いということで、お祓いにすがる者は多い。久保田藩においてもその信仰は根強かったが、久保田で開業し医学館の学頭にまで上り詰めた斎藤養達は真っ向から否定する立場を取っていた。

「天花痘は決して人の手に余るものではない。現に海の向こうでは脅威ではならなくなってきている。その根拠もまた、神頼みなどではない」

 久三郎が弟子入りした斎藤養達は、天花痘が人痘種痘という方法で防げると主張していた。

 人痘とは文字通り人に感染する怖れのある天花痘を指す。本来ならば危険きわまりない存在だが、天花痘は一度罹患した人間には二度と感染しないという特徴を持っている。それを利用し、天花痘に罹患して完治した者のかさぶたなどを砕いて煎じ、鼻から吸い込ませることでわざと軽い天花痘に罹患させることで、今日でいう免疫を作って予防しようというものである。

 天花痘自体は世界的に脅威であるため、世界各地で様々な予防方法が採られている。幕政時代の日本において最初に行われたのは長崎の大村藩に於いてであり、二十人の芸妓に人痘種痘が行われた記録がある。

 この時参考にされたのは中国の医書『醫宗金鐶(いそうきんかん)』であったが、斎藤が手にした資料は、

関係が悪化していたロシアからもたらされたものである。

 そもそものきっかけは、文化三年(一八〇六)のフヴォストフ事件である。この二年前、幕府はロシア皇帝アレクサンドル一世から求められた通商を拒否し、使者であるレザノフを追い返している。この出来事をロシア側は皇帝に対する侮辱と受け取り、フヴォストフという軍人に報復を命じた。

 フヴォストフは部下のダヴィトフと共に樺太の大泊を焼き払い、通詞をはじめとする何人かの日本人を捕らえた。この中に中川五郎治という漁師がおり、彼はロシアの地で種痘医による人痘種痘を目撃した。その後五郎治は、その時の経験を活かし、天花痘が流行した際種痘医として辣腕を振るい、多くの命を救ったとされる。

 この中川五郎治から人痘種痘を受けた者の中に、白鳥雄蔵という男がいる。彼は久三郎が斎藤養達に弟子入りした弘化二年、一足早く門人となっている。斎藤養達は人痘種痘をその身に受けたという男から詳しい話を聞き、久保田藩全土に種痘を広めようとしていた。白鳥雄蔵の名は歴史にほとんど表れないが、養達の息子である元益に技術と知識は受け継がれ、後に高橋痘庵として名を馳せる久三郎と共に、秋田における名医の一人として知られるようになる。

 白鳥雄蔵は文化七年(一八一一)函館に生まれた男である。久三郎とは一七歳も離れていたが、不思議と気の合う兄弟弟子として、斎藤養達の下で学びを深めていった。

 その雄蔵から、久三郎は興味深い話を聞いたことがある。自分が斎藤養達に伝えた方法とはもう一つ、別の種痘法がこの世には存在するというのだ。

「それはな、牛の天花痘を使うんだ」

 まるで禁制の術を口に載せるかのように、雄蔵は人気の無いところに久三郎を呼び出し、声を潜めた。師にも伝えなかったやり方だというので期待していた久三郎は、正直なところ肩すかしを食らった気分であった。

「牛の病気を人に感染させるのですか。そんなことをして平気なのですか」

「信じていないな、貴様」

「はあ。まさに前代未聞ですので」

 久三郎は努めて素っ気なく言った。それを冗談で済ませられる間柄でもあった。

「まあ聞け。そもそも人痘種痘は効果的だが、危険もある。それは知っているだろう」

 師の養達からはもちろん、雄蔵自身も話していたことだ。人痘に感染して治った場合、二度と天花痘にはかからない。しかしながら、人痘であることに変わりはない。罹患した後うまく治らずにこじらせてしまい、天花痘を本格化させてしまうこともある。そうして死に至るという副作用が、人痘種痘の問題点であった。

