母との別れ
母が亡くなったのは、もうすぐ桜の花が咲きそうな早春の日だった。
その日、
『……………………ははうえ』
瑛明が、涙声でつぶやく。
『あらあら……、どうしましたの? 瑛明。あなたは泣き虫ね』
母は、残り少ない力を振り絞って瑛明の頬に流れる涙をぬぐう。
瑛明は、その母の右手をすがるように握った。
『そんな……こと……ありません……っ』
『いいえ。あなたは、泣き虫で、どこか抜けているところがあるけれど…………。心がきれいで、誰にでも好かれる、優しい子よ』
瑛凛と瑛明の母――――第五十代目齋王・
『……ははうえ』
瑛明が、ずず……っと鼻水をすする。母に、泣き虫だと言われたからだろう。
瑛凛は、それを黙って見ていた。いや…………そうすることしか、できなかった。
本当は、瑛凛だって瑛明のように母に甘えたかった。母の手を握りたかった。
ははうえ、ははうえ、ははうえ、ははうえ。いかないで……………っ……。いかないで…………いかないで…………いかないで…………っ! おねがいです。わたくしたち姉弟を、おいていかないでください…………ははうえ。
そう……言いたかったけど………。言えなかった。
…………いや。そう言えたら、どれだけよかっただろう。
でも…………わかっていた。
母の残された
だから…………言えなかった。心優しい母に、未練などこの世に残してほしくなかったから。
自分も瑛明みたいに泣いてしまったら、母が安らかに旅立つことができないだろうから。
だから…………わたくしだけは、泣かない。
そんな、意地っ張りで強がりな娘のことを、知っていたのだろう。
美瑛は、瑛明の隣に立つ瑛凛の方に顔を向けた。
『瑛凛。わたくしに、あなたの顔をもっとみせてくださいな』
『はい。ははうえ』
うなずいた瑛凛は、母の口元に耳を寄せる。
そんなさりげない気遣いができる聡い娘の姿に、美瑛は少しだけ悲しそうに微笑んだ。
『瑛凛。この子のことを、よろしくお願いしますね。あなたのたった一人の弟なのだから。また泣いていたら、今度はあなたが慰めてあげてね』
『…………はい。ははうえのおおせのとおりに』
瑛凛は、静かに
顔の目の前に出した衣の両袖で、熱くなった目頭を隠すように。きつく引き結ばれ、歯でかまれた唇を見せないように。
…………それでも、瑛凛自身も美瑛もわかっていた。応えた声が、震えていたことに。
そんな娘に、美瑛はもう一度薄く微笑む。それから閉じようとする瞳を、気だるい眠りの淵への誘いを断るように、強い意志の力で開いた。
もうすぐ…………黄泉へ向かうための最後の旅支度を、終えなくてはならなかった。
『二人とも…………手を、こちらへ』
生気のない青白い顔をした美瑛は、瑛凛に白魚の左手を差し出した。
母の手を取った瑛凛は、その細さに驚いた。
いつの間に……母の手は、こんなに弱々しくなったのだろうか。
いつも髪を優しくなでてくれた母の手は、慈しみの中にもしなやかな強さもあったはずなのに。
母の手から、力が感じられないこと。それは、母の身体が確実に病に蝕まれていたことを、示していた。
美瑛は、小さく息を吸う。
『…………二人とも、兄弟姉妹、仲良くなさいね。
美瑛はまず、ここにはいない二人の養い子に言伝を頼んだ。
ちなみに‟佑俊”とは龍国の第一王子・齋佑俊のことであり、“佑花”とは龍国の第一王女・齋佑花のことである。
彼らの両親である今上の齋王・齋幸明が実弟・
今上の齋王は、目ぼしい引き取り手のいなかった二人を自分の養子にした。
彼らは今、養父である今上の齋王の命により、瑛凛たちとは別の離宮に滞在していた。
『それから、二人とも、お父さまのお言いつけを、よくよく聞くのよ。胡蝶たち侍女や、お勉強の師匠の話もよく聞いて。自分にとって、何が大切か、何を大切にしなくてはいけないのかを見分ける眼を持って、王族として誇り高く生きなさい』
美瑛は、眠気に負けないように、しっかりと言葉を紡ぐ。
『いつも、感謝の心を忘れないで。一人でなんでもできる、自分は王族だから、何でも言ってもいいんだ、と思ってはいけません。周りの人を困らせるような我がままを、言ってはなりません。どんな時も、独りよがりで偉そうな考えを持ってはいけません。いいですね?』
『はい…………。ははうえ』
大粒の涙を両の目からこぼす瑛明が、乱暴に目元をぬぐって、うなずく。
『ははうえ。この瑛凛、ははうえのおことばを、けっしてわすれぬと、たがえぬと、おちかいもうしあげます』
瑛凛は、しっかりと母に礼を捧げる。
二人の諾と言う返事に、美瑛は満足そうにうなずいた。
それから、部屋の隅にただ一人、控えていた胡蝶の方に目を向ける。
『胡蝶…………。そなたには、色々と世話になりました。そなたとは、何年の付き合いになるでしょうか。わたくしがまだ若い頃から、そなたはそばにいてくれましたね。心から、礼を申します。…………ありがとう。ただ…………。あなたのことで、一つだけ心残りがあるとしたら、あなたの娘盛りを、後宮に縛り付けてしまったこと…………。これからは、そなたも、自分の幸せを見つけてくださいな』
