哀願動物

あどのあこう

哀願動物

彩奈の苛立ちは焼き付く様だった。ひしめく葬儀場の人々の暑苦しさと、着なれない喪服の息苦しさ。


部屋の空気まで墨に染まったように重く、その上うるさい。せめてざわつかず黙れば良いものを。


時折耳に届く出席者たちの陰口が、彩奈の神経を凍てつかせ、焼きつかせているのだ。勝手な事を言いやがって、お前達が私たちの何を知っているんだ。あの死んだ姉のことも。


ふと彩奈は、会場の隅で所在なさげに数珠を握りしめている母を見やり、そっと目をそらした。母は今、自分の娘の自殺について改めてどう考えているのだろう。


悲しんでいるように見えるが、たぶん私と同じ気持ちだろうと彩奈は思う。確かに大きな出来事は起きた。


しかし、なぜそれが現実のものとして起こり、かつそれによって自分達の何が変わったのかをはっきり掴めないでいる。私達ですらそうなのだから、他人に分かるはずもない。


彩奈の姉、今は亡き奈美子はトラウマを抱えていた。そして有り体にいえば引きこもりだった。高校をかろうじて卒業してからもう何年もなにもせず、トップアイドルとして巨額の報酬を得る妹と、その母の細々とした給料で別段苦労なく過ごしていた。


少なくとも彩奈と母はそう思っていた。彩奈に至っては、ほとんど存在を意識する事も無かった。


原因は、おそらく両親の離婚。いや、あれは離婚ですらなかった。勝手気ままに暮らしていた父が、突如姿を消したのだ。


彩奈の両親は、学生結婚だった。お互い顔は良かったみたいだったから、まあそういう事だろう。成り行きというやつだ。いつからか、ふと夢から醒めた気になった彼がどこかへ去り、母は高校生だった奈美子と中学生だった彩奈を養うため仕事を探した。


実家から勘当されていた彼女に、他に道はなかった。しかし、生きるに事足りる仕事もなかった。


そして高校生だった奈美子は、父に捨てられたというショックで対人恐怖症じみた性質を宿し、家から殆ど出られなくなったのだ。


彩奈にとってそれは、ただ自分の世界の中だけで生きる動く肉でしかなかった。始めの内こそ彩奈は姉に共感を抱くことができた。しかし、誰もが生きるために努力しているにも関わらず、ただ自分の世界に閉じこもる姉に、次第に関心を向けなくなっていった。


母も初めは心配し、気にかけていたが、いつしか奈美子の状態を異常と感じなくなり、当たり前のようにこのまま育てていくのだと考え始めていた。しかし家族における生活能力の低下、不足はいかんともし難かった。


彩奈は絶望していた。もう働く力があるはずの姉も壊れ、親や親族ですら頼りにはできない。そしてなによりも惨めだった。私達は捨てられるほどのモノでしかないのか、家族を捨てるような人間に今まで依存していたのかと、やり場の無くなった怒りを覚えた。


誰にも頼らず自分ひとりで生きてやると彼女は決意し、中学生でも働ける実入りの良い仕事を探した。やがて彼女は、見事努力の末に芸能人として大成を果たす。


何が彼女を頂点へ押し上げたのか。彩奈の武器は、彼女の両親が唯一誇れるもの、受け継いだ優れた容姿だけだった。


それだけでは足りないという事は、彼女は悟っていた。では何が必要なのか、そればかりを考えていた。すべてに愛され、求められるようになるには、何を備えれば良いのか。


彼女は生贄になろうと考えた。決して大袈裟ではない。あらゆる人間がもつ欲求、衝動、感情。それらを受け入れ丸呑みにしてでも、どれほど傷付けられ悪意を向けられたとしても、人々に微笑み続けようと。愛を求め乞い続けようとした。群衆に愛されるには、それが一番効率的だろうと彼女は考えた。


目立った自己主張をせず、等しく他者に愛させてくれる彼女の姿は、どこか献身的ですらあった。生い立ちについて何も知らぬ者が見ても、儚く健気で温かであった。どこにも饐えたいやらしい部分が無く、無力で無垢で無邪気だった。すべてを許してくれる様な甘やかさを持っていた。それは誰から見ても惹きつけられる魅力であった。彼女はそう自分を作り、事務所は彼女をそう使った。余すことなく。


そしていつしか彼女は、あらゆるものを受け入れてくれる象徴的偶像、トップアイドルとなっていた。


初め、彼女は救われた気がしていた。自分達を見捨てた父を見返した気すらしていた。だが、はたから見ればとんとん拍子で何の苦労もしていないように見える彼女への風当たりは、決して弱くはなかった。


業界内部から吹き付ける、妬み嫉み。業界外部から吹き付ける、押し付けがましい性的嗜好やざらついた悪意。


すべてを許す甘やかさは、同時に彼女へ対する禁忌すらも人々の中から消し去っていた。 


隙あらば降り注いでくる敵意の槍に、彼女は怯え、貫かれ、苦しみ悶えながら生きることになった。その物量と質量は膨大なものであった。


しかしどんなに辛くとも、自分達の境遇を省みると逃げられはしなかった。第一、辞めたいといっても許されない。なまじ彼女が金を産むものだから、ぎりぎりまで使い倒されることは明白だった。


