花摘

haru-kana

第1話

 川原町の屋敷を出てから家族が別々の行き先へ散ったのを見ると、ただ事ではないことが否応なしにわかる。福蔵は父や祖父母の見たこともないほど寂しげな背中に後ろ髪を引かれる思いを感じたが、兄の織紀に厳しい声で促されて母親の後を追った。

「どこへ行くの」

 妹のおかじが傍を歩く母に訊いた。夕餉の時には再び家族が揃うと疑わないような気楽さである。

「佐々木様というお方のところです。これからしばらくは、主である十兵衛様のお世話になります」

「それはいつまでですか」

 母の顔を見上げずに訊いた織紀の声は硬い。それぞれに返事をしてやる母の背を見ていると、福蔵は目の端に近づいてくる人の姿を留めた。

 三日ぶりの晴天とはいえ、降り積もった雪が放つ冷気は強い。その割に羽織は夏物のように薄く、雪の上を歩くのに足袋も履いていない。それでいて被り物は顔を完全に隠すほど深く着けている。

 福蔵は寄る辺の無い老人が歩いてくるのだと思った。腰を曲げ、足を引きずるような歩き方は母よりも年下では有り得ないだろうし、羽織から覗く手は異様に骨が浮き出て見える。

 その手が、織紀の肩に引っかかった。母を見遣っていた彼は気にした様子もなく歩き去ろうとしたが、相手の方は足を払われたように倒れ込んだ。

 突然の出来事に福蔵は息を呑んで立ち尽くす。転んだ弾みで被り物がはだけ、ただれが点々と広がる顔が露わになっていた。老人だと思っていたが、肌にはそれなりに張りがあってしわも見えない。正体は母よりも若い女であった。

受け身を取らずに胸を強く打ち付けたせいかしばらく喘いでいたが、それが落ち着くと彼女は這いつくばったまま目線を上げる。その剣呑に見える目つきと容貌の面妖さから、福蔵は妖怪に睨まれたような恐怖に囚われた。

「福蔵、何をしているのですか」

 遠くに聞こえた母の声で、福蔵は我に返った。相手も腕を突っ張って立ち上がろうとしているが、その動きはひどくのろい。骨そのものに見えるほど腕は細い。そして雪の上で手を滑らせ、今度は肩から落ちてしまった。

 ただれた顔の女は喘ぎながら、再び福蔵に目を向けた。直前の睨まれたような感じとは打って変わり、助けを求めるような弱々しさが宿る。

 おずおずと手を伸ばそうとした時、その手が横から無造作に引っ張られた。

「福蔵、関わるな」

 声を上げる間もなく、織紀によって女から引き離された。

 母と妹の元に着いてから顧みると、女はへたばったまま動なくなっていた。素肌が雪に触れているのと同じだろう。起こしてやらなければ凍えてしまうのが目に見える。福蔵は母や兄に助けを求めようとしたが、二人は足早に離れていく。川原町の外は全くの未知である。母が頼りの福蔵は女を何度か振り返りながら、仕方なく母を追った。

 母は時々振り返りながら歩み、やがて足を止めた。黒板塀に板葺屋根の門を持った屋敷である。生まれ育った屋敷に似ていたが、

「わたしたちはこれから佐々木家に世話になる身です。決して粗相のないように」

 母の硬い声に、決して気楽な訪いではないと思った。

 門の中に向けて母が訪いを告げると、ややあって侍らしき男が現れた。厳つい顔ながら丁寧な言葉を遣い、そつなく親子を屋敷へ案内する。主人の佐々木十兵衛に引き合わせると、一礼して立ち去った。

「雪がやんで良かったが、それでも寒かったでしょう」

 どんな相手が来るのかと身構えていた福蔵は、佐々木の柔和な面相に少し安堵した。子供には少し身をかがめて目の高さを合わそうとする姿に、男の気遣いが見て取れた。

「いつまでか、お世話になります」

「事情は聞き及んでおります。まずは休まれるがよろしかろう。皆寒い中を歩いたのでは疲れたであろうし。お主らもそうであろう」

 そう言って佐々木は、低めた目線を一つずつ配っていった。織紀は顎を引いてまっすぐ受け止め、かじは目を逸らした。福蔵は眼差しに温かみを感じ、素直に見つめ返す。佐々木は満足げに笑って姿勢を正した。

 それから佐々木が母と交わした会話の多くは、福蔵にはわからないことばかりであった。端々に父形右衛門の名が表れるが、二人は決して明るい表情を見せない。

「形右衛門殿は今頃長野村でしょうか」

「そのはずです。義父と義母も、武藤五郎兵衛様の元へ身を寄せております。飢饉で苦しい時期にわたしたちを受け入れてくれたことは、まことにありがたいことです」

「石黒家とは長い付き合いがありますから、お気になさることはありません。形右衛門殿の遠慮も、やがては終わりましょう。某も武藤殿も、引き受けたからには飢えさせることなどしませぬ故、ご安心くだされ」

