1
お婆様の言い付けを破って、夜の海上に出た時のこと。
空には三日月が輝いている。新月まではあと一週間ほど。
水面に浮かび、宙を見る。
私が背をあずけているのが海なのか。それとも私が見ているものが海なのか。
雲ひとつない、文句無し、天地――もとい、天と海の境界が限りなくゼロに近い世界。
そしておそらく。彼の、一番だった世界。何もなかった器に注がれた、ただひとつの原風景。
(――大いなる流れを揺り篭に。私は
誰も邪魔をしない。泳ぐ魚も眠りについて、空を渡る鳥もどこかで羽根を休めている。
だから、こんな時に私の邪魔をするのはいつだって……ニンゲンと呼ばれる、
お婆様は口を酸っぱくしながら毎日のように言う。
『ニンゲンと関わってはならないよ。奴等は
お
歌でも唄ってしまおうか。誰も聞いていないから、それで沈むことはないだろうし。
そもそも沈んでしまえば良いのだろうし。
――?
なので。
水平線と空の境界をぼんやり
星明かりに照らされる海面。ゆらゆら揺れる、木でできた箱。
箱だろう。四角くはないけれど。
ソレを『船』と言うには、あまりにもお粗末だ。
いったいどこから流れてきたのだろう。まったくもってよろしくない。
私達はそもそも、木と関わること自体が本当に稀。それで何かを作るだなんて皆無に等しい。
だから、つまりだ。
私は、私だけが独占していた気分になれた世界を、ニンゲンの作ったモノひとつで侵犯されたことを、思いっきり腹立たしく思ったのだ。
沈めてしまおう。
海底に迷惑がかかるけれど、
私は尾びれを一掻きして、ずずいと木箱に近づいて
「――――――――」
、瞬間。全てを奪われた。
積み荷は一つ。木箱の蓋は、開いていた。
『いいかい。アタシらの平穏を乱すのはいつだってニンゲンさ。奴等にゃいのちとしての道理がない。奪う為に奪う。お前が他の海の生き物に襲われたって、互いに生きて食らう為さ。アタシらが生きる為に食うのと同じさね。関わるでないよ』
――お婆様の言いつけは正しかった。
ソレを一目見た瞬間に、私の平穏はそれはもうぐっちゃぐちゃにかき乱されてしまったのだから。
――閉じる力さえなくしたのだろう、夜の海の色をした瞳は、唯一視る事を許された
見つけてしまったことに後悔を繰り返す。何もしなければ。こんなちっぽけな箱、気に留めなければそれで私の心は平穏だったのに、と。
――薄い布に包まれた身体。これでは四肢の一本さえ動かすことはできないだろう。
そして、激しい嫌悪が私を襲う。まだその自由さえ手に入れる前の段階だ、これは。
――いったい何を願われてこの海に浮かんでいるのだろう。せめて、愛情のひとつでも
――
木箱と
たとえば、海の上でニンゲンが海賊と言われる種類のニンゲンに襲われて、生まれたばかりのこの子を、祈りを込めて海へ託したのだとか。
そういった痕跡は見つけられない。そんな暇さえ無かった? ならそもそもにして木箱に置いたりしないだろう。
名前を記した何かも、その後を託す為の――よくある話でたとえるなら、出自のわかる装飾品や、もうこの際、銅貨の一枚でもあってくれたのなら。
そんな
たとえば。望まれぬいのちだったとしたら?
だとすれば、そのまま海に放り投げてしまえば良かったのに。そうすれば、この子の周りにとっては望まれていなくとも、海の生き物の糧になることで、最低限のいのちとして、生まれたばかりながらにできることはあったというのに。
――ほんとうに。こればっかりは答えられない。
この日に、彼がこの蒼い
……これが、よくある《特別な人物》の始まりだとしたら、かなり近いものがある。
英雄譚にうたわれる彼らの最初が、往々にしてそう在るように。
赤子は泣いてはいなかった。
――けれど残念ながら、これはそういうモノではない。
生まれついての資質だとか、そういうことではない。
だから、それがこんなにも私の胸に響くのだ。
赤子は泣いてはいなかった。
――およそ全てのいのちに与えられた、けれどそれを全うできる者は一握り以下の権利。
だから。そんじょそこらの英雄譚よりもずっとずっと、私はそれを、奇跡なのだと思ったのだ。
――
自分にできる、全てを
矛盾しているけれど。幼い頃は誰かが助けてくれたりもするのだ。出来ないことは、別の誰かが補ってくれる。
大きくなったら、十の力を全部使わないで良いように振舞う。生涯は続いていくのだし。全力を出した後で終わってしまうのなら、いのちとして本末転倒だ。
生まれたばかりの赤子にできることは、泣くことだけだ。
魚のように、最初から自分で動くことなんてできないから。
泣いていないのは、この子にとって当たり前なのだろう。
――この赤子は、自分にできる全て――つまり、力の限り泣いてしまって。
それでもう、他にできることは何一つないから。
機能し始めたばかりの喉は、すでに使いきられてしまっていたのだ。
誰もいない、という絶望を理解するほどにも満たない知性。
誰かがいる、という希望が持てるほどの余分など生まれていない精神。
だから思う。
この子は、自らを使いきることの出来た、数少ない奇跡の産物だと。
だけど、それももうお
自らを使いきったこの子は、やがて当然のように来る、そのいのちの終わりをただ、待っている。
私はニンゲンなんて知らないから、ニンゲンの赤子を救いたいと思ってしまって、でもそれができない。
だから、この子の話はこれでお
見上げているのは原初の星空。雫さえ落ちそうな三日月の夜。
『いいかい。間違ったってニンゲンと関わってはいけないよ――』
お婆様もそう言っていた。
木箱の中には、いまにも消えそうないのちの
――でも。
私は救ってはいけない、という事がどうしても嫌だった。
でもどうやって?