金の餌と鎖に繋がれ、好き勝手に愛でられ、傷付けられる毎日。そして何とか正気を保っていた矢先に、これだ。 


別に彩奈は姉のことを嫌っていたわけではない。死を疎ましく思っている訳でもない。


ただ、この先再び襲い来るであろう、黒く燃える矢の雨をどう耐え凌げば良いと言うのだ!人々の悪意にさらされ、肩代わりするのはもう嫌だ。だが、逃げられない。死んだあの人には分からない。だが私は死にたくない。負けたくない。


彩奈は姉の死に様を思い出し、身震いした。信じられない光景だった。一日中、部屋から食事にも出てこないのを不審に思い、彩奈は姉の部屋のドアを開けた。

姉は、ベッドに静かに横たわっていた。眠るように。誘われたように。死んでいると気付いたのは近づいても呼吸が聞こえなかったからだ。死因は、自発的な窒息死。


彼女は、ただ息を止め続けたのだ。肉体の命乞いを拒み続け、息を潜めて奈美子は死んだ。この上なく静寂に満ちた、凄絶な死に様だった。


あの時見た姉の死に顔が忘れられない。彼女は微笑んでいた。それでいて、その頬はうっすらと濡れていた。


姉の火葬を待つ間、彩奈は言葉を発さぬ代わり、頭の中でそれを武具に変えるべくこね回していた。若きトップアイドル、その悲劇にマスコミや民衆は涎を垂らして食いつくだろう。


『この度はご愁傷様です』

『姉の自殺についてコメントを頂いてもよろしいですか』

『芸能活動はお続けに?』

『生前、お姉様の様子に変わった所は?』


それに私は答えなければ。予め事務所に用意された台本と、己を頼りに。演じなければ。煩わしさを涙に変えて。哀れみを乞わなければならない。


そうだ。テレビの向こうの覗き魔達は、常に私を待っている。担ぎ上げ、貶めるために。

 

頂点の私をまるでローアングラーの様に地べたから視姦し、どん底の私を見下ろして嘲る。人形を辱めるのが楽しいか?地に落とされてバラバラになる姿がそんなにも愛しいか?


何をしても何につけても、私は衆目に晒される。私だけじゃない。その波紋は周囲にも及ぶ。逆もまた然り。逃げ場はない。


がんじがらめに戒められ、何も許されていない。眠れば舐られ、歩けば嬲られ。倒れれば打ち捨てられる。人の生き方じゃない。


いわれの無い侮辱、批判。嫉妬とないまぜの羨望。肌にまとわりつく視線と性的嗜好。勘違いした愛と、倒錯した憎しみ。


敵ばかりではないと信じていた。だからこそ裏切られる事も多かった。もう何も信じられない。


いつの間にか彼女は、カメラの前でしか笑う事が出来なくなっていた。


「もうヤダ……」

「なにが?」


彼女の吐露は名も知らぬ女性に拾われ、どきりとして振り向く。冷涼な容姿をしたその女性は、見たところ姉と同年代の様だ。


彩奈は、影に怯えた自分に腹を立てた。忍び寄られると首に手をかけられたように肌が凍る。とりあえず彩奈は、頭を下げてから尋ねた。


「あの、どちら様でしょうか?」

「私は琴乃。隣、いい?」


会場はそんなに広くないが、まだ座れる所は余っている。彩奈は訝しんだ。まさか、こんなところにまで悪意を持ち込みにきた輩なのだろうか。


彩奈は警戒を隠せなかった。


「なにか、その、御用ですか?」

「あはっ、ガードが固い。さすがは現役アイドル」


女は腰掛け、脚を組む。その態度に彩菜は小馬鹿にされたように感じ、憮然として答える。それだけでも十分、普段の彩奈では考えられない行為だった。

「普通の反応だと思いますが」

「ああ、まあそうね。失礼」


詫びてから、もう一度女は名乗った。


「私は琴乃。あなたのお姉ちゃんの奈美子の、親友よ」


薄い笑いを浮かべた琴乃に、えも言われぬうとましさを感じる。こういう顔は、もう見飽きていた。招かれざる客はいつもこの顔だ。もちろん、繕いすらしない者も居るが。より深くまで粗を探りに来るものは、たいていこの顔だった。


なによりも、あの姉の親友だと?馬鹿も休み休み言え。人の不幸を嗅ぎつけてやって来るしがらみ、図々しい民衆の縮図に、彩奈は一層苛立った。明らかに何かを探りに来ている目なのだ。気に障る。


「姉に友達がいたなんて初耳です。引きこもりでしたから」


自分でも驚くほどの刺々しい声だった。しかし、同時に痛快でもある。だが女はうろたえるどころか、鼻で笑って目をそらす。


「酷い言いようね。そんなに嫌いだったの?」


揶揄する様な女の調子に、今まで溜め込んできた苛立ちがついに煮え始めた。どいつもこいつも、人の心に土足で上がる。そんなに崩れた私が見たいか。


崩そうとするのは他ならぬお前達だろうに。なら見せてあげる。ホンネ、ドロドロ。お好きなんでしょ?