『いいえ…………いいえ…………王妃さま。王妃さまにお仕えできましたことは、私の生涯の宝にございます。私は、王妃さまにかけがえのないものを賜りました。だから………………そのようなこと、仰せになられますな』
胡蝶は、激しく
なぜ、なぜ、胡蝶の敬愛してやまない主は、最期の最後まで、優しい心配りをしてくれるのだろうか。
胡蝶は自分の人生の中で、今ほど哀しくて、嬉しいことはないだろうと思った。
珀家直系の家の生まれにして、早くに身寄りのなくなってしまった自分を、侍女として側に仕えることを許してくれた、王妃さまに。
胡蝶が初めてお側に上がった十の時から変わらない、やさしい心根を持つ姫さまに。
このようなお言葉を賜ることができた自分は、幸せ者だ。
『そう…………。よかった』
美瑛はわずかに口角を上げ、天井を見上げる。
彼女は、視界がぼやけていく中で、最愛の
ああ…………。もう、本当に、お別れなのね。
『瑛凛…………瑛明…………。わたくしね…………幸せだったの。あなたたちのお父さまの、奥さんになることができて。大好きなあなたたちの、お母さまになって。幸せだったのよ……………………』
『ははうえ…………?』
瑛凛は、思わず母の手を離してしまった。
母が纏う死の気配が、強くなったのを感じてしまったから。
『ははうえ』
美瑛のただならぬ様子に気が付いたからだろう。
瑛明は、より一層強く母の手を握った。
二人の呼びかけに応えず、美瑛の瞳は、どこか遠くを見つめていた。
それから、目を細める。
母の両目から、白玉(真珠のこと)のような涙が一粒、零れ落ちた。
『ねえ…………我が君。あなたさまのことを…………愛しているわ。ずっと……ずっと…………大好きよ。だから…………また、会いましょう』
ありがとう…………幸明さま。愛している。…………さようなら。
美瑛は、小さくつぶやいた。
それから、そっと目蓋を閉じ、心地よいまどろみの中にゆっくりと身を委ねていった。
ふっ……と、最期の吐息をもらす。
瑛明が掴んでいた右手から、すう……っと力が抜けた。
『………………………………ははうえ…………?』
瑛明が、つぶやいた。
『ははうえ』
瑛凛も、つぶやいた。
『王妃さま………………?』
胡蝶は、その場からよろめいた。
『…………。ははうえ、ははうえ、ははうえ、ははうえぇぇぇぇ―――――――――っ!!!!』
瑛明が、母の枕元でおいおいと泣く。
たった今、死後の世界の旅人になってしまった母にすがって。
床にへたり込んだ胡蝶も、とめどなく流れる涙を袖で拭うことができない。
瑛凛は、知らず知らずに一歩……一歩……と後ずさっていた。
部屋の入り口から、あと数歩といったところで。くるりと踵を返した。
『ひ、姫さま?! いったい…………』
『いずこへ? 姫さま――っ!』
入り口付近に控えていた女官たちの戸惑う声を振り切るように、瑛凛は走りだした。
ただ、がむしゃらに。ひたすらに。
回廊を駆け、庭先から庭院を抜ける。
そして、白竜宮にある小さな滝まで来ると、その中に勢い良く飛び込んだ。
滝の水は、あっという間に瑛凛の衣と髪を濡らす。
瑛凛は、口元をゆがめた。
それから、ははは…………と、乾いた声で笑うと。
『うああああああ――――――――ぁぁ!!!!』
絶叫した。
滝の水しぶきに負けないくらいの大声で。
あらん限りの声を出し、ははうえ、ははうえ、ははうえ、と叫び続ける。
両手は、まるで火のついたように泣く赤子のように、バシャバシャと激しく
『ははうえ、ははうえ、ははうえぇぇ――――っ!! いやだ、いやだ、いやだ、いやだぁぁ――――――ぁ!!』
瑛凛は、啼いた。
心の底から湧き出てくる哀しみから、泣いた。
ただ、やるせなくて…………悲しくて…………さびしくて…………つらくて…………。
胸の中に次々と襲うごちゃ混ぜの感情のまま、瑛凛は叫び続けた。
この日、瑛凛は生まれて初めて慟哭した。
◆◇◆◇◆
しばらくして。
瑛凛は、母の居る部屋から一番近い宮の出入り口の前に立っていた。
『ひ、姫さま?! そのお姿は、いったい…………?』
滝から戻ってきた瑛凛の姿を見た女官が、目をむく。
女官の数人が、慌てて瑛凛の元に手巾を持ってやって来た。
瑛凛は水を滴らせながら、宮に入る。
自分を手巾で拭こうとする女官たちを手で制した彼女は、ずぶ濡れのまま、短く告げた。
『ちちうえに……へいかに、はやうまを。…………ははうえが……おうひさまが、おなくなりになった』
女官たちが、息をのむ。
数人が、その場に崩れた。
どこからともなく、泣き声が上がる。
みなが、悲嘆の涙にくれるのを見た後。
瑛凛は、そっとその場を離れた。
それから、悲鳴のような嘆きに覆われた宮で、瑛凛は淡々と、努めて冷静に野辺送りための指示を出していった。
――
龍国国主・第五十代目齋王・齋幸明が正妃・白美瑛、崩御。
享年三十歳。
早咲きの桜の花を散らす風が吹く晴れた日に、母は、まるで眠るように息を引き取った。
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