湯殿へ


 瑛明えいめい殿下との謁見が終わった後。

 この離宮の女官長であるはく胡蝶こちょうに連れられて、晏如あんじょ湯殿ゆどのに向かっていた。

「晏如殿」

「はい!」

 歩きながら胡蝶に名を呼ばれた晏如は、しっかりと返事をする。

 これから、しばらくはこの宮で生活していくのだ。なるべく、ここの女官や侍従の方々と、仲良くなっておいた方がいい。

 それにほら、なんでも初めは肝心って言うじゃないか(瑛明殿下との謁見の時は、大きな失敗をしてしまったが)。胡蝶さまには、これから何かとお世話になるはずだし。

「今から、簡単にこの宮での心得こころえを説明いたします。よろしいですね」

「はい」

 晏如は、しっかりとうなずいた。

 それから胡蝶が今から話す内容を一言一句、聞き逃さないように、気合を入れる。

 そんな晏如の様子を少しも気に留めることなく、胡蝶は最低限のことを伝えていった。



◆◇◆◇◆



 建物の角を曲がった胡蝶が、立ち止まった。

 どうやら、湯殿に着いたようだ。

「こちらが、湯殿ゆどのです。使い方は…………分かりますね?」

 胡蝶が、確認するように晏如に問う。

 龍国には、湯浴ゆあみ(お風呂。入浴)のときに、お湯に浸かる習慣がない地方もあるからだろう。

 そもそも龍国は、阿蘭アーロン大陸と呼ばれる小さな大陸にある大国だ。そのため国土は広く、気候も地域によって、まったく異なる。

 だから、砂漠や草原のある地域は、常に水不足に悩まされており、したがって入浴時に湯舟にお湯を張ったりできない。

 ちなみに、晏如の故郷はお湯につかる習慣があった。里の近くに、温泉があったからだ。

 そんなわけで、晏如は「大丈夫です」と、言ってうなずいた。

「…………わかりました。これで、あなたが今日やるべきことは、すべて終了しました。あとは、殿下がおっしゃったように、ゆっくり休んでください」

 そこまで言うと、胡蝶は晏如に背を向けた。そのまま、来た道を戻っていく。

「胡蝶さま。ありがとうございます」

 歩き去ろうとする胡蝶の背中に、晏如はこう声をかけた。

 一瞬、胡蝶の足が止まる。

 しかし、彼女は何も答えずに行ってしまった。

 晏如はため息をついた。

 どうも、胡蝶と親しくするのは難しそうだ。僕は、感謝の気持ちを伝えただけなのに。まあ、仕方がない。自分はここで、上手くやっていくしかないのだ。

 晏如は気を取り戻して湯殿に入っていった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る