どこからか湧いた無意識の敵意が彩奈を煽る。今も募る苛立ちが、琴乃によって溢れていく。


自分を取り巻くしがらみが、人の姿を取って目の前に現れたような、そんな心持ちだった。


「いえ、どうでもよかったです。居ても居なくても変わらなかったでしょう」


お前達のような者が寄ってくる事を除けば、と彼女は心の中で吐き捨てた。突き放すような彩奈の台詞に、琴乃は一瞬返事をしなかった。そして唐突に「あー、だからか?」と唇を歪めた。


彩奈は戸惑った。弱みを探りに来ている人間の態度、とはまた違う気がしてきた。となるとむしろ意図がつかめず不気味だった。琴乃とやらは冷たく笑っている。


「だからって、なにがですか」

「だから苛立っているんでしょう?少なくとも、悲しんではないわね」


彩奈は血管を千切られるような頭痛を感じた。何がそんなにお気に召さないのか。ちらつかせてやった弱みの餌にも食いつかず、ただただ噛み付いてくる。大体私の何を知っているんだ。勝手なことをべらべらと。


「訳がわかりません、貴方こそ悲しんでいる様にも見えません」


そして、責められるいわれもない。ふざけるな。何様のつもりだ。


熱く軽くなる身体を抑え、放熱する様に女の冷笑を睨みつける。だが、氷の仮面は溶けない。


「腹立たしいんでしょ?どうでもよかったものに煩わされて。屑ね」

「はぁっ?」


ざわめきの中に声は埋もれた。だれも気には留めない。皆こうであればいいのに。こいつも。そっとしておいてほしい。


いったい何を考えている?少なくともそれが遺族に言う言葉か。


「本当にあなたたち姉妹は、似たもの同士。愛される事を切に願って、なのに理解し合う事を選べなかった。悲劇的よ」


女は何かに気付き、携帯をポケットから取り出す。表示された短いメッセージを読み、すぐに消した。吊り下げられたうさぎのストラップが、揺れる。


その間彩奈は言葉を失っていた。この女に言葉が通じると思えなかったのだ。通じて欲しいとも。


それほどに不可解だった。不愉快だった。


「ねえ、奈美子がなんで自殺したか分かる?」


彩奈は吊られたウサギを見ながら答えた。まだコレのほうが見ててマシだ。


「寂しかったんじゃないですか」

「じゃあなんでほっといたのよ」

「私は飼い主じゃありません」

「あの子をペット扱い?」

「まさか。姉は人間ですよ?自分の事は自分で出来ると思ってたけれど」


話せば話すほどに、彩奈の言葉は痛烈になる。自分が姉に対してイラついている?むしろお前にだ、と彩奈は思う。


携帯をしまいながら、琴乃は彩奈を見やった。試すような口調でこんなことを尋ねてくる。

 

「ねえ、あなた孤独?」 

 

いきなり何だ。いったい何に酔っている?こんな奴とは関わりたくない。なのにいつも厄介事は向こうからくる。招かれざる客にはお引き取り願いたい。

 

「今はそれを望みますね?」

「そう。贅沢ね……」

 

氷が溶けるように、その笑顔が消えていく。効いたのなら清々するものだが。

 

「自分の存在を認められる事が煩わしいのなら、姉のように荒野へ出なさい。檻など無いわよ」

 

檻。何度も心に浮かんだ字を引き当てられ、彩奈は思わず声を荒らげた。

 

「何が檻です!どこが荒野ですか?ふざけないで。あの人こそ小屋から出なかったんだ。私は外に出て自分で……」

「自分で?」

 

再び琴乃は皮肉めいた笑みを浮かべた。張り倒したくなるが、それこそ相手への賛辞だろう。

 

意地でも、言葉で相手の精神をねじ伏せなければならない。

 

「自分で、生きてるんです」

「へえ?」

「おかしいですか、なにか!」

 

信念とも言える言葉を軽く流され、彩奈は再び声を張り上げた。組んでいた長い脚を解き、琴乃はおもむろに立ち上がる。

 

「他人によって生かされてるのはあなた。生殺与奪は飼い主の手に。自分を肯定して貰ってるくせに孤独が欲しいって何様なの?愛されたいから選んだ仕事でしょ?」


愛されたいからだと?やっぱり、私の事を何も知らないじゃないか。親友とうそぶく姉の事すら、何もわかってない。


「姉が孤高の人だってそう言いたいんですか。親姉妹に養ってもらっていたあの人が。一人で生きられるならそうしてくれれば良かった」

 

その言葉に琴乃がせせら笑う。

 

「ホラ本音。疎んでる」

「な……。違う、そうじゃない」

 

苛立ちに彩奈も立ち上がった。なぜ人の言葉を聞こうとしない?なぜ自分の勝手な思い込みで他人を蔑む事が出来るのだ。


正面に琴乃の顔が来る。見下すような女の顔を見据える。


そうだ、噴き出させたのはお前だ。私はちゃんと自分の中に禁じていたのに。不用意に絞め上げ、えぐり続けたお前が悪い。

 

だから、ぜんぶ受け止めて。


「知ったことか……。お前のエゴも、あいつの弱さも知らない。私がこの世にいる事を認めさせたのは私の力だ、意志だ。努力もしなかったあいつに、そんなあいつに縋ってたお前に、私の何が分かるっ?」

 

圧縮と解放。それはなによりも爽快だった。身体が浮かれた様に痙攣している。凶暴を解き放つ、きな臭い興奮に。

 

私はずっと苦しかった。縛り付けられ、他人の穢れにいたぶられて来た。地に手を着いても立ち上がり、泥ごと拳を握りしめて生きてきた。そして私を苦しめる者達の象徴が、いま目の前に居る。やることは一つだ。

 

姉など、本当にどうでも良かった。あの人がいたところで私は別に幸せでもなかったし、それはお互い様だ。私達は元から相手を必要としていなかった。血が繋がってるからなんだ?その上あいつには必要とされる意志が無かった。そして誰かがあいつを求める理由も。

 

この女の言うには欲求はあったらしいが、だからそれがどうしたと言うのか?

