お婆様の言い付けを破って、夜の海上に出た時のこと。



 空には三日月が輝いている。新月まではあと一週間ほど。


 水面に浮かび、宙を見る。


 私が背をあずけているのが海なのか。それとも私が見ているものが海なのか。


 雲ひとつない、文句無し、天地――もとい、天と海の境界が限りなくゼロに近い世界。


 そしておそらく。彼の、一番だった世界。何もなかった器に注がれた、ただひとつの原風景。


(――大いなる流れを揺り篭に。私はうみに抱かれた幼な子のように揺蕩っている。)


 誰も邪魔をしない。泳ぐ魚も眠りについて、空を渡る鳥もどこかで羽根を休めている。



 だから、こんな時に私の邪魔をするのはいつだって……ニンゲンと呼ばれる、おかに生きながら無節操に、無粋に、無遠慮に海へと身を乗り出す連中だけ。


 お婆様は口を酸っぱくしながら毎日のように言う。


『ニンゲンと関わってはならないよ。奴等はさめより血が好きで、くじらよりも大食らいで、イルカよりも賢い。お前のその、美しい髪も、輝く鱗もぜんぶ取られて骨も残りゃしないのだからね』




 お生憎様あいにくさま。今夜は私だけの風景だ。無作法に海上を走り回るノロマな『船』なんて一隻も見えない。


 歌でも唄ってしまおうか。誰も聞いていないから、それで沈むことはないだろうし。


 そもそも沈んでしまえば良いのだろうし。








 ――?


 なので。


 水平線と空の境界をぼんやり鑑賞たんのうしていた私の視界に入ったソレは、だからこそ私の心を乱す事に成功した。


 星明かりに照らされる海面。ゆらゆら揺れる、木でできた


 箱だろう。四角くはないけれど。


 ソレを『船』と言うには、あまりにもお粗末だ。


 かいも無し。あんな大きさではニンゲンの大人ひとりだって乗れやしない。


 いったいどこから流れてきたのだろう。まったくもってよろしくない。


 私達はそもそも、木と関わること自体が本当に稀。それで何かを作るだなんて皆無に等しい。


 だから、つまりだ。


 私は、私だけが独占していた気分になれた世界を、ニンゲンの作ったモノひとつで侵犯されたことを、思いっきり腹立たしく思ったのだ。


 沈めてしまおう。


 海底に迷惑がかかるけれど、おかまで持って行く義理はない。


 私は尾びれを一掻きして、ずずいと木箱に近づいて



「――――――――」


 、瞬間。全てを奪われた。


 積み荷は一つ。木箱の蓋は、開いていた。







『いいかい。アタシらの平穏を乱すのはいつだってニンゲンさ。奴等にゃとしての道理がない。。お前が他の海の生き物に襲われたって、互いに生きて食らう為さ。アタシらが生きる為に食うのと同じさね。関わるでないよ』


 ――お婆様の言いつけは正しかった。


 ソレを一目見た瞬間に、私の平穏はそれはもうぐっちゃぐちゃにかき乱されてしまったのだから。













 ――閉じる力さえなくしたのだろう、夜の海の色をした瞳は、唯一視る事を許されたそらを映している。


 見つけてしまったことに後悔を繰り返す。何もしなければ。こんなちっぽけな箱、気に留めなければそれで私の心は平穏だったのに、と。



 ――薄い布に包まれた身体。これでは四肢の一本さえ動かすことはできないだろう。


 そして、激しい嫌悪が私を襲う。まだその自由さえ手に入れる前の段階だ、これは。



 ――いったい何を願われてこの海に浮かんでいるのだろう。せめて、愛情のひとつでもうかがい知れれば。 あるいは、どうしようもない理由があったのだと。無関係ながらも私は私を納得させられたのかもしれないのに。






 ――嗚呼ああ。広大な海の真ん中で、生まれたばかりのいのちが消えようとしている。


 木箱と見紛みまがう粗末な船。まだ首の据わってもいない、ニンゲンの赤子がそらを眺めていた。





 たとえば、海の上でニンゲンが海賊と言われる種類のニンゲンに襲われて、生まれたばかりのこの子を、祈りを込めて海へ託したのだとか。


 そういった痕跡は見つけられない。そんな暇さえ無かった? ならそもそもにして木箱に置いたりしないだろう。

 名前を記した何かも、その後を託す為の――よくある話でたとえるなら、出自のわかる装飾品や、もうこの際、銅貨の一枚でもあってくれたのなら。


 そんな些細ささいな手間さえ惜しむ生き物なのだろうか。ニンゲンは。




 たとえば。望まれぬいのちだったとしたら?

