第4話

「……は?」


 呆然と訊き返した。意味が、わからなかった。

 なんて言ったんだこの女は。

 力って言ったか?


「力ですよ、力。欲しくないですか? 無料でして差し上げますよ」

「……いや、仰ってる意味がまったく……馬鹿なのかこいつ……」


 馬鹿なのかこいつと内心で呟いたつもりが思わず声に出ていた。

 部屋の中の様子を伺った感じ、ここは漫画研究会とかそれに類した部室なのではないかと想像したのだが、ああ、たぶんそんな感じなのだろう。

 そしてこの女はそういったものに悪い影響を受けすぎた、頭のイカレたヤツなのかもしれない。

 きっと、そうだ。


「私のこと、頭のイカレた女、って思いましたか?」


 俺の内心を読んだように女が言う。「いやまあ……」と曖昧に頷いておく。適当に流して早く帰ろうと思った。

 早く家に帰ってゲームしたいし、腹も減ったし。あまり関わり合いにならないほうがいい部類の人間かもしれない。


「私の話を聞くと、はじめのうちはみんな大抵そう言うんですよね」

 

 女は不満そうに鼻を鳴らすと、頬杖をついた。コーヒーを一口含み、「だけど」と続ける。


「だけどね、私に力を引き出してもらった人はみんな私に感謝するんですよ。なんて素晴らしい力をくれたんだ、この力があれば最高の人生を送れる、ああこんな力がずっと欲しかったんだ、ってね」


「あ、そうすか」


 いよいよ話の方向性が怪しい雰囲気を帯びてきた。

 なんの話をしてるんだ、この女は。遠回しな宗教の勧誘か、マルチ商法の勧誘か。いずれにしても、やはり相手にしないほうがよさそうなことに変わりはないだろう。


「あ、じゃあ俺はこれで……」と自然体を装ってこの場を後にしようと、部屋のドアに振り返ったときだった。


「ねえ、太田裕貴おおた ゆうきくん」という声が俺を引き止めた。

 

 その声に、先程までのような優しく落ち着いた色をなく、妙な圧力を感じて思わず振り返っていた。


「クソみてえなゴミしかいねえ。どいつもこいつも俺のこと馬鹿にしやがって。ゴミ共が群れて俺のこと見下してんじゃねえぞ殺すぞ。ピーピー群れて騒いでんじゃねえぞ猿共が。ここは人様が通う学校だぞ、猿共は動物園で檻の中で騒いでろゴミが。しねうるせえゴミ共クソしね、って思ってますよね。太田裕貴くん?」


 突然、身の毛がよだつような濁声だみごえで言うと、女はにっこりと俺の目を見つめて微笑みかけた。

 あ、やっぱりコイツ、本格的にヤバイやつだ。

 

 ――早く逃げないと、と思うのだが、先程の言葉が呪詛だったかのように、俺の身体は指先ひとつ動かすことができなくなっていた。

 

 女の顔から目すら逸らせなくなっていた。

 俺の心の中を覗き込むような女の微笑がさらに深くなる。

 ぞっと心臓を直接冷たい手で撫でられたかのような寒気が全身を這う。身体中から冷や汗がどっと吹き出した。


「太田裕貴くん、アナタほんと良い性格してると思うの。自分のふがいなさを他人のせいに置き換えて、自身を一切省みず、他者をけなして扱き下ろして見下して、自己を正当化してちっぽけなプライドを保っている。私、アナタみたいな矮小で浅ましくて、クズ、みたいな人間とても好きなんです」

 

 なんなんだお前、という言葉を俺は発することができなかった。

 喉元を見えない手で締め付けられているかのような感覚に、息を吐くことも生唾を飲み込むともできなくなっていた。

 

 女は立ち上がるとゆっくりと俺に近づいてきた。

 手を伸ばし、その細く白い指が俺の胸元に触れた。

 そのまま胸の中、俺の中へと指先から手、さらに手首まですっかり埋まっていく。


「大丈夫、痛くないですから。優しくしますから、優しく」


 声を出すことができない俺の恐慌を宥めるように、耳元で女が優しく囁く。


「なんで俺ばっかり、俺がなにをしたっていうんだ、俺のこと馬鹿にしやがって。ほんと、現実うまくいかなくて、ムカつくことばっかりですよね」


 女の手がゆっくりと俺の胸元から引き出される。意味の分からない現象に俺はただ目を見張ることしかできなかったが、次第に全身を覆っていた金縛りが解けていくのを感じた。


「大丈夫、アナタみたいな人の方が強い能力を持っているから。ゴミ共を見返す、素敵な能力を持っているから」

 

 女の手が俺の身体から引き抜かれた。

 ぜえぜえと荒く呼吸を繰り返し、力なく床にくずおれた俺にその手が差し出された。

 浅く握られていた掌がゆっくりと開かれる。その上、僅か数センチのところを銀色の球体が浮かびあがった。


「な、なんなんだ……」


 ぞっとした。

 女の手が俺の身体にずっぽり入ってしまったこともそうだが、その掌の上を浮かぶモノが俺の心や魂といった物のような気がして。それを差し出してにっこり微笑んでいる女の得体が知れなくて。

 俺はただただ冷や汗を垂れ流し、茫然自失とその光景を見上げることしかできなかった。


「さ、早くこれに触れてください。そうして初めて、アナタの能力が形作られるんですから」

 

 有無を言わさぬ女の態度に、俺はもうこの場から逃げることもその誘いを拒絶することもできないのだと悟る。そして、この女の言っていたことが、決して妄言や妄想の類ではなかったということを。

 

 女は言った。

 俺の能力、と。

 そして、ゴミ共を見返す素敵な能力と、確かに言った。本当にそんな力が……という疑問は未だ捨てきれない。だけど、


「……わかった。これに、触ればいいんだな?」


 事ここに至れば覚悟を決めるしかない、だろう。

 女が口の端を吊り上げてその笑みを深くし、満足げに頷いた。

 疑問は他にもまだある。この女の正体とか、目的とか、数をあげたらきりがないほど意味の分からないことだらけだ。それでも――。

 

 それでも俺は、その全てを呑み込んで、ゆっくりと右手を銀色の球体へと近づけていった。

 

 指先が、銀色の球体に触れた。その表面を、水面に広がる波紋のように、幾重もの波が覆う。その瞬間――。


「う、うおっ……」


 突然、白く眩く発光し、俺の視界を焼いた。思わず瞼を閉じ、腕で顔を覆った。


「なんなんだよ……」


 先ほどから同じことばかり言っているように思うのは気のせいだろうか。

 隣で女が「まぶしー!」と言っているのが聞こえた。

 その声はどこか愉しげだ。

 

 キーンという耳鳴りのような音が響き、それに尾を引くように閃光が引いていくのが閉じた瞼越しにわかった。


「ふーん……」


 どこか値踏みするような女の声に、俺は腕をゆっくりと下し閉じていた瞼を開いた。


 女の掌の上で浮遊していた銀色の球体は消えていた。

 そして俺の目の前には、金属光沢を放つ、シルバーのキーボードが浮かんでいた。その内部から淡く緑色の光が仄めいている。


「なんか、かっこいいですねえ」


 女が期待に胸をふくらませるように瞳を輝かせて言った。


「いや……」


 俺が感じていたのは、女とは逆の感想だった。


「なんか思ってたのと違う」

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アノニマス願望 (仮) @kakkokarikarika

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