 

そして私は慰みものになる事を余儀なくされた。生きるためには、仕方なかったのだ。母の収入だけでは糊口を凌ぐのも危うかった。姉の事など、考えちゃいない。

 

まだ制服も脱がぬうちに拘束具を着るしかなかった。そして、好奇の視線や、排泄物にも劣る、人が普段隠すドロドロに漬けられる。

 

人の生き方なんて許されなかった。人らしい事はなんにも出来なかった。すべての他人に愛され、また愛さねばならない。誰も助けてはくれない。

 

『あなた顔いいから。人気出てよかったわね。おかげで助かってるわ』


顔だけは良かった父に捨てられた、顔だけは良い母のセリフ。別にいいのだが、あなたにとって人の価値とは何だ?顔が良ければいいのか。まあそういう生き方だったのだろうが。


いや、でも良いんだ。母もきっと追い詰められていたんだから。彼女も生きる為に努力している。彼女も私が知らないだけで苦労してきただろうから。男に捨てられ、娘が壊れ、実家も頼れないという状況でよく私たちを守ってくれた。だから彼女も奈美子には裏切られた気持ちだろう。


問題は姉なのだ。姉は、捨てられたショックで人の様な物体に成り果てた。もはや何者でもなくなった。重荷以外の、何者でも。

 

何も最初から負担に感じていた訳じゃない。境遇は同じだったのだからお互い様。

 

初めは哀れだと思った。腐っても家族に捨てられ、自分は要らない者だと思ってしまったのだと。私も、やっぱりショックだったから。

 

でもそれは過ぎた悩みだとも思ったのだ。生きることすら精一杯という人間でこの世は溢れているのに。しかも今まさに私たちがそうだと言うのに。自分の青い悩みだけにかかずらわる訳には行かない。

 

だいたい、捨てられたと言うならこっちからも見限ってやればいい。屑男など願い下げ。まあもしかしたら何か、家族にも話せないような事情があったのかもしれない。

 

しかし、姉は全てを諦めた。そうして私達に何年も負ぶさり、何もせず死んだ。それが恩を仇で返す裏切りだとは思わなかったのか?何も言わずにただ消え去るなんて、到底許せはしない。


そして私が真に疎むのは、そんな個人的な、他人に関係のない事でまで騒がれるしがらみ。

 

姉の死など関係ない。どうでもいい。べつに煩わされなければいいのだ。父も然り。だが姉の死にまで、しがらみはやって来る。それが鬱陶しい。

 

だがこいつは、私が姉そのものを疎んでいると決めつける。そんな単純な訳があるか。私はそんなにおこがましくない。当時高校生だった姉の方が力もあったのだ。生きる力が。なのに、力にならなかった。甚だ疑問だ。

 

己の存在に価値を見いだせなかっただと?では無価値が嫌ならなぜそれに甘んじた?なぜ何もせずのうのうと生きていた?それが悶々とでも同じ事。顔とやらだけで私は重荷を背負ったのに?それだけのちっぽけな武器でここまで来たのに。

 

『好きでやってることなんでしょ?』

 

もう言われ過ぎて誰の言葉だったか。その度に脳が髄まで灼けた。たかだか中学生に何がやれたと?自分を売る以外に。真っ当な生き方ではないか。自己犠牲は群衆も美徳とする所だろう。何も後暗いことなどしていないのに。

 

どうして私が後ろ指をさされなくてはならないのだ。

 

「私が助かる為に力を得たのがそんなにもいけない事?なのに妬ましいの?答えて。そのいけない私に姉は寄りかかっていたのに、あなたは姉を美化し、自分に酔う。自分で勝ち取った私を、あなたはなぜ批判できるの?何もできないあなたが。ねえ、教えて下さい。ほら、早く」

 

「自分の事ばっかりね。あなた本当に奈美子が可哀相だと思わないの?もう聞きたくないわ」

 

女が頭を振る。何が可哀相だ。大体そっちから来たくせに聞きたくないだと?自己中心的も甚だしい。


まっすぐに睨みつける彩奈の視線にひるみもせず、琴乃は堂々と言葉をぶつけてくる。自分が正義だと言わんばかりに。

 

「あなたは孤独が欲しいと言った。でも自分で自分を肯定し、修正出来るほど強い訳がない。あの子が独りで生きてきたとはそう言う事」

 

「それができないからあの人は死んだんでしょ。なぜ私を責めるの。悪いのは彼女だ」

 

女はまたも鼻で笑った。しかし、それは余裕を帯びた響きではなかった。声が震えを帯び始める。

 

「子供ね。誰にもできやしないのよ。自分の価値を自分一人で認めるなんて。なのに姉を見殺したあなたは知らぬ振りをし、自分だけが囚われたように哀れみを乞う。奈美子は誰にも、家族にすら見向かれなかった。反面あなたは自分だけを可愛がり、自慰の快感に浸る!」

「なっ……」

 

彩奈は目を見開いた。支離滅裂とはこの事なのか。こいつは感情に酔っている。いや、おそらく大体の人間がこうなのだ。人を見下し、自分に酔う。  

 

ふざけるな、何様だ。私を何だと思っている?人を嫉妬と欲望の捌け口にするな。

 