「このような心配は、牛の天花痘を使う方法では要らない。現にイギリスではそういう言い伝えがあるし、それを確かめた者もいる」

 日本の農村に於ける牛は荷役や犂の動力として使われるが、イギリスでは乳を生産するために飼われるという。この乳搾りを生業とする者の中に、牛の天花痘である牛痘にかかる者がいる。この場合わずかな症状が表れるもののすぐに快癒する。そしてその後は絶対人痘には罹患しない。

 イギリスの農村で長い間言い伝えられてきたことだが、これをジェンナーという医師が確かめたという。まだ久保田藩をはじめとする東北には伝わっていないが、大坂や長崎などでは蘭方医が知っていて、天花痘への対抗策として広めようと動いているらしかった。

「何故それを師に伝えなかったんですか」

 斎藤養達は厳格だが、確かな知識と技術を持った医者である。彼が採用しないとしたら、何か問題があるのかもしれない。

「俺自身も牛痘を目の当たりにしたわけではない。我が身に受けたのも人痘だったし、そもそも痘苗を手に入れるのも難しいそうだ。バタビア(ジャカルタ)などから運ばせても、海を渡りきる頃には死滅してしまうらしい」

 死滅という言葉が妙に生々しく思えたが、病は人の命を食らって生き延びるために、人の体に感染して次々と乗り移っていく。そこに生物らしい本能があるのなら、生死で状態を測るのも間違いではないだろう。

「ともかくだ、天花痘は病だ。人智を超えたものが引き起こす災いなどではない。殺す方法はないが、防ぐ方法はある。そして天花痘にとって、防ぐ方法を万全にされることは致命傷になる」

 天花痘を疫病神が流行らせるという根強い信仰を事も無げに否定する雄蔵には、医師として心強いものを感じた。それが医者だけでなく、全ての人間の常識になってくれれば種痘を怖れたり忌避したりする者もいなくなるのだろう。技術や知識だけでは超えられないものがあるようだった。

 種痘を施すには、そもそも天花痘に罹患した経験を持つ人間が必要である。元患者から痘痕の一部やかさぶたを採取し、それを煎じて薬のようにし、鼻から吸い込めるほど細かくするのだ。実際に種痘を施すのは養達だが、その前段階である痘痕の採取は久三郎ら助手の役割であった。

 養達の元に弟子入りしてから数ヶ月で初めて痘痕の採取を行い、一年も経つ頃には一人で全ての手順をこなすほどになった。多くは働き盛りの男であり、日焼けした腕や顔に刃物を入れ、慎重に痘痕を採取していく。

 男であれば痘痕を採取するという作業に専念できた。予防に役立てるためとはいえ人の体に刃物を入れるという行為に変わりは無い。それが怖くなった時、久三郎は肌を切るのではなく痘痕を切るのだと思い込むことにしていた。弟弟子にも心得としてそのように教えた。

 その相手が女であると、完全に思い込むことは難しくなる。しずしずと部屋に入ってきたその女は、妹のかじとあまり年恰好の変わらない少女であった。

「よろしく頼みます」

 小さな声を、顔を伏せたままで言った。頭巾を被っていた彼女は、こちらが求める前に顔をさらした。

 思った通り彼女の顔には点々と痘痕がある。顔がよく見えるようになってもなお、顔を背けるようにしているのが見るに忍びなく、

「無理はしなくて結構。頭巾を着けていても良い」

 努めて優しい声で言った。

 果たして少女は首を振った。

「それでは手元の細かい作業の邪魔になるでしょう。イモを防ぐお手伝いをしにきたのですから、気遣いは要りません」

 顔を伏せたままだが、少女はきっぱり言った。

 細かな背景は知らない。しかし天花痘によって何かしらの悲しみを背負いながら、それでも手を貸したいと願って来てくれた。その心意気を汲んでやるのが、医家を末期養子として継いだ自分の役目であろう。

「あいわかった。少し傷をつけるが」

「気遣いは結構です」

 少女の毅然とした態度に変わりはなかった。

 久三郎は小刀を持ち、少女の腕を見た。手には胼胝ができているなどして使ってきたことがうかがいしれるが、百姓のようい日焼けはしていない。白っぽい腕には痘痕が点在している。

