第3話

「あああっくっそ死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」

 と、いますぐ思いっきり叫んでやらないと、とてもじゃないが気が収まらなかった。

 

 だけど、人目を憚らず学校でいきなりそんなことを叫んではキチガイの類かと不審がられること必須である。できるはずもなかった。

 たとえ今日が土曜日で、校内にいる生徒が少なくても俺にそんなことをする度胸はなかった。

 せいぜいがトイレの個室に籠もり、閉めたドアに向かって握り拳をぶつけるくらいのものだった。

 それも俺の手が痛まない程度に。情けない。

 

 便座に腰掛け、深くうなだれながら、はあと溜息を吐いていると、遠く吹奏楽部の練習している下手くそな音が聴こえてくる。

 ぴーとかぱーとか断続的に響く調子外れな音も、まるで俺を虚仮こけにしているような気がして腹が立った。

 

 なんで俺ばっかりこんな目に遭わないといけない? 他のヤツらと俺の違いはなんだ? 同じように赤点を取って同じようにぼんやり補習を受けていたじゃねぇかよ。

 俺ばっかり、俺ばっかり。

 考えれば考えるほど、村上に対する怒りが煮えたぎり、知らずイライラと膝を小刻みに揺り動かしていた。

 

 そろそろ村上や補習を受けていた他のヤツらは散った頃だろうか。

 補習を終えたあと逃げるようにトイレに駆け込んだがいつまでもこうしていても仕方がない。そろそろ腹も減ったし、家に帰ってゲームで鬱憤を晴らしたかった。

 大きく溜息を吐き出しトイレから出ると、休日のがらんとした廊下が広がっていた。

 

 部活をしていない俺にとって、休日の無人の廊下は不思議と新鮮な気分を味わわせてくれる。

 いつもはこの小太りした身体を縮こめて、俯きがちに通り過ぎるだけだった廊下が、人がいないというだけでこうも解放感に溢れているのだ。

 調子に乗ったバカ共に腹を摘まれる心配も今はない。

 

 たったそれだけのことで、少しは気分が晴れた。補習もサボらずちゃんと受けたし、来週は再テストらしいけど、まあそれもなんとかなるだろう。直前で少し本気出して勉強すれば再テストくらいやり過ごせるはずだ。

 そしてそれが終われば、夏休みだ。

 学校でのイヤなことを忘れて、一ヶ月はネットゲームに没頭できる。そう考えれば、今日のことなんて、ほんの些末な出来事だった。

 

 ふふふん、ふん。と軽快にスキップを刻みたい気分だった。

 実際にそんなことをするはずもないが。

 

 廊下をゆったりと歩きながら、ふと窓から校庭の様子を見下ろした。野球部の連中がこのクソ暑い中、白球を追いかけて必死に汗水垂らしている。

 滑稽でしょうがなかった。ぷっと笑いがこみ上げてくる。

 

 毎年地区予選敗退止まりの弱小高だというのに、なぜそんな無意味な練習に身を削るのかまったく理解できなかった。

 あの中にプロでも目指しているような志の人間がいるのか?

 いないだろう。やつらがやっていることはしょせん、友達ごっこ、青春ごっこなのだ。

 必死に部活に青春を捧げている、仲間たち共に一つの目標に向かって努力している。

 そういった自意識に酔いしれてるだけなんだ。それともなんだ、女子の視線を意識してのことなのかもしれないけどな。

 スポーツできる俺、かっこいいだろ? みたいな。

 

 バカバカしいなあ。そういった連中を端から見て扱き下ろすのはなんとも気分がいい。心が落ち着く。優越感に浸れる。

 おうおう、無駄な努力に勤しみたまえ、ゴミ共。と気分よく廊下を進んでいると。

 

 開け放した窓枠に肘を乗せて、同じように校庭を見下ろしている女生徒がいた。長い黒髪が外から入り込む風を受けて涼しげになびいていた。

 