「疎ましい姉への当て付けでその仕事してたの?まるでそんな態度よ。愛される自分と比べさせて、死に追いやる為に。そうでなきゃそんなに冷たい事言えないわ」

「何の為に私がそんな事を。現に苦労しているのはこっちですよ」

「ほら、それが本音だと言っている」

「本音も何も事実ですよ。何をそんなに意固地になるの?私の心を勝手に決めるな」

 

琴乃がゆるゆると首を振った。

 

「だめね。話にならない」

「そのままお返しします」


独断と偏見とはよく言ったものだ。言い始めた人を心の底から尊敬する。


「奈美子が可哀相よ。あなたは本当に何も分かっていない。どうしてあの子が今になって命を断ったかを。今まで生きようとしていたでしょう?でも限界が来てしまったの。見殺しよ。その罪を省みたことはあるの?」

 

罪だと?今の今まで寄り掛からせてやっていた私に、あろうことか罪?何を自分勝手なことを。

 

途方もなく理不尽な責めに彩奈はうち震えた。なぜ私が蔑まれるのだ?会ったことも無く、話すのも初めての相手に。意味が分からない。

 

私が、姉を疎んでいただと?違う、そうじゃない。そんなことじゃない。分かって欲しくもない。私の何を知っていると言うんだ。黙っていればこちらも無視するだけなのに。


(ああ、こういう奴が私をいつも弄ぶんだ。影に潜んでつけこもうとして。気持ち悪い……)


琴乃の声が、耐え忍んでいた激情を呼び覚ます。彩奈の中にこれまでにない衝動が湧き出した。

 

壊したかった、全てを。そしてこの欲求を、熱量を全てに等しくぶつけたい。

 

(そうだ、こいつらが悪いんだ。マスコミも群衆も、私を傷つけるものはこういう、底意地の悪い人間そのもので出来ているんだ)

 

だから、こいつなら良いだろう。やっても。受け止めてくれる。その為に来たのだろうから。


彩奈は唇を吊り上げた。

 

「だから?」

 

その声が震えたのは憤怒か、歓喜か。

 

開き直ったような態度に、琴乃は指を突き付けてまで叫んだ。金切り声が彩奈の深部を刺激する。

 

「やっぱりね。世間にチヤホヤされるあなたには分からないっ。自分の存在が否定も肯定もされないまま、認識されぬまま生きるなんてできる訳が無いの。私とあの子は、必要としあってた。やっと私を認めてくれる人が居た。私に認めさせてくれる人が。だからあの子には生きていて欲しかったのに」

 

感傷的かつ抽象的なその言葉に、彩奈はどこか滑稽なものを感じていた。だからどうしたというのか。そんなつまらぬことで延々私を嘲笑い責め続けていたのか。

 

彩奈の中に、どす黒くどろどろした物が満ち始めていた。それは彼女にはどこか馴染みのある物であった。

 

敵意、悪意、憎悪。今まで他人によって溜め込まされてきた歪みが、自分の物となって噴き出そうとしている。

 

駄目だ、抗えそうもない。しかし、一度放ってしまえばもう止められなくなる。

 

だが、その行為が許され難いものであるほど、逆らい難い衝動が全身を突き上げる。刻一刻と激しさを増す。


「どうしてあなたはあの子を認めなかったのよ。誰かに愛されたかったんでしょう?それなら一番身近にあなたの事を愛してくれる人が居たでしょうが!」

 

その瞬間、彩奈を掻き回していた灼熱の濁流が、言葉となって迸った。

 

「知ったことかッ」

 

琴乃の顔が凍りつく。彩奈はもう限界だった。たまらない。そう、たまらない……。        

 

告別式会場が、一気に静まり返る。だが誰かが再び喋り出すと、破れたざわめきが紡ぎ直されていく。常に空気に染まる。合わせ、潜む。群衆の常だ。

 

そういう面では、正面から不躾にくるこの女のほうがマシかもしれない。 

 

あぁ、もう我慢できない。体の奥から、脈々と止まらない。溢れてしまうのを誰も止められない。

 

勝手なことを言うな。目を逸らせば許されると思うな。逃げられると思うな。

 

壊す。壊してやる。でないと壊れる。壊される。

 

「そうやって逃げ続けたんでしょ?姉と。その大事な親友とやらが死んで、自分を保てないんだ。だから私に当たる。私を貶め、姉に下らせるために。まるで生贄ですね」

 「やめなさい、あなたの妄言は聞きたくない。弱さから目を背け、押し付けているのはあなたよ」

 

彩奈は笑った。おかしかった。涙が出る。本当におかしくなりそうだ。

 

「好き勝手言いますねえ。さぞ姉とは馬が合ったでしょう。勝手な人でしたもの」

「よくそんなことが言えるわね、追い詰めた張本人が!あの子がどんなに辛かったか、惨めだったかわからないの?」

 

琴乃が冷たい非難を浴びせる。しかし彩奈の炎は消えなかった。どんなに氷のつぶてをぶつけても、触れた側から燃えていく。

 

「だから知ったことではありません。そもそも、私が生きる為にしていた事は彼女にもまた必要だった筈です。それで勝手に追い詰められたと言われても知りません。自分だって何かできることを探せばよかった」

 

先程の激情の欠片も見せず冷やかに彩奈は言葉を紡いだ。口を閉ざしている琴乃へと、彩奈の冷笑は矛先を変える。


「それに、あなたこそ何をしていたのですか。引きこもりではないでしょう。なら何に共感したのですか?助けてやれとは思わないけど、何の為に寄り添っていたの?あまつさえ自分の無力を棚上げにして私を責めるなんて。それこそ屑ってものじゃないですか」

 

何かを言おうと口を開いた琴乃に、彩奈はさらに畳みかける。もっと、まだまだ全然物足りない。私の気持ちだって受け止めてよ。いつも私ばっかりでしょう?

