絡新婦の話

目を離せないのに本能が忌避する存在。

僕は彼女を心の中で絡新婦と呼んでいた。


馴染みのバーのカウンター席。

橙色の調光。夜更け近くで客入りは疎ら。

ジャズミュージックが軽やか流れ、耳を楽しませる。

不意に背中から「こんばんは」と声がかかる。

空気に溶け出しそうな深みのある女性の声に、僕は彼女だと直ぐに気付く。

「隣、いい?」

控え目な上目遣い。薄暗い照明に色白の肌がぼんやり明る。

微笑みながらもどこか心細く見え、思わず手を伸べてしまう。そうすれば彼女はごく自然にその手をとり、危なげな様子で背の高い椅子に腰掛ける。そして、ほっとしたように目を見つめ微笑むのだ。

「ありがとう」

その頼りない一挙一動に手を貸させることで、相手の保護欲が少しばかり満たされることを、彼女は知っている。

「今日は来てくれて嬉しい」

華奢なカクテルグラス。賑やかな酒場でさえ、この人はひっそりと話す。

「実を言うと、もう逢ってもらえないんじゃないかって不安だったの。ーーなんて、こんなことを言ったら失礼ね。ごめんなさい」

眉を垂れた控え目な表情。こちらを熱っぽく見つめる瞳が煌めいて見えるのは、彼女の本心なのか、それとも照明の仕業か。

つられて僕は微笑み返す。白々しくも、「そんなはずないじゃないか」と。

彼女ははにかむ。恋を知ったばかりの少女の様相。

ざわざわと騒ぐ胸騒ぎに、眩暈を覚えそうになる。

「どうして不安に思ったのさ」

不自然にならないよう彼女から目を逸らして、僕は聞く。

彼女がそう質問して欲しがっていることがひしひしと感じられたからだ。

儚げなこの人は困ったように、ううんと小さく声を漏らした。

「それに答えるのは難しいわ。貴方についてわからないことだらけなのに、何故だかつまらない考えに囚われてしまって、不安ばかりが先に立つの」

「君は僕のことをもうよく知っているだろ」

「やだ、貴方のことを知ってるなんて、そんなおこがましいこととても言えない」慌てた素振りでふるりと頭を振る。「ーーただ、そうね。見立てがないでもないの」

立場を弁えた物言いと思わせぶりな口振りは、相手の耳を引き付けるのに相応しい。

そうすると、僕は言葉の先を促すしかできない。

「どんな?」

「そうねーー貴方はいつも冷静。場の状況や相手の期待を汲み取って、誰の気持ちも害さないよう振る舞える人。例えそれが、自分の本音を押さえつけることになっても」

どうかしら? 薄紅の唇は答え合わせを求めるように僕を見つめた。

「買いかぶりすぎだ。僕はそこまで利他的じゃない」

「そうなの?」

自分の論にこだわる気はないと態度で告げてくる。彼女は無邪気な調子で、そうなのねぇと納得してみせる。

雲のようにふわふわとした掴み所のない人。

柔らかいのに、強硬だ。

僕はずっと、言い知れない圧力に気圧されて、息苦しい思いだった。

早く酸素を得るためにもっと他愛もない話題にすり替えたいのに、それを許さない空気がある。

彼女の本質はきっと、口よりも表情よりも仕草よりも、その瞳に現れているんだと思う。

穏やかな表情の中で、彼女の目が、僕が問うべき次の質問を指示してくる。

「ーー仮に君の見立て通りだったとして、何を不安に思うことがあるのさ」

指示に従う僕に、彼女は最上級の微笑みをくれた。

「だってーー」

真摯に見つめてくる瞳。

「私は貴方のことが大好きだから」

それは、イミテーションの純真無垢。

「貴方と話していると、時々、貴方も私を好ましく思ってくれてるんじゃないかと思うことがあるの。けれど反面、貴方は単に私の期待を汲んで応えてくれているだけなんじゃないかと思うこともあるの。貴方が私をどう思ってくれているかがわからなくてーーだから、不安」

天気の話でもするかのようにさり気なく。

世間知らずの令嬢のように気負いなく。

「なんだかずっと不安で、困ってるの」

つい反射的に手を差し伸べたくなるような、手を取って助けて微笑みを貰いたくなるような。そんな衝動を掻き立てる、甘く匂い立つ期待。

意識的な打算か、本能的な謀略か。

見え透いているだけに、僕の配役は明らかで、シナリオは王道に倣っていて、逆らうよりも流れに与する方が楽なのは明らかだった。

「貴方も、誰かのことが四六時中頭から離れなかったことってある?」

「ある」

「こんなに誰かを想えるって素敵なことよね」

「そうだね」

「いま、特別な方はいないのよね」

「ああ」

僕の答えに、花はぱっと可憐に花開き、けれども一瞬後には、不安のなか夜露に濡れる儚さで微笑みを翳らせる。

感情を揺さぶる演出に、やはりこの人は絡新婦だと思う。

繊細な声は、しかし、いつだって明瞭なのだ。

「貴方のことが好きなの。私の恋人になってほしいわ」










嫌だよ、と答えた僕に。

彼女は一言、「ざんねん」と唇を尖らせた。

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誰かの話 亜月 @atsuki

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