兄の話

寡黙で浮世離れした、人ではない何か。

兄の印象を言葉で表現しろと言われたら、きっと私はそう答えるだろう。



我が家は四人と一匹家族。構成要素については、わざわざ説明するまでもないと思うけれども、父と母と兄と私、それから年老いた三毛猫が一匹だ。

アットホームを絵に描いたような家族とは言えないが、仲が悪いわけでもない。父も母も共働きなため、四人揃って夕飯を食べるのは週に2回程度。大抵は兄と私の二人で食べたり、それぞれ勝手に食べたり、割と自由だ。

そんな生活スタイルだから、家族の中で兄の異様に勘付いているのは、たぶん私一人だ。

父と母は、兄を「しっかり者だけど、どこかぼんやりした所のあるマイペースな息子」ぐらいにしか思っていないだろう。実際、兄は成績優秀で、運動も平均以上にできる。趣味は読書で、反抗期とは無縁。外向的とは言い難いが、ご近所の奥様方からの評判は良い。欠点といえば、やけに寡黙すぎる所と、あと大怪我が多いことくらいだ。

両親はあまりの発語数の少なさに初めは知恵遅れを疑ったらしい。しかし、知能テストの結果が人並み以上であることから、最後はそれを兄の個性と結論付けたようだ。以来、彼の異様さはマイペースの一言で片付けられている。

だが私は知っている。

兄は、異質だ。

「にぃ、今日はハンバーグだよ」

「うん」

高校から帰ってきた兄は、いつも通り部屋着に着替え、夕飯の支度を手伝ってくれる。

私は寡黙な兄を持ってしまったが故か、いつの間にやら「一人で延々としゃべり続けるスキル」を習得してしまったらしく、今日も今日とて相槌ボットである兄相手にくだらない独り言を垂れ流し続ける。

一度でいいから兄の口から気の利いた冗談の一つでも聞いてみたいものだ。

それによって翌日天地がひっくり返ることになったとしても、私は後悔しないだろう。

「みぃこがね、帰ってきたらいなくって、私すっごい探したの。呼んでも返事しないし、猫缶を開けても飛んでこないし。もうどっかいなくなっちゃったのかと思って心配で。ほら、猫って死ぬ時は人間の前から姿を消すってよく言うでしょ? みぃこがいなくなったら、私、泣くよ。ぜったい泣く」

兄がお皿を洗う係で、私はそれを拭く係。

兄は話を聞く係で、私は沈黙を埋めるべく話し続ける係。

この役割分担は、生まれる前から宿命付けられていたに違いない。

「でね、必死で探したのよ。ベッドの下も、お風呂場も、靴箱の中までぜーんぶさがしたの。それでも見つからないから不安で不安で。ーーでもね、見つかったの。もうびっくり。どこから見つかったと思う?」

兄はここで首をかしげる。リアクションは以上、終わり。いつもそう。

「ーーなんとね、パパのスーツケースの中にいたの!! パパ、明日から出張でしょ? 支度途中で出かけたから開けっぱなしになってて。私、何回もその横通ってたのに気付かなくって。入れられてた服の下に潜ってたのよ? ほんとびっくり」

兄は重たくうんと頷く。

年老いた賢者みたいに神妙な顔でーーでもそれもいつも通り。

私は今日も溜息をつきたくなる。

この寡黙な兄と二人は骨が折れるのだ。

「みぃこ、パパと一緒に行きたかったのかな」



お皿洗いが終わったら、私たちは順番にお風呂に入る。私が先で、兄が後。私はお風呂から上がったらさっさと部屋に戻る。

兄のことは好きだけど、それ以上に苦手だ。

優しい兄だと思う。自慢の兄でもある。

実際、兄を知っている友達からは羨ましがられる。高スペックであることは否定しない。顔だってまあまあ良いし、背も高い。買い物に行けば荷物は全部持ってくれるし、気付けば車道側を歩いてくれている。帰りが遅くなれば駅まで迎えに来てくれるしーー大事に守られていると、実感している。

ただ、一つ。どうしても、見過ごせない。

一緒にいればいるほど感じる。

まるで。

次元の違う生き物と対峙しているような、違和感。

私は決して洞察に長けているとは言えないが、それでもずっと一緒にいれば、少なからず相手の喜怒哀楽の法則が見えてくるものだと思う。

ただ、彼に関してはそれが全く見えない。

不透明で、不鮮明で、不確実でーー不動。

底の見えない穴ぐらを覗き込んでいる気分になる。

両親や友達や学校の大人たちを見て培ってきた経験や感覚が、兄一人に揺さ振られ、覆されてしまいそうな不安。

何故、両親は平気でいられるのだろうと不思議に思う。

この人はこんなに異質なのに。



私は今日も足音を忍ばせてリビングへ向かう。

兄はお風呂から上がると、すぐには部屋に戻らず、少しの間だけリビングで過ごす。大抵、みぃこが一緒にいる。

私はそれを隠れて覗き見る。

扉の向こうから、にゃあと嗄れた鳴き声がした。

滅多に鳴かないみぃこだが、兄と二人の時だけはやけに鳴く。

私が役割を負っているのとはちょっと違う。

彼女は進んで、あの人にだけは話をするのだ。

うん、うん、静かで穏やかないつも通りの相槌。

猫相手に。あまりに自然で、それが不自然で、首筋が粟立つ。

兄は返事する。

「わかったーー大丈夫、心配ない」



夜中、兄は家の階段から転がり落ちて意識不明になった。

子供思いの両親は、兄が目覚めるまでの丸2日仕事を休み、付きっきりで看病をした。

兄が目覚めるのを待つ間、私はいつも通りくだらない話で沈黙を埋める。

ほんとにこの子はぼんやりしてるんだから、と嘆く母に大袈裟に同意しながらも、どうしてだか兄とみぃこの会話が頭の中で反芻していた。

兄はやけに大怪我が多い。それも、両親が遠出をする直前に。

目覚めた兄は、照れ臭そうに微笑んでみせる。

「心配かけて、ごめん」

余計なことなど一切言わない兄は、一言発してまた口をつぐむ。

自分はそう在るべきと悟っているかのように。

ふと、兄と目が合う。

私を見た彼が、少し困った顔をした。

恐らく私が気付いていることに気付いているのだ。

みぃこはこの人に何を話したのだろう。

隣のベッドに置かれたラジオでは、リポーターが熱っぽく大きな事件の発生を訴えている。まるで世界が明日終わるかのようだ。「昨日、○○県××市の路上で大型トラックが歩道に突っ込み、死傷者はーー」

ああ、その場所は、父の出張先ではなかっただろうか?


ーー大丈夫、心配ない。


兄の目が、私にそう言った気がした。

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