 

「ああ、それとも密かに見下して楽しんでたのかな。哀れな愛玩動物を」

「なん、ですって……!」

 

琴乃の悲痛な声に、彩奈は乾いた笑い声を上げた。

 

楽しい。自分だけは非難されないと高を括る愚民が慌てる様が、この上なく面白い。

 

幼い子供を彷彿させる残虐さが、黒い体液にまぎれてぬるりと現れる。 

 

多分、あの時から私の時間も止まったのだと、彩奈はどこか虚ろに思う。姉が止まったときに。

 

と言うより、あの頃の自分がずっと私に留まっている。歪められる前、無邪気な姿のままで。今の私を扇動する。

 

ぐちゃぐちゃにされたの。あなたみたいな人達に。私にだってぐちゃぐちゃにさせてよ。

 

そう彼女は歌いながら脳内を歩き、ささくれた正気を、花でも摘むが如くちぎっていく。はっきり、ブチッ……ブチッと、頭に響く。ちぎれた先から痛みが消える。

 

思考の切断面から迸る、暗赤色に視界が滲む。その中で女の顔だけが白く浮かぶ。

 

染めてやる。染めさせて。汚れた所を持って行って。

 

彩奈は首を小さく傾げながら、優しげな口調で言った。

 

「生きる価値を他人に依存しているのは、どっちですか?あなたたちは、まるで檻で舐め合うウサギです。可愛らしいこと」

 

琴乃の瞳が細くなるのがはっきりと見える。何か不服なのだろうか。もしそうだとしたら、とんだお笑い草というものだ。

 

愉快な気分で彩奈は続ける。


「でももう、独りぼっち。荒野に出ればまた誰かいるかもね。自殺行為かも知れないけど、寂しいなら丁度いいんじゃないですか。骨を拾う気はありませんが」

 

知った事か。もう一度彩奈は付け足す。何処か晴れやかに。

 

墨よりもどす黒い何かを、自分から琴乃に流し込む。粘度、密度、温度の高い黒々とした流動体は、焦がす様な、どこか香ばしい異臭を放つ。

 

無邪気な少女が笑っている。頬を濡らし、小さな両手に蠢く極彩色を束ねて。

 

彩奈も微笑した。もう自分を誰も縛れない。気に留めてやる必要もなかったのだ。私は存在するだけで私なのだ。誰も否定することは出来ない。誰の許しもいらない。そんなことも分からぬ者共に屈する訳はない。私の存在に誰も敵いっこない。

 

彼女は急速に確信を得つつあった。どれだけの人間が自分ほどの価値を示せるだろうか?なら、それほどの価値を持つ自分へ、どれだけ低俗な者が悪意を向けようと無駄なこと。一部の者が反旗を翻したとしても、私の価値や地位は揺るがない。

 

なにが、自分で自分を認めることは出来ないだ。私は私として在るだけで、他人に群がられるというのに。甘えるな。

 

彩奈の中で、全てが些細になっていく。姉の死が呼ぶしがらみも、目の前の女のちっぽけな抵抗も、何もかも。

 

こいつ一人が私に抗って来ようが、意に介することはない。その証拠に、みんな私を見つめているでしょ?崇め、羨み、妬んでいるでしょう?

 

私は、欲されているのだから。

 

「死ねる時に死ねばいいんですよ。寂しいだけで死ねるなら良かったんじゃないですか?私だって死ぬのは怖いんですから。そうそう、あなたはどうします?姉の後は追わない方が良いと思いますよ。いくら寂しくてもね」

 

彩奈が口を閉じた。沈黙が二人を繋いでいる。告別式会場のざわめきは夏の虫達のように感じられた。

 

やがて、琴乃が吐き捨てた。目にはかすかに涙が浮かんでいる。

 

「自分の醜さや無力を棚上げにしてるのはあなたよ。姉すら支えられない己を認めたくなくて、他人の評価に逃げてるだけ」

 

震える琴乃の言葉を、彩奈は鼻で笑った。それでも琴乃は口を閉ざさなかった。

 

「確かにあの子は弱かったわ。だけどそれ以上に優しかった。あの子の死は確かに、一時の混乱を生むかもしれない。でも、貴方にこれ以上疎まれたくなくて、己と貴方の解放を選んだの。なのにあなたは、結局姉の死を悼むことなく疎んでいる。気付いてんでしょ?」

「悪いですか?」

 

溜め息混じりの彩奈の言葉に、琴乃は絶句した。まだ疎んでいる事を認めまいとしていた先程の方が救いがある。琴乃は頭を振った。もう彼女に何を言っても無駄だ。愛する事も省みる事も失った彼女には。

 

「あなた、本当に屑ね……」

「骨よりマシですよ。ウサギさん」

 

琴乃は失望した。可哀想な奈美子。妹がこんなにも痛みを知れない者とは。あの子はいつも妹の事を気にしていたのに。どうしてあんなに美しかった子の妹が、こんなにもみすぼらしいんだろう。

 

私もつい取り乱してしまった。別に彼女を責めるために来た訳じゃないのに。ただ見届けに来ただけなのに、つい首を突っ込んでしまった。私の悪い癖だが、あまりにも奈美子が哀れだったのだ。