 一瞬、足を止めた俺に気がつくと女がこちらを振り向いた。知らない女だった。俺は目を逸らすと通り過ぎようと一歩足を踏み出した。

 こんな休日にバカ共に見入っているバカ女もいたもんだ。そう思っていると。


「太田裕貴くん、アナタを待っていました」


「は?」と女の後ろを通り過ぎようとしていた俺は思わず振り返っていた。


 知らない女子に声を掛けられるなんてこと今まで一度もなかった。人生で初めてのことだった。

 だから何かの間違いかと思った。

 困惑して立ち止まった俺に、女は優しげな笑みを見せて言った。


「ちょっと来てください、アナタにお話したいことがあります」


 そう言うと、女は俺の手を掴み有無を言わせず歩き出した。


「は? え? ちょっ!」

 ただただ俺は困惑するばかりだった。こんな俺に声を掛けるなんて、よくある何かの悪戯か嫌がらせか、そういった類の嫌な想像が脳裏を過ぎる。

 それでも、必死に抵抗しなかったのは、手をふりほどいて逃げなかったのは。

 

 女に手を握られるなんて今まで一度もなかったからだ。人生で、初めてだったからだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「コーヒーでも飲みますか?」

 

 女は俺の返答を待たず、電気ケトルのスイッチを入れカップを二つ用意するとその中にインスタントコーヒーの粉末を落とした。


 え、このクソ暑い中ホットなの?

 

 俺は知らない部屋に連れてこられてきていた。

 ここは部室なのだろうか。

 普通教室の四分の一程度の手狭な部屋に、窓を背に机と椅子が一セット。

 部屋の入口から向かって右側にシンクと水道、ケトルなどの給湯セット。

 左側に本棚があり、そのほとんどを黄ばんだ古臭い漫画が埋め尽くしていた。

 

 なんか、部活物のアニメや漫画で出てくる雑多な部室のイメージをそのまま体現したような部屋だった。

 

 部屋の入口に立ち尽くしながら、俺は自分の嫌な予感が外れたことに安堵の溜息を漏らした。

 内心では、校舎裏に連れ込まれてガラの悪いヤツらに財布出せよオラと脅されたり、告白の真似事をされてその光景を遠巻きに仲間連中が笑いながら眺めていたり、といったような気分の悪いことをされるのではと想像していたのだ。

 

 じゃあなんだ、なんのために俺をここに連れ出したんだ。人がいなくて廃部寸前の部活への勧誘が目的とかか? 

 

 女は「ふんふん~♪」と鼻歌交じりに沸いたケトルからカップにお湯を注ぎコーヒーを用意している。狭い部屋が職員室に似たコーヒーの匂いに包まれる。


「砂糖とミルクは一つずつでいいですか?」

「あ、は、はい……」


 この女と、二人きりの部活……と、つい想像してしまう。

 正直、悪い気はしない。先ほど握られた女の柔らかい手の感触を思いだして、少し鼓動が早くなる。


「はい、どうぞー」と一つしかない机にコーヒーカップと砂糖、ミルクを置くと、女は椅子に腰を掛けた。

 そしてカップから立ちのぼる湯気越しに愉しげに俺を見上げた彼女の顔は、まあ、そう悪くはないものではないだろうか。

 辛口に評価しても中の上くらい、じゃないかな。

 

 やばい、変に意識した途端に気恥ずかしくなってきた。

 狭い部屋に知らない女と二人きりという状況を殊更に意識してしまい、顔が熱くなるのを自分ではどうしようもなくなっていた。

 

 つい、彼女の柔らかな唇がコーヒーカップの縁に触れ、白く細い喉元をこくりと小さく動かしその液体を嚥下する様をまじまじと見つめてしまう。


「飲まないんですか?」

 カップをソーサーに静かに置き、無言で凝視している俺に彼女は不思議そうに小首を傾げてみせた。

 あ、やばい。普通にかわいい。


「あ、いやその……」

 こんな状態で熱いコーヒーなんか飲んだら、顔が更に赤く醜く変色してしまう。汗と湯気まで出るぞ。マジでやめてくれ。

 というより、そもそもだ。


「俺に話って、なんですか?」

 誤魔化すように、俺は話を切り出した。


 女はもう一度ゆっくりとした所作でコーヒーを口に含んだ。

 勿体ぶってるんじゃねえそクソ女、と内心で悪態を吐いたときだった。

 

 女は薄い微笑みをそのままに、ゆっくりと口を開いた。


「実はですね、アナタに力を授けようかと思いまして」

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