 だとすれば、そのまま海に放り投げてしまえば良かったのに。そうすれば、この子の周りにとっては望まれていなくとも、海の生き物の糧になることで、最低限のいのちとして、生まれたばかりながらにできることはあったというのに。



 ――ほんとうに。こればっかりは答えられない。


 この日に、彼がこの蒼いよるに独り、漂っていた理由だけは。












 ……これが、よくある《特別な人物》の始まりだとしたら、かなり近いものがある。


 英雄譚にうたわれる彼らの最初が、往々にしてそう在るように。


 赤子は泣いてはいなかった。



 ――けれど残念ながら、これはそういうモノではない。


 生まれついての資質だとか、そういうことではない。


 だから、それがこんなにも私の胸に響くのだ。



 


 ――およそ全てのいのちに与えられた、けれどそれを全うできる者は一握り以下の権利。


 だから。そんじょそこらの英雄譚よりもずっとずっと、私はそれを、奇跡なのだと思ったのだ。




 ――すなわち。掛け値無しに使ということ。そこに、全てを投げ打つこと。

   自分にできる、全てをすこと。


 矛盾しているけれど。幼い頃は誰かが助けてくれたりもするのだ。出来ないことは、別の誰かが補ってくれる。

 大きくなったら、十の力を全部使わないで良いように振舞う。生涯は続いていくのだし。全力を出した後で終わってしまうのなら、いのちとして本末転倒だ。












 生まれたばかりの赤子にできることは、泣くことだけだ。

 魚のように、最初から自分で動くことなんてできないから。


 泣いていないのは、この子にとって当たり前なのだろう。


 ――この赤子は、自分にできる全て――つまり、力の限り泣いてしまって。

 それでもう、他にできることは何一つないから。

 なみださえ、海の風に渇いてしまっている。


 機能し始めたばかりの喉は、使



 誰もいない、という絶望を理解するほどにも満たない知性。

 誰かがいる、という希望が持てるほどの余分など生まれていない精神。



 だから思う。


 この子は、自らを使いきることの出来た、数少ない奇跡の産物だと。




 だけど、それももうおしまい。

 自らを使いきったこの子は、やがて当然のように来る、そのいのちの終わりをただ、待っている。


 私はニンゲンなんて知らないから、ニンゲンの赤子を救いたいと思ってしまって、でもそれができない。




 だから、この子の話はこれでおしまい。




 見上げているのは原初の星空。雫さえ落ちそうな三日月の夜。





『いいかい。間違ったってニンゲンと関わってはいけないよ――』


 お婆様もそう言っていた。


 木箱の中には、いまにも消えそうないのちの灯火ともしび




 ――でも。


 私は救ってはいけない、という事がどうしても嫌だった。




 でもどうやって?


 浜辺に押し上げようか――駄目だ。おそらく、このままではこの子は朝まで保たない。


 夜が明けて、ニンゲンの誰かに見つかるまでに賭けるなんて、それでは私は、この子を箱に入れた何者かと変わりが無くなってしまう。それは嫌だ。


 この時間に入り江へ訪れているニンゲンに託す?


 それも駄目だ。この子にでさえ持て余す“ニンゲン”になんて、とても関わっていられない。






 私にできることは、何なのだろう。





 ――あるいは。見つけてしまった、という。“できなかった誰か”の代わりに責任を負って、私がこの子を――す事?