 天花痘の由来は疱瘡が花のように見えるためだという。そうであるなら、治った後の痘痕は花を摘んだ後に残された根であろうか。植物の中には、根を煎じて漢方薬にできるものもある。漢方と蘭方は違うと思っていたが、相通じるものが全くないわけではないのだと思った。

 少女は顔を逸らしながら、しかし左目で懸命に久三郎の手元を見ようとしているようだった。男の操る小刀が、自分の腕に根付いた痘痕を切り裂いていく。それは自分自身につけられた傷を癒すためのものではない。未だ傷を負っていない見知らぬ者が、生涯傷を受けずに生きていくためのものだ。

 痘痕を切りながら、久三郎は少女の背景に思いを巡らせた。かじが嫁入りした頃を不意に思い出した。ちょうど少女の年頃で、彼女は坂元家に入っていったのだ。

 縁談がまとまりかけていたところで天花痘にかかり、治ったものの顔にひどいあばたが残ったために破談になったという笑えない話を聞いたことがある。少女にも同じような過去があるとは限らないが、今後少女の顔に残る傷が、縁談において何らかの障害になることは間違いないだろう。

 飢饉もそうであったが、自分の意思や力ではどうしようもないことで人生を左右されることの何と多いことか。飢饉も天花痘も、どんな屈強な体であっても、強大な権力を持っていても、手加減なく命を奪い去る。飢饉のその暴力に対抗するのが百姓の力であるなら、天花痘を殺すのは医者の力でしか有り得ない。

 名も無き人々も、権力を得ようとあがいた人間も、権力の座に着いた人間も、区別なく殺す天花痘に、久三郎は訳もなく怒りを覚えた。

「あの、高橋様」

 今まで息を殺すような緊張感を発していた少女が、喘ぐような声を出した。

 久三郎は少女の腕を押さえる手に力が入りすぎていることに気がついた。慌てて力を緩めたが、赤っぽい痕が残ってしまった。

「済まない、痛かっただろう」

「いいえ、それより手が止まっていらしたので」

「肌に傷をつけたわけではないか」

「はい」

 痘痕の周りには、確かに切り傷はない。少女の声がなければ手元を狂わせていたかもしれない。

 少女の腕にあった痘痕を全て切ると、お互いに深い息をついた。腕を傷つけられるかもしれない立場と、けがと紙一重とところで刃を扱った立場、それぞれに緊張を強いられる時間であった。

 少女は深く礼をして部屋を出る。門まで見送って、久三郎も礼を言った。

「わたしの傷が何かの役に立つと良いのですが」

「役立たせる。心配することはない」

 副作用の問題は解決されていないが、正直に言うことではない。久三郎は努めて強く言った。

 少女は安堵したように表情を緩めた。

「わたしは昔イモにかかった時、斎藤先生に看病していただきました。家族にもその方法を教えてくださって、それで生き延びたようなものです。これは恩返しなんです」

 微笑みを残し、少女は踵を返した。少女はあくまで気丈に振る舞い、久三郎が想像した以上のことを明確な根拠で以て察することはできなかった。ただ、病から生還した後の人生を精一杯生きようという強さだけは伝わった。

 それはそれで清々しいものである。鼓舞されたような心強さが胸に響く。

 百姓は飢餓から人を救う。それと同じく天花痘から医者は人を守る。そして天花痘を殺すことさえできる。

 久三郎は少女から採取したばかりのかさぶたを、種痘に使えるようにする作業にかかった。これをまた誰かに感染させ、現れた痘痕が治りきる前にまた同じように採取して、更に別の誰かに移す。その繰り返しが徐々に天花痘の生存環境を狭めていく。

 何百年か先のことであれ、繰り返しが続けばいつかは天花痘を殺しきることができる。久三郎は気の遠くなる思いを抱いた心が、同時に躍っていることに気がついた。

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