第2話

 父のいない暮らしは三年続き、長野村での消息は祖父母の葬儀で会った時にのみ知ることができた。祖父母を三年間で失うまでに福蔵は八歳になっていて、近しい人の死が何をもたらすかわかるようになっていたが、形右衛門は思うほど悲しんでいるようには見えなかった。

「佐々木殿が今は主だ。言うことをしっかり聞け」

 三年間で二度あった葬儀では、決まってそう諭した。形右衛門が長野村で蟄居していた間にもたらされた言葉でずっと覚えていたのは他になかったが、それ以上に気丈な振る舞いの方が心に残る。祖父母を両親に置き換えて考えてみると、自分であれば寄る辺のなさが空恐ろしいものに感じられて、この世の全てが怖くなって足がすくむような気がする。それを思うと、近しい人の死を乗り越えている父や、思いもしなかった状況に身を置くようになっても取り乱さなかった母の強さが偉大なものに感じられた。

 父の遠慮が解かれたのは天保七年のことである。それがよほど嬉しかったのか、祖母の葬儀以来となる再会の日に、父は玉川温泉へ家族を誘った。

「どうしたんでしょうね」

 遠慮が解かれた後も身を置いていた佐々木家でその知らせを訊いた時、いつもは家族を外へ連れ出すような人ではないのに、と母は佐々木十兵衛に漏らしていた。その顔には笑みがあって、まんざらでもない様子であった。

「三年間が人柄を変えたのでしょう。遠慮やご両親の死に目に会えなかったことは残念でしたが、悪いことばかりではなかったということですな」

 佐々木は明るく言い、温泉へ行く当日も夫婦で送り出してくれた。その時福蔵に向かって、

「このまま跡継ぎができなければ、我が家の末期養子にならんか」

 三年間親代わりを務めてくれた人は、父が子を遊びに誘うような気軽さで言った。

 季節は晩秋に差しかかっている。初めて佐々木家を訪れた時のような寒さはないが、じっとしていると肌寒くなる程度の冷え込みはある。特に夜の寒さが辛くなる時期でもあった。

 羽織があってちょうど良いぐらいだが、これがないと辛いだろう。そう思ったのは、屋敷の建ち並ぶ街に、晩秋に相応しくない薄着の人々が座り込んでいるからだ。

 その人たちの目はいずれも異様な光を宿していた。かじは母にすがりついてできるだけ前を見ないようにしている。そんな妹を隠すように織紀は歩き、道の両側に座り込んで自分たちを見ている人々を油断なく睨んでいた。

 三年前、雪道の上で倒れたまま動かなくなった女がどこから来たのかと気になった。四年経つと自分たちが生きている瞬間が時代という言葉で言い表せることにも気づく。それに基づくと、佐々木家で暮らしていた天保年間は飢饉の時代であったらしい。

 天保四年は全国的な不作となり、特に角館などの東北地方で飢饉をもたらした。天候不順やイナゴの大発生などがあって米も値上がりし、土崎湊の米騒動や北浦での百姓一揆など藩に対する挑戦が相次いだ。百姓一揆のあった北浦や奥北浦は角館からほど近い。そこで暮らしに困窮した人々が、武家の屋敷が集まる街に集まってきているのだろう。佐々木の家で飢えを感じたことはなかったから、彼らに比べ恵まれていることを思い知った。

 父は待ち合わせのはるか手前に現れた。

「無事に着けたか」

「ええ、それほど長く歩いてきたわけではありませんから」

 大げさと言いたそうな母に、福蔵も心中で同意した。

「荒んだ時代だ。昼間でも危ない。佐々木殿はよく守ってくれたものだ」

 父は言い、周囲に視線を巡らせる。織紀と同じく、道の両端に座り込む人々への敵意を隠そうとしなかった。がっしりとした体格は三年間の苦労を思わせず、別れて暮らしていたことを忘れるほどである。再会は喜ばしいが、苦しむ人々を蔑むような目がいやらしく見える。

 父はそれ以上周囲に目を向けず、家族を伴って歩き出す。玉川温泉での時間は久しぶりの家族団らんとなったが、福蔵は自分がひどく残酷なことをしているような気がした。それを認めたら家族を引き込むことになると思って、自身の奥へ押し込めるしかないのが歯がゆかった。

 以前暮らしていた屋敷は人手に渡っていて、以前と同じ暮らしではなくなったものの、家族が団らんすることはできるようになった。その代わりのように、織紀は弘道書院教授小高内蔵人の下で暦学を学んだり、森田幸之助という学者に学問の他弓術を学んだりするようになり、徐々に石黒家の家族とは違った時間を過ごすようになっていった。

「お前も何かを学んでいけば良い。そうでなければ生きていても面白くはあるまい」

 織紀は日々を満たされた人間の顔をして、そんなことを言ってくる。織紀には石黒家を継ぐという役割があって、妹にもいずれ誰かの嫁になるという将来が待っている。それらに比べると福蔵には何もなく、一見気楽だが実のない人生を送りかねないという心配が織紀にはあるようであった。