 会話を交わす内に、強ばっていた母の表情が和らいでいった。佐々木に感じた人柄の温かさが母にも通じたようで、福蔵は心強いものを感じる。二人の交わす会話を聞くうち、父や祖父母と再会できる日はすぐにやってこないことを悟ったが、佐々木の元で暮らすことは決して嫌なものにはならないだろう。それが救いであった。

 佐々木に勧められて湯殿で体を温め、気分が良くなったところで床に就くと間もなく眠りに落ちた。それから目覚めると、間もなく夕餉であった。

 木の碗には少ないながら白飯が盛られ、芋の入った汁や漬け物、魚が脇を固めている。それらが膳に乗せられて一人ずつ行き渡る。佐々木の号令で夕餉は始まるが、福蔵は母がなかなか箸をつけないので焦れったい思いをしながら動かずにいた。

「どうなされた、食べる気になれませぬか」

 妻と並んで座る佐々木は、真正面の母を気遣うような声を出した。

「いいえ、いただきます」

 そう言いながら箸を取った母に倣い、三人揃って食事に手をつける。それでも母の食事は遠慮があって、箸の運びにも迷いが見えた。

「もしや、飢饉のことを気にされているのでは」

 佐々木の妻は何気ない風を装って言ったが、的を射ていたのか箸先で掴んだ魚が皿へ滑り落ちた。

「蓄えのことを思うと、なかなか」

 母の心中が福蔵にも何となく読めた。ここで自分たちが佐々木家の蓄えを口にして、十兵衛らが割を食うのではないかと心配しているようだった。

「その心配は要りません。乗り切れるようにしてあります故」

 母は申し訳なさそうな面持ちを変えなかったが、

「親が食べなければ、子も食べられませぬ」

 佐々木の妻の諭すような声で目覚めたように、再び魚を摘まんで口に入れた。

 福蔵もそれに倣い、織紀やかじも食事を進めた。夕餉が終わると、湯浴みの後に休んだ部屋へ戻り、下男が準備した布団に体を横たえる。織紀やかじは間もなく寝息を立て始めたが、福蔵はなかなか眠りに落ちることができず、つい唸りが漏れてしまう。

「眠れませんか。疲れていたとはいえ、昼に寝たのがいけなかったかもしれません」

 ふと母がささやくような声をかけてきた。起きているのかどうか確かめるように控え目であった。福蔵は少し迷い、

「うまく眠れません」

 素直に口を開いた。

「それはわたしも同じです。困りましたね」

 母は苦笑したようだった。声が少し弾んだ。

 その声は柔らかく染みこんでくる。そんな声の持ち主が、どうして助けを求めていた人を見殺しにしたのか。福蔵は急に、母が何か知らないものを抱いているように思えてきた。

「母上」

 呼びかけに母が応じる。その途端、福蔵は訊きたいことを飲み込んだ。

「どうかした、福蔵」

 福蔵は声を封じたままだったが、訊きたいことを飲み下せないままだった。

「訊きたいことがあるなら、訊いて良いのですよ。子供が訊くのは当然のことです」

 わずかな間隙を縫って、母の手が福蔵の疑問を引き抜いたようだった。その頃合は絶妙で、

「どうして食べられる人と、そうでない人がいるのですか」

 気づいたらそんなことを訊いていた。

「あの行き倒れのことを訊いているのですか」

 母の声は少し冴えたように聞こえた。

「兄上は関わるなと言いました」

「それを言ったのはわたしです」

「どうして。困っているなら助けないと」

「わたしも皆も、大事に思っている人を助けることしかできません。あの人はそうではなかったから、関わってはいけない。もし関わったら、佐々木様はわたしたちを受け入れてくれなかったかもしれない」

 言葉を重ねるうちに、母の声は低くなっていった。叱られているわけではないのに、福蔵は胸の底が冷え込む感じがした。

「福蔵、少し時間が経てばわかるでしょう。誰かを助けようとすれば、誰かが苦しむこともあるのだと。もうこのことは忘れなければいけません。わたしも話しません」

 そう言って母の方から沈黙の気配が流れてきた。その後は、福蔵がいくら話しかけても返事一つしてくれなくなった。仕方なく目を閉じる。するうち、母の方からも寝息が聞こえてきた。その三人分の寝息が聞こえなくなるまで、かなり長い時間を要した気がした。

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