 

人と協調出来ない質だった私に寄り添い、話を聞いてくれた優しい奈美子。剥き出しのナイフを、そっと手で包むような。私にはとても信じられない行為だった。

 

かけがえのない唯一の理解者。その関係を舐め合いとは、私達の何を知っているというのだ。

 

以前あの子は言っていた。切ない笑みで、慈しむこと以外知らない様な声で。

 

「どうしてあげれば良いか解らない。何をしても疎まれそうで。きっと誰からも必要とされてもいないと思うと、脚がすくんで動けないの。あたしは、どこに行けばいいのかなあ」

 

その時私は、私はいつまでも一緒にいるからと言って彼女の手を取った。彼女は、照れるように、でも寂しげに微笑んだだけだった。

 

私がここに来たのは、手紙が届いたからだ。それと、彼女の書いた物語の原稿用紙の束が幾つも幾つも。どれも、彼女がこうありたいと願った思いの結晶だった。愛されたいと願い、それ以上に全てを等しく愛したいと願い、叶わなかった彼女の。

 

手紙の最後には、『あなたのおかげで寂しくなかったの。ありがとう。でも、ごめんなさい』とあった。そして、小さなウサギのストラップが、白く骨のように入っていた。彼女が昔、家の鍵に付けていたものだった。あの子は携帯を持っていなかった。

 

私は泣いた。泣くしか出来なかった。私では、力不足だった。私の出る幕では無かったのだ。私は彼女に救われたけど、彼女は私では救えなかった。

 

奈美子が苦しめられていた者にしか、奈美子は救えないのだ。どうしようもない矛盾を彼女は抱えていた。

 

そして、彼女が死んだわけは知った。後はその結果と、意味を見届けたかった。妹へどう接すれば良いか分からず、思い詰め、せめて厄介者では居たくないと命を絶った彼女には、見ることの叶わぬ結末を。

 

何があっても、最後まで自分を愛してくれるものが去ったと言う事が一体何を意味するのか、当の本人はどう考えているのかを。

 

自分の愛が妹を苦しめていると思いつめてしまった姉の、最後の愛について。

 

まさに生贄だろう。一時は世間に騒がれようとも、もう邪魔な自分に煩わされることはないと覚悟を決めた奈美子の行為は。そして確信した。

 

この妹は何も分かっていない。彼女には、他者を愛し救うことは出来ない。あろうことか奈美子を卑下する。悔しくて仕方なかった。

 

自制が利かなかったのは恥ずかしい。的外れな事も言ったかもしれない。しかしこれだけは言える。この世に必要なのは愛の対象ではなく、愛してくれる存在だ。

 

奈美子はそれになれる、いや、なれた。既になったのだ。だから私はこの物語を世に送り出す。私を救ってくれた人の贈り物を。きっと、たくさんの誰かを救うであろう宝物を。

 

彼女がこれを託してきたのは、それを私は出来るからだ。人を見出す者として。一人の友人として。彩奈と奈美子、どちらが最後に愛されるかは、今にわかるだろう。

 

(すぐにあなたも朽ち果てる。それを待たずして他を愛さないあなたは捨てられる。そしてその時、あなたを支えてくれた筈の人は居ない。一人ぼっちのあなたは、許しと愛を乞い焦がれずにいられるかしら?)

 

しかしもう琴乃は何も言わなかった。震える瞳は凍りつく様に動きを止め、彼女は会場を後にした。

 

外へ出た琴乃を、開放感に満ちた静けさと冬の冷気が包んだ。ちらほらと雪さえ舞っている。彼女は早足で駐車場の車に乗り込み、帰路に着く。

 

エアコンの温もりを待ち侘びながら、彼女は白いため息を吐いた。

 

(あなたは、雪は苦手だったわね。奈美子)

 

まだ二人が高校生だった時、雪を眺めながら放課後の教室で課題をした。奈美子は当時、親の離婚に傷付いてあまり学校に来なくなっていた。溜まる一方の課題を見かね、琴乃は手伝いを申し出たのだ。

 

申し訳なさそうな奈美子に、琴乃は奈美子が得意そうな話題を振った。

 

「雪ってさ、良く物語に使われるでしょ。あなたならどう使う?」

 

奈美子は以前からたくさんの本を読んでいた。何かを求めるように。琴乃も本が好きだった。対照的な二人の間に、強い繋がりを本は作ってくれた。

 

突然の質問に、奈美子はしばらく答えなかった。彼女はいつも言葉を選ぶ。その姿が琴乃は好きだった。何かあれば彼女は奈美子と言葉を交わしていた。

 

「わたしは、あまり雪は使いたくないな」

「え、どうして」

 

奈美子ならきっと綺麗に使うだろうと、琴乃は密かに期待していたから、落胆に似た驚きを感じる。

 

奈美子は哀れむように雪を見つめ、言う。

 

「きっと、感傷的な話にしちゃうから。綺麗だけど冷たくて脆い雪は、苦手。あと桜も苦手。どうして待ってくれないのって、消えないでって願うわたしがいる。自分勝手だよね」

 

感傷的の極致とも言えるその台詞は、何故か琴乃に強く痕を残した。奈美子の本質、全てを全てから守ろうとする心。その暴走。それは自分では持ちえず、理解しえない物だった。

 

(この子は、他を愛しすぎている……)

 

いつか耐えられなくなるのではないか、いや、すでに押し潰され始めているのではないか。

 