「そんなことはない」

 そう返事をしたのは強がりであった。兄や妹に求められることがあるのに対し、自分には何もないということをいつの頃からかわかっていた。

 加えて、学問や武芸を積極的に学んでいく兄のようにはなれないこともわかっている。そこまで器用には生きていけないのだ。

 自分の中にあるものといえば、かつて佐々木十兵衛から投げかけられた言葉である。何か他人の役に立つことを知っている人間は強い、という。それを聞いたのは、福蔵がまだ佐々木家で暮らしている頃であった。

 佐々木家で暮らしはじめて一年以上が経ち、家の内外での暮らしにも慣れた時期である。今から思い返せば当時は飢饉の余波に皆が苦しんでいて、街には今以上に浮浪者や行き倒れが溢れていた頃であった。

 ちょうど佐々木家の門前で、親子が座り込んでいたことがある。一目見て飢えているのがわかるほど二人はやせこけていたが、福蔵が気にかけたのは男親の顔にあった何かの痕であった。

 それは佐々木家へ行く途中に見た女と、同じ痕に見えた。その女は顔を隠そうとしていたが、男は構わずに顔をさらしていた。

 その男の目にとらわれた瞬間は、福蔵は動けなかった。ただ瞳が向いたというだけで、何も映していない不気味な目であったが、少し年下と見える子供と共にいたせいか、助けてやらなければならないと思った。

 福蔵は男に駆け寄り、導こうとした。しかし大人の体を動かせるはずもなく、相手も動こうとしなかったので何も変わらない。

 そうこうしているうちに佐々木家の侍がやってきた。大人一人が加わってくれれば何とかなると期待したが、福蔵と男を引き離した。

 その時の表情が今でも忘れられない。戦場で敵と相対するように激しい顔で、親子を突き放した。そして福蔵も乱暴に門へ引き入れてしまった。

 自分が大人一人を怖れさせることをしたとは思わなかった。しかしどういうわけか、直後に医者が呼ばれ、診察を受けさせられた。何日か経って医者の往診はなくなり、誰もが出来事を忘れたように振る舞ったが、福蔵は侍の行動が不可解なままで、思い切って主である佐々木十兵衛に尋ねた。

「聞いた限りでは、お主が病にかかるかもしれぬと思ったのだろう」

 佐々木はいつもの温厚な表情を見せなかった。それはどんな質問にも答えようという心意気を見せる真摯さであった。

「儂が聞いた話では、その男には疱瘡があったという。それが何かわかるか」

 福蔵は首を振った。病の痕だと佐々木は答えた。

「いくつか呼び名はあるが、この世にはずっと昔から痘瘡という病がある。かかれば高熱に苦しんだ挙げ句死ぬことになる。生き延びても、お主が会った男のような傷跡が残る。特に女子の顔にでも残れば、その後の一生を大きく変えるようなものだ」

 死、という言葉が福蔵には鮮烈だった。心の底が冷え込み、急激に寄る辺のない感じにとらわれてしまう。目の前に佐々木がいると思うとそれは錯覚だとわかるが、死という言葉だけは耳の奥で妙に強く根付いていた。

「この病は人から人へ、風邪のように移る。男のような傷痕は、病が治った証拠ではあるが、その病を完全に外へ出したとは言い切れぬ。お主を入り口に、我が家に病を入れるわけにはいかない。そう考えたのだろう」

「かわいそうに……」

 福蔵の声は何気なかった。福蔵自身、佐々木の声音が変わったところで、自分の言葉に気づいたほどである。

「お主は我が家が滅んでも良いと申すか」

 佐々木の声は低くなっていた。そこにわずかな怒りがあると気づいて福蔵は息を呑む。

 それは一瞬のことであった。叱るわけではない、と佐々木は声音を和らげて言った。

「ただ、痘瘡は誰彼構わず命を奪っていくものでな。特に飢えた者など、弱った者ほどかかりやすいが、それは我らも同じことだ。儂は石黒殿からお主らを任されておる。だからこそ危険に晒すわけにはいかないのだ」

 誰もが自分の身を守ろうとしての行動だったのだろう。一年前に道で行き倒れた女にも、同じような傷痕はあった。母と織紀が引き離そうとしたのも、佐々木と同じ理由であった

はずだ。

 大人たちの愛は感じ取れる。それでも不満が残るのは、自分が愛を受ける陰で救われなかった人がいると思うからだ。

「寄る辺のない人はどうなりますか」

 佐々木は小さく声を上げ、

「難しい言葉を覚えたな。織紀にでも習ったか」

「どうなりますか」

 はぐらかされている感じに苛立って、福蔵は声を大きくした。

「藩も鬼ではない。お救い小屋を建てるなどして、寄る辺のない人々を助けるために動いておる。それでも全てを救うことはできないが」

 佐々木は笑っていたが、内側へ向くような虚ろさが見て取れた。

「藩としてするべきことはしているだろう。その後のことは、どうしようもない」

 諦めが混じったような声に、福蔵はこれ以上話をしたくないと暗に言われたような気がした。疑問はあって、もっと深く追及したい思いも残っているが、言葉を重ねるほど佐々木が苦しむような気がして、福蔵は礼を言って佐々木から離れた。

