5
まだ、絵本の主人公になるような、そんな大それた何かは起こっていなかった。
オルカと一緒に海に出ては、ふたりしてぼろぼろになって帰ってきたりだとか。
私のあげた鱗を使わずに海に潜って(ニンゲンにしてはかなり持ったほうだ。)、溺れかけたり。
そんな、当たり前の小さな“冒険”を、彼は繰り返していた。
その頃の彼を思い出す時、その顔はいつも笑顔だった。
――ただ、それが全てではない。
まだ幼い頃の彼は、やっぱり相応の寂しさを感じていたようで。
←
オルカの姿が見えず、彼は泣いた。
雨のような泣き方だった。
両手で両目を蓋するように押さえ、しゃくり上げを嫌うように。
涙は次々と溢れ、海の水に融けていくのに。
声ひとつ上げずに、静かに泣いていた。
私が近づくと、彼はびくりと肩を震わせ、海草のシーツに身を包んでしまう。
異常を察知したオルカが姿を見せるまで、彼はそんな風に、私が彼に触れるのを拒むように、泣いていた。
正直、ものすごくショックだった。
私は――いや、私達は、どうしようもなく、ニンゲンの高すぎる体温が苦手だ。
だっていうのに、私はこの子のオムツだって数え切れないくらい換えたと言うのに!
この子はそんなことお構いなしに、自分が悲しい時に私たちを拒絶した。
――だから、彼がその手で触れて、安心できるものは、黒く滑らかなオルカの肌だけだったのだ。
まるで、四つ目の呪い。
→
――出逢ったときを思い出す。満天の星と三日月の光に照らされた美しい夜だった。
私はオルカと海面から顔だけ出して、岩礁の上に立つ少年を見ている。
健康的に日焼けした肌。
逞しく引き締まった身体。
紅茶色の髪。
彼は何やら難しい顔で、自分の開いた右手をじっと見つめている。
なにやらよくわからないけれど、彼は覚悟? を決めようとしているようだった。
そして――
「……っっだ、っはぁー!」
ダメだったらしい。
都合三回ほど、同じことを繰り返して。
よくわからない、四度目の挑戦。
彼は意を決して、
ぱきゅり、と自分の右手の薬指の爪を、左手で剥ぎ取っていた。
「~~~~~~ッ!!!!!」
そして悶絶していた。
「ちょっとアンタなにやってんの!?」
「はッ!? ちょっ人魚ちゃんなに見てんの!?」
「驚いてるのはこっちよ!?」
オルカ「ギー」
「はやく見せなさい! 血! 血が出てるじゃない!」
「えっいやイイよ!? こんなん自分でなんとかするし!っていうかやったのオレ自身DEATHし!?」
「いいから見せる。いいね?」
「アッハイ」
オルカ「ギー」
まったくもう、と私は彼の指に包帯を巻いていく。
彼の肌には触れないように。
何年も一緒に暮らしてきて、私はすっかり、ニンゲンの体温の高さよりも――それを拒絶する、私達自身の反応が嫌いになっていた。
「やー……HAHAHA。ごめんねえ、人魚ちゃん」
「まったくよホント。あなた、昔っから突拍子も無い事ばっかりして!」
「うん。ごめん」
「……ま。もう慣れっこだけど」
「ごめん」
「しつこい!もういいか、――ら」
――その時、彼はたぶん。
嬉しくて、そして悲しかったのだろう。そんな、笑顔とも泣き顔とも取れる顔をしていた。
よく、わからないのだけれど。
……彼が色々と探していたもののひとつが見つかったような、気がした。
本当に、私にはよくわからなかったのだけれど。
なので。
「……べつに、いいって言ってるでしょ。はい、おしまい!」
最後にきゅっと包帯を締める。
それで彼は、アウチ、と情けない声をあげて笑ってくれた。
「そうそう! そういえばさ人魚ちゃん!」
彼は小さな箱を取り出した。
「なあに、坊や」
「ふっ。長年続いたその坊やって呼ばれるハズカシメに終止符を打つねッ!」
辱めだったのか。
私の知らない、陸での世界。そこで彼は色々と――そう。ニンゲンらしい物事を、学んだのだろう。
「見よ! そして驚け! 更に感動して! 最後に拍手を!!」
彼はじゃーん! と箱の蓋を開ける。
「え。なにこれ」
中には陶器――の意味を限界まで無くす粉砕っぷり。元がカップだったのか皿だったのか両方だったのか、それとも花瓶か何かだったかとりあえずよくわからないけど元陶器であるっぽい何かの残骸が入っていた。
「え。なにこれ」
「わっかんないかー! そっかー! オレもこれが元々何かわかんないね!」
HAHAHA!と爆笑する少年。
寝返りをうつオルカ。
なにこれ。
その陶器は、白波を思わせる色彩で作られていた。こうも破片と化していればもう価値は無きに等しい。
にも関わらず、うちの坊やはそれを宝物のように私に見せるわけで。
――ほんとうに、こどもなのは何年経っても変わらない。おねえさんはちょっと心配だよ。
一際分厚い部分を「あーでもないこーでもない」とパズルする彼を見ていて……『ニンゲンは娯楽に飢えている』、という話を思い出した。
彼の幼少期を過ごした私達の都は、もしかしたら彼にはとても退屈な世界に映っていたのかもしれない。
多くを奪わず、多くを産まない。
ひそやかな営みを、海砂のように積み上げてきた社会。
この子の命を救った日を、悔やんだ事は無い――それだけで、彼の生命としての素晴らしさが証明できるでしょう?
ただ、色々な思い出の中には……彼の方はどうたったのか、と私に問いかけてくる、鈍い痛みもあるわけで。
私達がニンゲンに感じる嫌悪以上に、私達と触れ合う事を嫌がったニンゲンの仔。
……キミは、あの日、私に見つかってしまったことを、後悔してはいない――?
「でーきたっ! 完成!」
……おそらく、花瓶の類だと思われる陶器――の破片の底、が彼の手の中にあった。
「これ! 陸の子にも海の子にも聞いたんだけどさ! 誰も知らないんだ! 皆口を揃えて「無名の職人じゃないか?」って言うんだぜ! ならイイかなって!」
底には製作者――あるいは、その一派の銘が入っている。
“Richard Ginori” リヒ……? ううん、
「“リチャード・ジノリ”?」
「そ! リチャード=ジノリね! オレの名前! 誰も知らないじゃん? じゃあ、この世界には無いってことなんだよ! イイじゃんオレにお似合いじゃん!」
「――――」
――たぶん、これが彼の本質だ。
“海の者が、この赤子に名前をつけてはいけない”
与えられないことを諦めずに。自分の手で掴み取る。
確かに私たちは彼に名前を与えることを禁じられてはいた。
でも、それが。彼が自分で手に入れた“成果”なら……?
「リチャード……」
「YES! ね、人魚ちゃん。唄ってよ!」
にっ! と真夜中に太陽のような笑顔が咲く。
キミの歌が好きなんだ、と。
「……い、いつまで経っても、甘えん坊ね」
震えるな、私の声。
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