琴乃は焦燥を覚えた。だが何が奈美子を癒し得るのか、彼女には見当もつかなかった。誰かがこの子を支え、守ってやらねばならない。しかし、自分にそれが可能だろうか。

 

雪が溶け、花が散るように。定めの如く彼女が消える。そんな情景に琴乃は怯えた。

 

「奈美子、あなたは去ったりしないわよね?」

 

それは哀願だった。しかし奈美子は、それにこたえなかった。

 

ようやく車の暖房が琴乃を慰め始めたころ、彩奈は母と骨を拾う。彩奈達が広くなった家に戻る時、二人はそれぞれもう一つの白い遺物を手に取る事になる。

 

過去から送られてくる手紙を。


 

『彩奈へ。今この手紙を、わたしは部屋で書いています。あなたに顔も見せず、一人で。

 

正直なところ、あなたに何を記せば良いか分からない。きっとわたしが間違いだらけだからなんだろうと思います。今も手が震えて、書くのが怖い。わたしは愚か者だから。だけどこれだけは伝えなくてはと思い、ペンを取る事にしました。

 

彩奈、わたしはあなたに憎まれたい。どうかわたしを踏みにじって行って。

 

わたしにはそれしか出来ない。膝をつき、歩くことを諦め、あなたやお母さんに負ぶさり始めた瞬間から、わたしも消え去るべきだった。

 

わたしは、未練がましい人間です。それでも一緒に居ようとしてしまったの。その資格はとっくに自分で捨てていたのに。最低です。

 

怖かった。何もかもが。わたしも何かを見捨てて歩んできたのだろう、傷付けてきたのだろう、この先もそうして生きてしまうのだろう。そう思うと、足がすくむの。そして責任や罪を恐れ、ぬくぬくと自分だけ安寧を望んでしまった。あなたたちに縋り甘えて、意地汚く生きてしまった。

 

どうしてこの身は溶けて消えないんだろう。さっさと朽ちてしまえば誰も困らないのに。そんな他力本願な事ばかり考えていました。わたしはいつも逃げていた。この手紙も、逃げ。卑怯な事だとは分かっているけど、それももうこれまでです。

 

結局、償いらしい事もせずわたしはあなた達からも逃げてしまう。だから、憎んで下さい。わたしの身勝手な行いを許さず、踏みつけて越えて行って。

 

ごめんなさい、彩奈。最後の最後まで迷惑を掛けるね。誰も傷付けたくない、誰にも傷付けられたくないなんて虫の良い事、あなたが居なければ言っている場合じゃなかったのに。のうのうと負ぶさって生き、尻拭いもせずに死ぬ勝手なわたしを許さないでください。

 

この手紙は、わたしが死んでから届くようにします。ある友人にも実は手紙を送っているから、同じくらいの時期に読んで欲しくて。わたしは彼女も裏切ってしまう。でも、それでいい。わたしに煩わされる者は、これで居なくなる。

 

生まれてこない方が、あなたのために良かった。はずなのにわたしは存在を続けている。死のうにも、最早あなたに迷惑をかけない方法が見つからない。どうすればいいか分からない。

 

なので、考え方を変えました。自分のために死のうと。あなたのためではなく、自分が死にたいから死ぬ。別にいいでしょ最後ぐらい、ってね?

 

そして試すことにしました。わたしは死ねるのか、自分のためだけに楽しみながら死を選べるのかを。ただ興味の延長線上だけで一線を超えられてしまうのかを。完全なエゴによって。

 

だから彩奈、あなたも自由に生きてね。わたしももう何も省みないから。

 

実はね、今とても気楽なの。すべては些細なことだったと思えるの。

 

あ、いまきっとあなた怪訝な顔してる。それでいいんだよ。もう何も気にしないで良くなる、なんて思ってる身勝手な姉を憎んで欲しい。

 

死はね、自由なの。最後の幸せ。ひとりだけの世界。なにも煩わされない、傷つけ合う事もない世界。きっと安らかな心地で居られる、ふるさと。

 

本当にあるんだね、楽園って。全てから解放される所なんてどこにも無いと思ってた。でも、見つけた。あとはわたしがそこに去れば、周りのみんなも解放される。

 

ううん、違うな。これも言い訳だね。そう、わたしはただ死にたいだけ。全てから逃れたいだけ。考える事、悩む事、努力すること、傷つくこと、傷つけること。生きていれば当たり前の喜びや悲しみが怖くて鬱陶しくて仕方ないだけ……。だから死にたいの。純粋に『死』を選びたいの。『生き方』の一つとして。

 

だからわたしはこの死に方を選ぼうと思う。道具にも頼らず、自分の意志で自分を殺してみせる。ここまでわたしは生を拒めるんだ、死が私の生き方なんだって事を示すために。息を止めて息絶える、そんな死に方を。

 

本当にわたしにそんなことが出来るかな。逃げ続けたわたしに。でも、だからこそこれは最後の挑戦。自己満足に満ちた、しかしわたしにとっては有意義な遊び、かつ試練。何もかもに背を向けてきたわたしに見えた狭き門。そしてそれは、わたしを受け入れると思う。

 

ごめんね、一人勝手に救われた気になって。だから憎んで?誰かがわたしを憎む限り、わたしはその誰かの支えになれるから。そうであれば、わたしは嬉しい。

 

もう、お別れ。せめてあなたは、そっちで自由になれる事を願っています。今までありがとう。さよなら。あやちゃん』


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哀願動物 あどのあこう @pohezou0313

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