 佐々木は決して身内だけを大事にする人間ではなかったのだと三年を経てからわかってきた。ただ、身内を守るだけで精一杯の状況に抗う力と立場がなかっただけだろう。

 そして彼は、そんな現実に歯がゆさを覚えているようだった。どうしようもないと言った時に笑い飛ばせばいくらか楽になれたはずだが、そうしなかったのは佐々木という男の優しさであった。

 そんな佐々木から餞別のようにもらった言葉は、誰かの役に立てる人間になれ、であった。

「誰かを助けてやれる人間、役に立てる人間は強く、貴重なものだ。せっかく生きているのなら、そういう人間が一番良い」

 佐々木の言葉は、そのまま自分自身に向いているようにも聞こえた。まるでそうではない自分を戒めるように求めているようであった。

「佐々木様が助けてくださったことは、わたしたちにとっては僥倖でした」

 返礼のように言ったのは母であった。同じ気持ちがあったのかわからないが、彼は一瞬意外そうな顔をして、

「そうか。儂が助けたか」

 母の言葉を噛みしめるように呟き、笑みを浮かべた。

 佐々木が昼間くれた言葉は、夜に家族で団らんの時を過ごしている間も生きている。何ができるかなどわからないが、佐々木の言葉が一つの目標になるような気がする。

 ふと、今まで見過ごすことしかできなかった人々が思い出された。それは罪悪感のような歯がゆさを連れてくるが、もしも彼らを救えたなら、という気持ちも育ててくれる。誰かに仕える経験もない自分に何ができるかわからないのに、福蔵は彼らをどこかへすくい上げてやりたい気持ちになった。

 季節が巡るといつも一緒に過ごしていた家族が離れていく時が来る。最初にその機会を得たのは兄の織紀で、彼は父の遠慮が解かれた天保七年に菊地奥右衛門に仕えていた。菊地は石黒家の家族が散り散りとなって空いていた屋敷を任された男であり、彼の傍に仕えることで石黒家の長男が屋敷に戻ることになった。元々申し合わせてあったことだと後に聞いたが、福蔵は少しずつ元の形に戻っていくようで感慨深いものを感じていた。

 その一方で、兄が石黒家の長男として輝きを手にしていく中で深くなっていく影を福蔵は感じていた。福蔵自身、自分が生きている世界の構造がわかりはじめていた頃である。何らかの才や天運でもない限り、兄の代理を務めることしか生きる理由を見いだせない。その機会が訪れるとは限らないし、腕っ節の強い織紀が病に倒れるとも思えない。

 そうまで考えた時、兄に不幸があってほしいと願う心に気づいて福蔵は慄然とした。自分ではどうしようもないことにとらわれて腐ったとは言え、絶対に見られたくない醜さが自身の奥に巣くっている。それだけで自分が人を救うに相応しいとは思えなくなった。

 その悩みにとらわれる暇もやがてなくなった。福蔵の行く末が決まったのは天保十年のことである。形右衛門に呼び出された福蔵は、医家である高橋六左衛門の名をこの時初めて知った。

「この高橋家は長く続く医家だが、六左衛門殿が病にて長くないそうだ。福蔵、お前が末期養子としてこの家を継ぐことになった」

 父の言葉には一切の反論を許さない強さがあった。既に決まっていることであり、ここで子供がいくら声を上げても誰も聞く者はいないだろう。それが自分の生きている世界の常識である。行く末が決まったことは一安心だが、自分ではどうしようもない世の流れにとらわれているのはぞっとしない、そんな思いも確かにあった。

「私は石黒家をもはや名乗れないのですか」

 父は頷いたが、わずかなためらいを見た気がした。

「今後は高橋を名乗ることになる」

「医家ということは、私は医術を学ぶことになるのですか」

「そうだ。お前は織紀のように強い体や腕っ節を持っているわけではないが、知恵の回りは負けていない。学者のような役目の方が向いているだろう」

 父なりに息子の行く末を考えた結果、このような形で送り出してくれるらしい。福蔵は戸惑いがちに話を受けたが、微かに父の愛があるような気がした。

 福蔵が高橋家に入ったのは天保十年八月七日のことである。福蔵は四年後の天保十四年に久三郎と改名する。高橋六左衛門も亡くなり、高橋久三郎として家を継ぐことになる。

 高橋久三郎、高橋痘庵として医学史に名を残したのは後のことである。

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