浜辺に押し上げようか――駄目だ。おそらく、このままではこの子は朝まで保たない。
夜が明けて、ニンゲンの誰かに見つかるまでに賭けるなんて、それでは私は、この子を箱に入れた何者かと変わりが無くなってしまう。それは嫌だ。
この時間に入り江へ訪れているニンゲンに託す?
それも駄目だ。この子にでさえ持て余す“ニンゲン”になんて、とても関わっていられない。
私にできることは、何なのだろう。
――あるいは。見つけてしまった、という。“できなかった誰か”の代わりに責任を負って、私がこの子を――す事?
『ニンゲンというのは身勝手で、』
お婆様。私だって身勝手だ。
海の生き物のいのちを食べているのに。
奪いたくない命を求めている。
そもそも救うと言ったって、私はこの子の何を救えるというのだろうか。
命は、もう諦めなければいけないほど。
では尊厳? ――この子は、悔しいことに。それを独りで成し遂げたと言うのに?
そんな葛藤の中。
ほんの一瞬、星空が瞬きを止めた気がした。
もしそれに気づけていれば、私は少しの痛手も負わずに済んだだろう。
水面が揺れる。私の視界は衝撃で真横にスライドした。
身体に比べて圧倒的な質量。――当てられた? 何を、
飛沫は白く、海は赤子の入った木箱を囲って切り裂かれる。
黒く滑らかな三角形。月明かりに映される漆黒の巨影。
鮫――? ならばどうということもない。
彼等では私を、陸の生き物から海魔のひとつとさえ数えられる人魚の私をどうにかできるものではない。
受けた衝撃に、心が準備を整えられない。
だから、その正体を看破した時。私は不覚にも恐怖を覚えた。
海の中で何物よりも速く泳ぐことができる人魚の身でありながら、だ。
それは私達とルーツの異なるモノ。
あらゆる幻想に
ニンゲンの『海賊』よりも、ずっとずっと昔から恐怖の対象として在り続け、純粋な生き物でありながら海の魔物と呼ばれている種族。
鮫をも狩る獰猛さ。
鯨をも食い散らかす貪欲さ。
イルカを凌駕する狡猾さ。
「――
そう。シャチだ。
黒い、幅広の刃めいた背びれが、赤子を乗せた
冬の訪れない常夏の夜の海で、私は寒気を覚えた。
――あの箱に何が入っているかをコイツは理解している。
遅すぎる警戒……周囲に、他のシャチの気配はない。
「……となると、はぐれか、
……なんとかすれば、私は何をするのだろう。
違う。いまは、そうじゃない。頭を振って、ゆっくりと箱の周りを回るソレを睨む。
幸運なのか不運なのか、今は判別ができない。
シャチは群れで暮らすものと、少数ないし単独で生きるものの二つに大別される。
数、という力のうえでは圧倒的に厄介なのが群れの方――レジデント――だが。
“話のわかる方”もレジデントであるということが、だいたいのシャチに言えることだ。
トランジェントは他者と関わらない。つまり、この海において遠慮をしないということになる。
おまけに彼等にはいつでも『飢えている』というイメージがついてくる。
事実――凶悪さを際立てる白い釣り目に見せかけたアイパッチの下。本当の……今でなければ、つぶらで愛らしい瞳……には、ありありと警戒の色が――
……。警戒……?
カツ。カツ。カツ。カツ。
疑念を覚えた私の耳に、貝を爪弾くような単音が響く。
彼等の言語。
水中で停止した、私の思考と身体。
海の悪魔、と呼ばれたソレは、私の静止をどう受け取ったのか。
背びれが沈み、水中での加速――そして。
先の不意打ちよりも大きな衝撃が、私と私の心を大きく揺るがす。
このシャチは、海面に浮かぶ箱に肉が入っていることをどうやってか理解していた。
しかし、ひっくり返そうなどとはせずにいた。
そして、この夜、不用意に近づいた私を遠ざけようと体当たりを。
或いは
一瞬だけ脳裏に過ぎった、
――“代わりに責任を負って、私がこの子を
赤子へ対する“殺意”を、鋭敏に気取ったのか。
ともあれ、このシャチは箱の中身を……護ろうとしている。
それは、確信だった。
あの旋回は自分の獲物であるというアピールではない。
事実、とても静かに……気づくのは今になって、だが。
自分の起こすうねりが、箱をひっくり返さないように。
おそらくは、私より先に――私は聞く事さえできなかった、あの子の声を、聞いたのだろう。
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