『ニンゲンというのは身勝手で、』


 お婆様。私だって身勝手だ。


 海の生き物のいのちを食べているのに。

 奪いたくない命を求めている。


 そもそも救うと言ったって、私はこの子の何を救えるというのだろうか。

 命は、もう諦めなければいけないほど。

 では尊厳? ――この子は、悔しいことに。それを独りで成し遂げたと言うのに?


 そんな葛藤の中。




 ほんの一瞬、星空が瞬きを止めた気がした。


 もしに気づけていれば、私は少しの痛手も負わずに済んだだろう。



 水面が揺れる。私の視界は衝撃で真横にスライドした。

 身体に比べて圧倒的な質量。――当てられた? 何を、





 飛沫は白く、海は赤子の入った木箱を囲って切り裂かれる。


 黒く滑らかな三角形。月明かりに映される漆黒の巨影。


 鮫――? 


 彼等では私を、陸の生き物からのひとつとさえ数えられる人魚の私をどうにかできるものではない。







 受けた衝撃に、心が準備を整えられない。


 だから、その正体を看破した時。私は不覚にも恐怖を覚えた。

 海の中で何物よりも速く泳ぐことができる人魚の身でありながら、だ。









 それは私達とルーツの異なるモノ。


 あらゆる幻想にらず、古より海に君臨してきた一族。そして一度は陸に上がり、再び海に還ることに成功したモノの末裔まつえい




 ニンゲンの『海賊』よりも、ずっとずっと昔から恐怖の対象として在り続け、純粋な生き物でありながらと呼ばれている種族。


 鮫をも狩る獰猛さ。


 鯨をも食い散らかす貪欲さ。


 イルカを凌駕する狡猾さ。


     

「――海魔オルカ


 そう。シャチだ。





 黒い、幅広の刃めいた背びれが、赤子を乗せたふねを中心にぐるりと回遊している。



 冬の訪れない常夏の夜の海で、私は寒気を覚えた。














 ――



 遅すぎる警戒……周囲に、他のシャチの気配はない。


「……となると、はぐれか、孤独種トランジェント。だったらコイツさえなんとかすれば、」




 ……なんとかすれば、私は何をするのだろう。


 違う。いまは、そうじゃない。頭を振って、ゆっくりと箱の周りを回るソレを睨む。


 幸運なのか不運なのか、今は判別ができない。

 シャチは群れで暮らすものと、少数ないし単独で生きるものの二つに大別される。


 数、という力のうえでは圧倒的に厄介なのが群れの方――レジデント――だが。


“話のわかる方”もレジデントであるということが、だいたいのシャチに言えることだ。


 トランジェントは他者と関わらない。つまり、この海においてということになる。


 おまけに彼等にはいつでも『飢えている』というイメージがついてくる。


 事実――凶悪さを際立てる白い釣り目に見せかけたアイパッチの下。本当の……今でなければ、つぶらで愛らしい瞳……には、ありありと警戒の色が――


 ……。警戒……?


 カツ。カツ。カツ。カツ。


 疑念を覚えた私の耳に、貝を爪弾くような単音が響く。


 彼等の言語。

 水中で停止した、私の思考と身体。


 海の悪魔、と呼ばれたソレは、私の静止をどう受け取ったのか。


 背びれが沈み、水中での加速――そして。


 先の不意打ちよりも大きな衝撃が、私と私の心を大きく揺るがす。



 このシャチは、海面に浮かぶ箱にが入っていることをどうやってか理解していた。


 しかし、ひっくり返そうなどとはせずにいた。



 そして、この夜、不用意に近づいた私を遠ざけようと体当たりを。



 或いは


 一瞬だけ脳裏に過ぎった、


 ――“代わりに責任を負って、私がこの子を――ころす事?”


 赤子へ対する“殺意”を、鋭敏に気取ったのか。


 ともあれ、このシャチは箱の中身を……



 それは、確信だった。

 あの旋回は自分の獲物であるというアピール


 事実、とても静かに……気づくのは今になって、だが。


 自分の起こすうねりが、箱をひっくり返さないように。


 おそらくは、私より先に――私は聞く事さえできなかった、あの子のを、聞いたのだろう。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る