あるお願い


 晏如あんじょは、夜の離宮を歩いていた。物思いにふけながら。

(はぁ…………。まさかあの殿下が、あんなフクザツな生い立ちをお持ちだったとは…………)

 心の中で、そうつぶやく。思わず、ため息をつきたくなった。

 晏如は、昼間の胡蝶こちょうの話を思い出す。



◆◇◆◇◆



 ひとしきり、瑛明えいめい殿下の生い立ちを話し終わった胡蝶は、自分用の湯のみにはいっていたお茶を飲み干す。

 いつの間にか、晏如の湯のみにはいったお茶もすっかり冷めて、ぬるくなっていた。

 お茶を飲み、一息ついた胡蝶は、晏如の方を見ると。突然、彼の片手をつかんだ。

「お願いです。どうか殿下の、ご学友になってくれませんか?」

「………………へ?」

 晏如は、突然のことすぎて、頭が追い付かない。

 それから無理やり頭の中で、胡蝶が言った言葉を繰り返した。

(ええっと…………殿下の、ご学友に、なってくれませんか……………………。え、ええぇ――――――――っ!!)

「ちょ、ちょっと待ってください!? それっていったい、どういうことなのですか?」

 晏如は、大きな声で叫んでいた。

 そんな彼に、「静かに」と言って叱る胡蝶である。

「す、すみません…………」

 晏如は、あわてて謝った。そうだ、あまり大っぴらに話せない話をするために、わざわざここに来たんだった。

 それなのに、声を上げたりしたら、それこそ本末転倒ではないか。落ち着け、晏如!

 晏如が何とか平常心を取り戻しているように見えた胡蝶は、同じ内容を繰り返した。

「もう一度、言います。あなたには、殿下のご学友に、なってもらいたいのです」

「僕が」

 晏如は、自分を自分で指さした。本当に、間違いないかと。

 胡蝶は、首を縦にふった。

「はい。実を言うと、今まで、何度も殿下のご学友にふさわしいと思われる子どもたちが、大臣たちに選ばれてやってきました。しかし、そのたびに、殿下はいらないと、おっしゃったのです」

 この話も、なかなかワケありのようだ。

「それは、なぜですか?」と、晏如は疑問を素直に口にする。

「理由は、簡単です。その子どもたちの多くが、大臣の子どもや孫だったり、有力貴族の出身だったからです。だからでしょう。先ほど私が申したように、殿下はご学友を、という申し出を、すべて、拒絶なさいました。もしかしたら、彼らを取り立てることによって、宮廷での政治に何らかの影響が出ることを、避けたかったのかもしれません」

 そこまで一気に言うと、胡蝶は自分用の湯のみにお茶をいれた。そのまま、先ほどと同じように、中身を飲み干す。

 それが終わると、胡蝶は、どこか興奮を隠せないような口調で話し出した。

「しかし、あなただけは、違いました。いつも、他人をきっぱりと拒否なさる殿下が、あなたにだけこの宮の滞在を許されたのです。しかも、あなたを見て、数年ぶりに声を上げてお笑いになった。さらに、気に入った、ともおっしゃって。これには、本当に驚きました。あのような殿下のご様子は、私でも見たことはありません」

 なぜか、胡蝶が力説している。

「そうですか…………?」

 晏如は、首をかしげた。

 本当に、そうなのだろうか? 

 僕にはとても、そうだとは思えないが。

「ここからは、失礼を承知の上で言います。茶晏如殿。あなたは、確かに貴族の息子かもしれません。しかし、あくまでもそれは地方の一貴族にすぎないのです。だから、あなたのご実家が、龍国の政治に大きな影響を及ぼすことができるほどのお力は、お持ちではないでしょうし、それはあなたも何となくわかっていることでしょう」

 ここまではっきり言われると、晏如は怒る気も起きなかった。

 実際そのとおりだからだ。

 龍国でも一二を争うド田舎である茶郡さぐん。その地の一番の名家、茶家さけ

 茶郡では最も敬われている家だが、一歩その外に出ると、一地方貴族となってしまう。つまり、一気に格が下がるというわけだ。

 よって、宮廷では、言わずもがな。当然、宮廷での影響力は、まったくない。

 これは、茶郡自体が王都に近くないことも大きいのだろう。

 もともと、宮廷だの国だのいうことには、あまり興味を持たない一族らしい。

 ようは、茶郡でのある程度の自治を認めてくれたらそれで構わない。中央は中央で、勝手にやってくれ、という感じなのだとか。

 したがって、そんな家の子どもであった晏如は、すべてを悟った。

「だから、僕なのですね…………」

 晏如は、つぶやくように言う。

 つまり。

 ご自分がご学友を持つことに政治に影響を与えるのではないか、と懸念されている殿下に、自分はピッタリだというわけだ。

「………はい。ですが、無理にご学友になってくれ、とは言いません。ただでさえ、慣れない暮らしの中、とても大変でしょう。私は、あなたにこれ以上の無茶をさせることは、まったく望んでいません」

 これは、本心からの言葉のようだ。

 晏如の手を握る胡蝶が、少し下を向く。

「………しかし、少しでも、殿下に親しみを感じているのなら、殿下のことをもっと知りたいという気持ちがあるのなら………………。お願いです。どうか、殿下のおそばで、殿下の世界を広げるお手伝いをしてくれませんか?」

「………………」

 晏如は、何も言えなくなってしまった。

 自分を見つめる胡蝶の真剣な眼差しに、目を離すことができない。

「殿下がお過ごしになっている世界は、私たちが想像するよりも、ずっと小さいのです。だから、」

 胡蝶は、ここで言葉を切った。再び、口を開く。

「殿下がつかめない空を、世界を、あなたが教えてあげてください。殿下が、決して経験することのできない地方の暮らしについて、たくさん教えてあげてください。――――それが、殿下の世界を広げることを、信じて」


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